2008年10月アーカイブ
さっき、家のブザーが鳴った。
「おはようございます~!」
めっちゃでかい声。
ドアを開けると、ニカッと笑うおじちゃんが立ってた。
おじちゃん「おう!お兄ちゃん!おはよ~!いい天気だね~!」
kenji「どうも。おはようございます。」
おじちゃん「オレ、○○新聞の売り込みなんだけどさ、今何新聞とってる?」
kenji「新聞ですか?ああ、ウチは新聞いらないんで。」
おじちゃん「まあまあ、もう少し話してよ。こんな仕事してるとつまらないんだよ。なんで新聞いらないのさ?今の時代はものすごく必要だと思うよ。大変だぜ今。」
kenji「大学にあるんですよ。ウチお金ないから節約中なんです。僕は大学、親は会社で読みたいときに勝手に読んでもらいます。前にあったけど、毎日はなかなか読まないですからね。」
おじちゃん「そうなんか?オレなんか新聞屋だから毎日読み放題よ。しかも他のもしっかり読むから情報通よ(笑) もう政治にしたって経済にしたって。情報の使い道はないけど(笑)」
kenji「ははは(笑)」
おじちゃん「例えば麻生さんにしたってさ・・・・」
・
・
・
このまま30分くらい話した。最後に「ねえ、新聞3か月だけとってくれないかな~~~?」と子供のように言われたが、「無理ですね~。本当にお金ないんです。」と断固拒否した。
めっちゃいい空気感持ってる、昭和のおじちゃんという感じの人。あれは「新聞なんかいらないわ!!」って気持ちでいたとしても、心を揺らされるなあ。「バカ野郎!」とガチャンッと、ドアを閉めたくても、閉められるような嫌な人じゃないし。
営業って意味でも、結構色んな情報を持ってかれちゃったかなとも思う。でも昔は「界隈の情報屋さん」みたいな人は、あんな感じでいろんな人から情報を集めていたんだろうな。その人が営業って職に就いたという感じ。話の最後の「新聞3か月だけ、とってくれないかな~。」で、とっちゃう人も多いだろうな。
こういう年の取り方をするのも悪くないなと感じた、kenjiでございました。
「おはようございます~!」
めっちゃでかい声。
ドアを開けると、ニカッと笑うおじちゃんが立ってた。
おじちゃん「おう!お兄ちゃん!おはよ~!いい天気だね~!」
kenji「どうも。おはようございます。」
おじちゃん「オレ、○○新聞の売り込みなんだけどさ、今何新聞とってる?」
kenji「新聞ですか?ああ、ウチは新聞いらないんで。」
おじちゃん「まあまあ、もう少し話してよ。こんな仕事してるとつまらないんだよ。なんで新聞いらないのさ?今の時代はものすごく必要だと思うよ。大変だぜ今。」
kenji「大学にあるんですよ。ウチお金ないから節約中なんです。僕は大学、親は会社で読みたいときに勝手に読んでもらいます。前にあったけど、毎日はなかなか読まないですからね。」
おじちゃん「そうなんか?オレなんか新聞屋だから毎日読み放題よ。しかも他のもしっかり読むから情報通よ(笑) もう政治にしたって経済にしたって。情報の使い道はないけど(笑)」
kenji「ははは(笑)」
おじちゃん「例えば麻生さんにしたってさ・・・・」
・
・
・
このまま30分くらい話した。最後に「ねえ、新聞3か月だけとってくれないかな~~~?」と子供のように言われたが、「無理ですね~。本当にお金ないんです。」と断固拒否した。
めっちゃいい空気感持ってる、昭和のおじちゃんという感じの人。あれは「新聞なんかいらないわ!!」って気持ちでいたとしても、心を揺らされるなあ。「バカ野郎!」とガチャンッと、ドアを閉めたくても、閉められるような嫌な人じゃないし。
営業って意味でも、結構色んな情報を持ってかれちゃったかなとも思う。でも昔は「界隈の情報屋さん」みたいな人は、あんな感じでいろんな人から情報を集めていたんだろうな。その人が営業って職に就いたという感じ。話の最後の「新聞3か月だけ、とってくれないかな~。」で、とっちゃう人も多いだろうな。
こういう年の取り方をするのも悪くないなと感じた、kenjiでございました。
ちょっと前のニュースになっちゃうんですけど、9.11の真相究明活動をしている人が、今年のノーベル平和賞にノミネートされていたそうです。知ってました?びっくりしました。
ここで英語のニュースが読めます。
→ 9/11 Truth Norway: 9/11 Truth nominated for the Nobel Peace Prize 2008
デヴィッド・レイ・グリフィンという方がリーダーみたいで、このノミネートをノーベル平和賞委員会に推薦したのは、地元ノルウェーの国会議員や大学教授たちみたいです。ノミネートとかって、簡単に受理されるんですかね?
