自分を追い込む環境にいられるならば、それを幸せに思え。

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今日は、陶芸家宗像利浩さんの個展を、日本橋三越本店に見に行った。

宗像利浩さんは、享保四年(1718年)から続く宗像窯の八代目当主であり、僕が会津でインタビューをさせていただいた人。宗像さんは1997年の日本陶芸展で自身の名を含めた作品「利鉢」で準大賞を受賞し、その後2003年の同展覧会では文部科学大臣賞を受賞した。また、宗像窯伝来のにしん鉢は、六代目豊意氏の時にベルギーで行われた万国博覧会で最高賞のグランプリを受賞し、今でも国内国外からの注目を浴びている。宗像窯への秩父宮妃殿下の来訪もあったらしい。(ちなみに、宗像窯のにしん鉢は先日銀座の松屋銀座で行われていた「DESIGN BUSSAN NIPPON展」でも福島の物産としても出品されていた。)


その宗像さんは、本当に腰が低く、言葉を選んで話をしてくれる人。会津でインタビューをした際も、陶芸について何も知らない僕たちが発する初歩的な質問に対して、一つ一つ丁寧に答えてくださった。(インタビューについても、いずれまとめます。)

宗像さんが陶器の作り手として追い求められていることは、「用の美」だという。つまり「美」は作品としての茶碗や壷にあるのではなく、使われる過程の中に「美」があるということ。使われる中で茶碗が視覚・触覚に存在感を放ち、それが食事と一体となって食事を美味しくさせるところに、「美」あるというのだ。宗像さんは、「自分にとって出来がいいとか悪いとかはあるけれど、使われる方が自分にとって一番いい茶碗を選んで、それを大切に使われれば、次に自分が見た時に「いいと思うもの」と「悪いと思うもの」が逆になっていることがある。」と言う。それくらい使われる中で陶器(ここでは茶碗)が変化していくのだそうだ。


今日改めて宗像さんの作品を見させていただいて、やはり「本物」という存在感があった。特に触ると違いが分かる。肌ざわりはもちろん、手にのせた時の重さや重心に一つ一つ個性があって、自分に合うやつを見つけると、持っていて本当に「気持ちいい」。さらに上薬のかかりかたなどでいろいろな表情をしていて、「これにご飯よそったらどんなになるんだ?」と想像すると、それぞれ違ったイメージと美味しさが浮かぶ。

ちょっと余談だけど、「本物」ってその人の感覚に今までになかった感覚を植え付けるもののような気がします。評論家じゃないからうまく説明はできないけれど、「本物」は、作品にある色や形が持つ「きれいだなあ」という感覚に、さらに深い意味を付け加える。その意味は言葉ではうまく言い表せないから「きれいだなあ」しか言えないのだけれど、でも自分の「きれい」の意味の中に今までに感じられていなかった感覚や感情が残る。「ああ、こういうきれいさがあるのか」みたいな感じ。
さらに作品かはその作り手の想いだとか熱意、緊張感といったものが染み出しており、それにまたドキドキさせられる。もし自分でそういう力を持つものに出会ったならば、それは「本物」と呼んでもいいような気がしました。分かりにくくてすみません。

今日が初日だったのに、ウン十万の茶碗や鉢のほとんどに買い手が付いていた。一つ「これ欲しい!!!」と思った茶碗もあったが、自分が欲しいカメラが3つくらい買える値段なので、とりあえず触りまくって持ちまくって、感覚だけでも持ち帰ってきた。


個展の中で、宗像さんが時間を作ってくださったので、また少しお話をさせていただくことができた。今回のお話の中で非常に印象的であったのが、「自分を追い込む環境にいられるならば、それを幸せに思え。」ということ。

宗像さんは「自分の理想とするまであと少しだと分かっているんだけれど、その少しが遠い」という経験を幾度もされてきたそうだ。その間は苦しくて、もう無理じゃないかと何度も思われたそう。また話されてはいなかったが、そこには宗像窯八代目としてのプレッシャーや責任が重くのしかかっていたことは容易に想像できる。しかし、そういう時宗像さんは「これはチャンス。自分自身に革命を起こせる大きなチャンスである。」と考えるそうだ。


「人は自分の最大限の力は出せないもの。その力というのは、ギリギリまで追い込まれなければ出てこない。ということは、そういう苦しい時は自分の最大限の力を引き出すチャンスになる。その苦しい時を越えられたなら、その時は自分が今まで届かなかったものに届いているはず。」


やはり幾度とそれを体現されている方の言葉には、説得力がある。自分はどうなのかと振り返ると、お恥ずかしい限り。まだまだ自分を追い込めていない。都合のいい言い訳を探して、自分を正当化ばかりしている。


さらに、100キロマラソンと50キロマラソンをした人の例をあげられた。あるグループが100キロマラソンをしたのだが、ゴール直前に苦しくなり、ゴール出来なかった。とりあえず最初は50キロマラソンから始めようということで同じグループで50キロマラソンに挑戦したのだが、結局50キロマラソンでもゴール直前は苦しかった。

宗像さんは、掲げる目標は常に、「妥当な目標のはるか上」に設定しているそうだ。これもマラソンの例えと一緒で、「どうせやるなら高い位置にしておいた方がパフォーマンスは高くなるし、大変なのはどちらも一緒だから。」という理由だそう。昔、「100点を取りにいかないと、80点は取れない」という名言があったけど、やはり目標を高くし、そこまで行ってやろうとする中で、いいパフォーマンスが生まれてくるということだろうか。


個展で触れた「本物」に感動しきっていた僕だが、それを生み出している人は「追い込む」という言葉を大切にされていた。この「追い込み」→「不安・苦しみ」→「自分革命」→「追い込み」→・・・・というサイクルが、「本物」を生み出しているのだなー。そうすると、自分にもこの「追い込み」次第では、まだまだ隠された力を表出化できるということになる。これはまたワクワクしてくる。




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プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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このページは、kenjiが2008年9月 3日 01:47に書いたブログ記事です。

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