で、いろいろネットで見てみたら、国会議員の藤田幸久参議院議員という方はしきりに、9.11の真相についてを国会で質問しているみたいですね。そんなネタになりそうな話でも、全くマスコミは取り上げない。まあ、そういうことなんでしょうね。
11月3日(月)に、このデヴィッドさんがいらして第2回911真相究明国際会議というのが開かれるのだとか。どんな話をするんだろう。行ってみよかな。
→第2回911真相究明国際会議
ここで英語のニュースが読めます。
→ 9/11 Truth Norway: 9/11 Truth nominated for the Nobel Peace Prize 2008
デヴィッド・レイ・グリフィンという方がリーダーみたいで、このノミネートをノーベル平和賞委員会に推薦したのは、地元ノルウェーの国会議員や大学教授たちみたいです。ノミネートとかって、簡単に受理されるんですかね?
で、いろいろネットで見てみたら、国会議員の藤田幸久参議院議員という方はしきりに、9.11の真相についてを国会で質問しているみたいですね。そんなネタになりそうな話でも、全くマスコミは取り上げない。まあ、そういうことなんでしょうね。
11月3日(月)に、このデヴィッドさんがいらして第2回911真相究明国際会議というのが開かれるのだとか。どんな話をするんだろう。行ってみよかな。
→第2回911真相究明国際会議
(これは研究会での学びをまとめたものです。めっちゃ長いです。)
今回の研究会では、先生の「弱さのジャンプ」についての分析を行った。
自分が読んでみて感じたことは、ココにまとめてある。しかし、この度「分析する」という観点で読み解いていった時、自分が何の疑問も抱かずに読み飛ばしていた部分に「大きなメッセージ」が含まれていることに気づいた。こういう機会を与えられていることには、恵まれているなあとつくづく思う。
まず、サイモンが「合理的行動」に述べた中で、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」という二つの対立させて考えられている価値観について、掘り下げて考えた。
この「合理的人間観」とは何か。
合理的人間観とは、自己利益の追求が第一のため、他人を蹴落としたりする「機会主義的行動」を取る価値観のことを指す。完全な競争社会の中で勝ち抜こうとしたときに、しばしばこの価値観が前に出すぎて問題が発生することもある。他の例では、政治家の横領など権限の悪用。自分の利益追及が第一になってしまうと、権限を使って自分の都合のいいように行動してしまう。
話は逸れるが、この権限の悪用は、捕まらなかったら合理的選択になる。捕まらないのであれば、自分の利益追求のための最良の手段になる。しかし、捕まったら、それは合理的選択ではなくなるわけですね。それでは権限の悪用を合理的選択にしないようにするにはどうすればいいのか?
罰則を大きいものにして、悪用の抑止力にするという考え方もある。また、周りの人が監視をして、それを防止するという考え方もある。しかしそこで監査などを入れるとお金がかかってしまう。ではお金をかけずに権限の悪用を見守る役目をするものは何か?それが、マスコミである。マスコミが国民に代わってに監査をするわけですね。近頃各新聞などによる政治家汚職のすっぱ抜きや批判が多いのは、「自分たちが監査役として機能していますよ!」というアピールなのだと先生は指摘されていた。(研究会なので、ちょいちょい話題は逸れます。そこもまとめています。)
次に、「ボランティア的人間観」について。ボランティア人間観は、自分の利益追求ではない面で、人の役に立つ・進んで協力するといった価値観であるわけです。
この論文では、この「合理的人間観」と「ボランティア人間観」はそれぞれ矛盾する二つの価値観として書かれている。しかし、この二つの価値観とは本当に相反するものなのか、これを同じくして考えることはできないのか。ここがこの論文の一つのポイントである所だった。
これについては、いくつかの視点を持って考えられる。その一つとして「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」ということがある。それをエコ住宅の売買を例に考えてみた。
住宅を販売するA社がある。A社にとっての合理的選択は、「会社の利益を増大すること」であるから、いい家だろうと悪い家だろうと、会社の利益につながる売買であれば積極的に行う。
その中で、近年のエコの流れから、国が「エコ住宅」を推奨するようになった。
ここでA社に「エコ住宅はエコにとって必要なものだから、売りたいなあ」というボランティア的人間観が芽生えたとする。しかし、A社にとってまだ「合理的な選択」はできるだけコストを低いもので、高く販売することであり、建築コストのかかる「エコ住宅」は販売料金も高くなってしまうので、買い手はあまり買ってくれないだろう。であれば、エコ住宅を売買する必要はない。
そこで国は、「買い手がエコ住宅を買う際に、補助金を出して安く買わせてあげます」という法律を作ったとする。これがA社の「ボランティア人間観を合理的選択肢にする」ことにつながる。
つまり、A社はいい家でも悪い家でも高く売ることが合理的選択肢であったのが、「エコ住宅を買うことで売り手に補助金を与える」という法律が、例え販売額的には同じでも、「エコ住宅を売ることは必要なことだ」というA社の「ボランティア的人間観」によって、エコ住宅販売>普通の家販売という構造をもたらす。また買い手も「エコ住宅の方が、環境に優しいことをしていて気持ちいい」という考えにつながることになる。これによって、エコ住宅はどんどん広がっていくわけで、この「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」という考えを実行に移すには、この例の場合は、政府の補助金が必要であったということになる。
ここで大切なことは、前提として「プレイヤー(ここで言う企業)はボランティア人間観だけでは、行動はできない。それを受け入れる。」ということだ。ここでの解決策は、「ボランティア的人間観」を「合理的な選択肢にすればいい」という話であった。この論文では前提として「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」は矛盾して書かれているが、この矛盾を乗り越えるには、この「前提を受け入れた上で」、どういった解決策があるかを考えることが大切になる。
また、「ボランティア的人間観に基づく行為だけど、合理的選択が伴うものにした。」というケースもある。簡単に言うと、新しい市場を作ったというケースになる。
フローレンスという病児保育を引き受ける活動を行っているNPOがある。
→NPOフローレンス
このNPOでは、今まで病児保育をボランティアとして引き受けていた人をまとめて、ただ「御願いします」ではなく、お金を払うモデルを作った。ただ「ボランティア的人間観」で行動をしていた人たちの選択肢に、「合理的選択」の要素を入れたわけだ。
上記二つのケースを見る限り、どちらのケースも「ボランティア的人間観であり、かつ合理的人間観で行動する」という、二つの価値観を超えるつながりを作りだしていることがうかがえる。この辺りを、ソーシャル・イノベーションだと呼ぶのだそう。そのきっかけを作る力は、エコ住宅では「国からの補助金」であり、フローレンスでは「新しい市場を作る」であったが、今仮に、「ボランティア人間観」だけで行動を起こしているモデルがあるとするならば、どうしたらそこに「合理的選択肢」を加えられるかを考える。
よく考え違いを起こしがちなのは、「合理的選択」だと思いながらも、その選択肢は「その人にとっては最善ではない選択」を迫ってしまっている状態。これは合理的選択の中にある種のボランティア的人間観が入ってきてしまっている状態とも言えるかもしれない。しかし人は自分の欲求に対し常に合理的な選択をするという仮定の上では、この行動は長続きしないし、何より人は自分にとって「合理的選択」をできているときが一番長続きがする。長期的に考える上でも、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」を重ね合わせるならば、「これをしたら自分にとって最善であり、かつ周りの人にとっても最善である」という仕組みを作らなければいけない。
ではその上で、二つのレベルの視点が出てきたらどうであろうか。
ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」は、プレイヤー1と2はそれぞれ、自分にとって合理的な選択をすると、結果として非合理な状態に陥ることを意味したものである。
→囚人のジレンマ
エコ住宅の例では、補助金を出して「個人」レベルにとって合理的な選択をすると、「社会」レベルでも合理的な選択になっていた。しかし、この場合では「個人」レベルで合理的選択をすると、「社会」レベルで合理的でなくなるところに特徴があり、そこがジレンマであるとされる。
ケネス・アローが言う民主社会の解決策では、解決方法は3つあるそうだ。
1つ目は法律を作って、罰則を作る ⇒ 権限による解決
2つ目は一番安くていいものを作る人が、勝ち残る ⇒ 市場による解決
3つ目はそれぞれが良くなるようなもの ⇒ コミュニティによる解決(自分だけ儲かるのではなくて、皆が儲かればいいでしょ。)
これはつまり、「民主社会は、民主的に決めるか、経済で決めるか、権力で決めるか。」があるということであるが、アローは「民主的解決では、社会の解決にはならない。」ということを証明したらしい。
例えばここに、プレイヤーが3人(いちろー、まつい、いわむら)いる。彼らはそれぞれA,B,Cの中から、自分は「何よりも何が好ましい」と主張し合っており、多数決で物事を決めようとしている。
いちろー
B<A ●
C<B ▲
C<A
まつい
C<B ▲
A<C ■
A<B
いわむら
A<C ■
B<A ●
B<C
彼らがこう主張したとき、多数決で選ぶならば、
B<A
A<C
C<B
という順序になり、多数決だけでは決まらないことが分かる。
「囚人のジレンマ」は現在の社会決定のモデルと言われるが、囚人のジレンマを見ても、上記の多数決の結果を見ても、個人がそれぞれ自分の「合理的選択」をしただけでの「民主的な決定」では、問題の解決には至らない。
その中で、既存のジレンマなり問題を乗り越える考え方として必要になってくるのが、「弱さ」であると先生は言われる。
今までの社会は「強さ」が問題解決の役割を担ってきた。「強さ」とはいわゆる既存の権力や高い地位を持つ存在で、それらによる「合理的選択」や「権力による意思決定」は正しいものとされ、彼らの「個人レベル」での問題解決が優先されてきた。しかし、その結果「社会レベル」で様々な問題が顕在化してきている。つまり、現代では強い力だけでは問題は解決しなくなってきた。
今後の社会には、「強さからの視点」では価値がないと思われていたことに対して、価値を見出せる「弱さからの視点」が必要になってくるのではないか。「弱さ」とは今までの社会構造の中では低い力でしかなかった存在であるが、今後の社会では「強さ」だけでは解決できなかった問題を、「弱さ」視点から捉えて物事に価値を見出し、問題解決に迫ることが必要とされるのではないか。つまり、価値観・考え方のパラダイムシフトを起こすということである。そうすれば、今まで低い地位でしかなかった存在が価値を持ち始めてくるわけだから、社会全体の価値が上がってくる。
そしてこの弱い存在からの自発的な力が、経済システム・合理性に関与するのが、社会起業・ソーシャルイノベーションだと言えるのではないか。これが、今回の話が言わんとしているところでした。
今までは弱いと思われていた存在から、社会に価値を生み出す。非合理的な選択だったことを合理的な選択にして、価値がなかったものから価値が生まれれば、社会が良くなる。というわけでした。
ノートまとめただけなんだけど、すごく疲れた・・・・。
今回の研究会では、先生の「弱さのジャンプ」についての分析を行った。
自分が読んでみて感じたことは、ココにまとめてある。しかし、この度「分析する」という観点で読み解いていった時、自分が何の疑問も抱かずに読み飛ばしていた部分に「大きなメッセージ」が含まれていることに気づいた。こういう機会を与えられていることには、恵まれているなあとつくづく思う。
まず、サイモンが「合理的行動」に述べた中で、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」という二つの対立させて考えられている価値観について、掘り下げて考えた。
この「合理的人間観」とは何か。
合理的人間観とは、自己利益の追求が第一のため、他人を蹴落としたりする「機会主義的行動」を取る価値観のことを指す。完全な競争社会の中で勝ち抜こうとしたときに、しばしばこの価値観が前に出すぎて問題が発生することもある。他の例では、政治家の横領など権限の悪用。自分の利益追及が第一になってしまうと、権限を使って自分の都合のいいように行動してしまう。
話は逸れるが、この権限の悪用は、捕まらなかったら合理的選択になる。捕まらないのであれば、自分の利益追求のための最良の手段になる。しかし、捕まったら、それは合理的選択ではなくなるわけですね。それでは権限の悪用を合理的選択にしないようにするにはどうすればいいのか?
罰則を大きいものにして、悪用の抑止力にするという考え方もある。また、周りの人が監視をして、それを防止するという考え方もある。しかしそこで監査などを入れるとお金がかかってしまう。ではお金をかけずに権限の悪用を見守る役目をするものは何か?それが、マスコミである。マスコミが国民に代わってに監査をするわけですね。近頃各新聞などによる政治家汚職のすっぱ抜きや批判が多いのは、「自分たちが監査役として機能していますよ!」というアピールなのだと先生は指摘されていた。(研究会なので、ちょいちょい話題は逸れます。そこもまとめています。)
次に、「ボランティア的人間観」について。ボランティア人間観は、自分の利益追求ではない面で、人の役に立つ・進んで協力するといった価値観であるわけです。
この論文では、この「合理的人間観」と「ボランティア人間観」はそれぞれ矛盾する二つの価値観として書かれている。しかし、この二つの価値観とは本当に相反するものなのか、これを同じくして考えることはできないのか。ここがこの論文の一つのポイントである所だった。
これについては、いくつかの視点を持って考えられる。その一つとして「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」ということがある。それをエコ住宅の売買を例に考えてみた。
住宅を販売するA社がある。A社にとっての合理的選択は、「会社の利益を増大すること」であるから、いい家だろうと悪い家だろうと、会社の利益につながる売買であれば積極的に行う。
その中で、近年のエコの流れから、国が「エコ住宅」を推奨するようになった。
ここでA社に「エコ住宅はエコにとって必要なものだから、売りたいなあ」というボランティア的人間観が芽生えたとする。しかし、A社にとってまだ「合理的な選択」はできるだけコストを低いもので、高く販売することであり、建築コストのかかる「エコ住宅」は販売料金も高くなってしまうので、買い手はあまり買ってくれないだろう。であれば、エコ住宅を売買する必要はない。
そこで国は、「買い手がエコ住宅を買う際に、補助金を出して安く買わせてあげます」という法律を作ったとする。これがA社の「ボランティア人間観を合理的選択肢にする」ことにつながる。
つまり、A社はいい家でも悪い家でも高く売ることが合理的選択肢であったのが、「エコ住宅を買うことで売り手に補助金を与える」という法律が、例え販売額的には同じでも、「エコ住宅を売ることは必要なことだ」というA社の「ボランティア的人間観」によって、エコ住宅販売>普通の家販売という構造をもたらす。また買い手も「エコ住宅の方が、環境に優しいことをしていて気持ちいい」という考えにつながることになる。これによって、エコ住宅はどんどん広がっていくわけで、この「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」という考えを実行に移すには、この例の場合は、政府の補助金が必要であったということになる。
ここで大切なことは、前提として「プレイヤー(ここで言う企業)はボランティア人間観だけでは、行動はできない。それを受け入れる。」ということだ。ここでの解決策は、「ボランティア的人間観」を「合理的な選択肢にすればいい」という話であった。この論文では前提として「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」は矛盾して書かれているが、この矛盾を乗り越えるには、この「前提を受け入れた上で」、どういった解決策があるかを考えることが大切になる。
また、「ボランティア的人間観に基づく行為だけど、合理的選択が伴うものにした。」というケースもある。簡単に言うと、新しい市場を作ったというケースになる。
フローレンスという病児保育を引き受ける活動を行っているNPOがある。
→NPOフローレンス
このNPOでは、今まで病児保育をボランティアとして引き受けていた人をまとめて、ただ「御願いします」ではなく、お金を払うモデルを作った。ただ「ボランティア的人間観」で行動をしていた人たちの選択肢に、「合理的選択」の要素を入れたわけだ。
上記二つのケースを見る限り、どちらのケースも「ボランティア的人間観であり、かつ合理的人間観で行動する」という、二つの価値観を超えるつながりを作りだしていることがうかがえる。この辺りを、ソーシャル・イノベーションだと呼ぶのだそう。そのきっかけを作る力は、エコ住宅では「国からの補助金」であり、フローレンスでは「新しい市場を作る」であったが、今仮に、「ボランティア人間観」だけで行動を起こしているモデルがあるとするならば、どうしたらそこに「合理的選択肢」を加えられるかを考える。
よく考え違いを起こしがちなのは、「合理的選択」だと思いながらも、その選択肢は「その人にとっては最善ではない選択」を迫ってしまっている状態。これは合理的選択の中にある種のボランティア的人間観が入ってきてしまっている状態とも言えるかもしれない。しかし人は自分の欲求に対し常に合理的な選択をするという仮定の上では、この行動は長続きしないし、何より人は自分にとって「合理的選択」をできているときが一番長続きがする。長期的に考える上でも、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」を重ね合わせるならば、「これをしたら自分にとって最善であり、かつ周りの人にとっても最善である」という仕組みを作らなければいけない。
ではその上で、二つのレベルの視点が出てきたらどうであろうか。
ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」は、プレイヤー1と2はそれぞれ、自分にとって合理的な選択をすると、結果として非合理な状態に陥ることを意味したものである。
→囚人のジレンマ
エコ住宅の例では、補助金を出して「個人」レベルにとって合理的な選択をすると、「社会」レベルでも合理的な選択になっていた。しかし、この場合では「個人」レベルで合理的選択をすると、「社会」レベルで合理的でなくなるところに特徴があり、そこがジレンマであるとされる。
ケネス・アローが言う民主社会の解決策では、解決方法は3つあるそうだ。
1つ目は法律を作って、罰則を作る ⇒ 権限による解決
2つ目は一番安くていいものを作る人が、勝ち残る ⇒ 市場による解決
3つ目はそれぞれが良くなるようなもの ⇒ コミュニティによる解決(自分だけ儲かるのではなくて、皆が儲かればいいでしょ。)
これはつまり、「民主社会は、民主的に決めるか、経済で決めるか、権力で決めるか。」があるということであるが、アローは「民主的解決では、社会の解決にはならない。」ということを証明したらしい。
例えばここに、プレイヤーが3人(いちろー、まつい、いわむら)いる。彼らはそれぞれA,B,Cの中から、自分は「何よりも何が好ましい」と主張し合っており、多数決で物事を決めようとしている。
いちろー
B<A ●
C<B ▲
C<A
まつい
C<B ▲
A<C ■
A<B
いわむら
A<C ■
B<A ●
B<C
彼らがこう主張したとき、多数決で選ぶならば、
B<A
A<C
C<B
という順序になり、多数決だけでは決まらないことが分かる。
「囚人のジレンマ」は現在の社会決定のモデルと言われるが、囚人のジレンマを見ても、上記の多数決の結果を見ても、個人がそれぞれ自分の「合理的選択」をしただけでの「民主的な決定」では、問題の解決には至らない。
その中で、既存のジレンマなり問題を乗り越える考え方として必要になってくるのが、「弱さ」であると先生は言われる。
今までの社会は「強さ」が問題解決の役割を担ってきた。「強さ」とはいわゆる既存の権力や高い地位を持つ存在で、それらによる「合理的選択」や「権力による意思決定」は正しいものとされ、彼らの「個人レベル」での問題解決が優先されてきた。しかし、その結果「社会レベル」で様々な問題が顕在化してきている。つまり、現代では強い力だけでは問題は解決しなくなってきた。
今後の社会には、「強さからの視点」では価値がないと思われていたことに対して、価値を見出せる「弱さからの視点」が必要になってくるのではないか。「弱さ」とは今までの社会構造の中では低い力でしかなかった存在であるが、今後の社会では「強さ」だけでは解決できなかった問題を、「弱さ」視点から捉えて物事に価値を見出し、問題解決に迫ることが必要とされるのではないか。つまり、価値観・考え方のパラダイムシフトを起こすということである。そうすれば、今まで低い地位でしかなかった存在が価値を持ち始めてくるわけだから、社会全体の価値が上がってくる。
そしてこの弱い存在からの自発的な力が、経済システム・合理性に関与するのが、社会起業・ソーシャルイノベーションだと言えるのではないか。これが、今回の話が言わんとしているところでした。
今までは弱いと思われていた存在から、社会に価値を生み出す。非合理的な選択だったことを合理的な選択にして、価値がなかったものから価値が生まれれば、社会が良くなる。というわけでした。
ノートまとめただけなんだけど、すごく疲れた・・・・。
松岡正剛氏の「知の編集工学」を読んだ。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
今日、バイトで服を売っていた時、アメリカ人のお客さんが来た。日本には2年住んでいて、日本語を流暢に話す。シャツを買っていった。
レジで会計をしているときに、「何の仕事をしているんですか?」と聞いてみた。すると、
「大きな保険屋です。」と言う。まさに今テレビをにぎわしている分野での仕事だった。
「先週、本当に会社がつぶれると思いました。本当に怖かった。ママに「帰るね」と電話しましたよ。今週に入ってなんとか持ちこたえたけど。」彼は苦笑いで話していた。
また、証券会社で働いている人が、職場の人に「少し早く来た方がいいよ。」と言われたそうだ。
なぜ?と聞き返したところ、「電車が止まるから。」と言われたそう。
今日も人身事故で電車が止まっていた。
テレビの中の話ではないわけだ。
レジで会計をしているときに、「何の仕事をしているんですか?」と聞いてみた。すると、
「大きな保険屋です。」と言う。まさに今テレビをにぎわしている分野での仕事だった。
「先週、本当に会社がつぶれると思いました。本当に怖かった。ママに「帰るね」と電話しましたよ。今週に入ってなんとか持ちこたえたけど。」彼は苦笑いで話していた。
また、証券会社で働いている人が、職場の人に「少し早く来た方がいいよ。」と言われたそうだ。
なぜ?と聞き返したところ、「電車が止まるから。」と言われたそう。
今日も人身事故で電車が止まっていた。
テレビの中の話ではないわけだ。
自分に新しい知見をもたらす出会いがあった。
今日は、11月に企画している就職活動イベントに企業経営者として出演していただきたいという御願いで、株式会社ユーズウェアの小川名剛彦社長にお会いさせていただいた。ユーズウェアは横浜にある企業で、様々な業務をサポートするアプリケーションを開発・運営を行う企業である。
→株式会社ユーズウェアWebsite
話をしている中で、小川名さんが農業に興味を持たれているという話になった。
小川名さんのご実家は、横浜で専業農家をされているらしい。横浜では多くが兼業農家として空いた時間で農業をやられる方が多い中で、小川名さんのご実家では専業農家として、ご両親が農家に誇りを持って取り組まれてきたそうだ。小川名さんは大学卒業後ソフトウェア製作の道に進み、現職に至られているが、両親が誇りを持って取り組まれている農業を、「自分が引き継いで次の世代に伝えていきたい」と考えられている。
僕も最近会津などで農業に触れる機会が多いので、とても話が盛り上がった。その話の中で特に興味を持ったことが、小川名さんは「自分の分野」で農業に貢献しようとされていることだった。それはつまり、「ソフトウェアを使って、農業に貢献していく」ということ。
それは単に「ソフトウェアで事業を効率化して云々」という話ではなく、「ソフトウェアの介入によって農業の問題の根本を解決していく」というレベルでの取り組み。現在行われているのは、アメリカ産の小麦・とうもろこしの価格が上昇し、家畜への飼料価格が高騰している中で、ソフトウェアの力によってそれを解決してやろうという取り組みで、もうすぐ試作品としてソフトが完成するそうだ(詳細は秘密。公開されたら情報をアップします)。
今日、家でテレビをつけたら、たまたまNHKスペシャルで「世界同時食糧危機(1)アメリカ頼みの"食"が破綻する」という番組がやっていた。今日小川名さんの話を聞いてきて、この番組がやっているという偶然に驚いた。番組は「なぜ、今食糧危機に陥ったのか」をクローズアップしたものだったが、食糧危機は具体的に日本に住む僕たちにも大きな問題として立ちはだかっていることを、改めて認識した。その上で、小川名さんの取り組みを改めてすごいなと思った。
IT技術を使って様々なサービスが出てきているが、既存の問題解決に対してITが役立てるという話はあまり聞いたことがない。食料危機の問題に絞って言えば、「自給率を高めてアメリカ依存から抜け出そう!」という話は耳にするが、「ITで解決しよう!」という話は聞いたことがない。そんな中で、「農業を自分の分野で、次の世代に伝えていく」という使命を持って取り組まれている小川名さんの姿に、非常に感銘を受けた。すごいと思いましたよ。
近頃、社会起業家についての本を読んだりします。そこで主に紹介されている方々というのは、皆が共通して問題だと思うこと(貧困・病気・環境)に対して、それをビジネスにしてしまって、結果、「社会構造を変えた」人たちというケースが多い。それは疑いなく素晴らしいことだし、「誰も改善出来なかったから放置されていた問題」に対してビジネスで改善してしまったという点で、まさしく「社会起業家」であるわけです。でも別に皆が問題だと思っていなくても(小川名さんが取り組まれていることは問題だと思われているけど)、何か目的を持って行動して、ビジネスを通して「社会を良い方向に変える」ことにつながるのであれば、それもまた「社会起業」であって、その人は「社会起業家」と呼ばれるべきなんじゃないかと思うのです。
ともあれ今日は、違うところ目的からとても興味のある取り組みをされている方と出会うことができた。
良い刺激と考える機会をいただけたし、この「出会い」を今後の何かの形につなげていきたいと思った。
今日は、11月に企画している就職活動イベントに企業経営者として出演していただきたいという御願いで、株式会社ユーズウェアの小川名剛彦社長にお会いさせていただいた。ユーズウェアは横浜にある企業で、様々な業務をサポートするアプリケーションを開発・運営を行う企業である。
→株式会社ユーズウェアWebsite
話をしている中で、小川名さんが農業に興味を持たれているという話になった。
小川名さんのご実家は、横浜で専業農家をされているらしい。横浜では多くが兼業農家として空いた時間で農業をやられる方が多い中で、小川名さんのご実家では専業農家として、ご両親が農家に誇りを持って取り組まれてきたそうだ。小川名さんは大学卒業後ソフトウェア製作の道に進み、現職に至られているが、両親が誇りを持って取り組まれている農業を、「自分が引き継いで次の世代に伝えていきたい」と考えられている。
僕も最近会津などで農業に触れる機会が多いので、とても話が盛り上がった。その話の中で特に興味を持ったことが、小川名さんは「自分の分野」で農業に貢献しようとされていることだった。それはつまり、「ソフトウェアを使って、農業に貢献していく」ということ。
それは単に「ソフトウェアで事業を効率化して云々」という話ではなく、「ソフトウェアの介入によって農業の問題の根本を解決していく」というレベルでの取り組み。現在行われているのは、アメリカ産の小麦・とうもろこしの価格が上昇し、家畜への飼料価格が高騰している中で、ソフトウェアの力によってそれを解決してやろうという取り組みで、もうすぐ試作品としてソフトが完成するそうだ(詳細は秘密。公開されたら情報をアップします)。
今日、家でテレビをつけたら、たまたまNHKスペシャルで「世界同時食糧危機(1)アメリカ頼みの"食"が破綻する」という番組がやっていた。今日小川名さんの話を聞いてきて、この番組がやっているという偶然に驚いた。番組は「なぜ、今食糧危機に陥ったのか」をクローズアップしたものだったが、食糧危機は具体的に日本に住む僕たちにも大きな問題として立ちはだかっていることを、改めて認識した。その上で、小川名さんの取り組みを改めてすごいなと思った。
IT技術を使って様々なサービスが出てきているが、既存の問題解決に対してITが役立てるという話はあまり聞いたことがない。食料危機の問題に絞って言えば、「自給率を高めてアメリカ依存から抜け出そう!」という話は耳にするが、「ITで解決しよう!」という話は聞いたことがない。そんな中で、「農業を自分の分野で、次の世代に伝えていく」という使命を持って取り組まれている小川名さんの姿に、非常に感銘を受けた。すごいと思いましたよ。
近頃、社会起業家についての本を読んだりします。そこで主に紹介されている方々というのは、皆が共通して問題だと思うこと(貧困・病気・環境)に対して、それをビジネスにしてしまって、結果、「社会構造を変えた」人たちというケースが多い。それは疑いなく素晴らしいことだし、「誰も改善出来なかったから放置されていた問題」に対してビジネスで改善してしまったという点で、まさしく「社会起業家」であるわけです。でも別に皆が問題だと思っていなくても(小川名さんが取り組まれていることは問題だと思われているけど)、何か目的を持って行動して、ビジネスを通して「社会を良い方向に変える」ことにつながるのであれば、それもまた「社会起業」であって、その人は「社会起業家」と呼ばれるべきなんじゃないかと思うのです。
ともあれ今日は、違うところ目的からとても興味のある取り組みをされている方と出会うことができた。
良い刺激と考える機会をいただけたし、この「出会い」を今後の何かの形につなげていきたいと思った。
少し前の話になるが、大学の友人二人と飲んだ。
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
金子先生の「理性」と「弱さ」のジャンプという論文を読んだ。この論文では前の記事で書いた「合理性」が、「最も大切になれない理由」と、今後の社会における「弱さの強さ」について書かれている。読んだ後には、「既存の枠組みを変える原動力」をこのブログも担っているんじゃないかと勝手に思っていた(笑)
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
中世のある村では、牧草地が入会地として村人全員で共有され、全員に解放されていた。そのために、羊飼いの中には、自分の羊を何匹もそこに連れてきて牧草を食べさせようとするものが出てくるかもしれない。そのような不心得者が一人出てくると、他の羊飼いも競って自分の羊をたくさん連れてきてそこで牧草をたらふく食べさせるようになり、結果として、みなの財産である共有地は丸坊主になり、荒れ果ててしまうことになる。これが合理的選択が行きすぎたところによる悲劇であるわけです。ここでの選択肢の集合とは「何匹羊を連れてくるか」ということであったが、「一番自分にメリットがある」という基準で選択すると、「自分が持っている全ての羊を連れてくる」という選択が最も望ましいものになる。しかし、皆が皆合理的な選択をした結果、共有地が丸坊主になって、そしたら食べ物が無くなった羊はたぶん死んでしまうので、皆大損する羽目になる。これではいけない。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら
今期から、金子郁容という先生の研究会に入った。
研究会での、自分を含めた新規履修生の最初のテーマは、「合理的に考える・伝えること」。
「別に合理的に考えることが人生において最も大切なことはではない」と金子先生は言う。僕もそう思う。しかし、相手に何かを伝えるという点においては、「合理的に考え、合理的に伝える」ということは非常に重要な意味を持つ。なぜなら相手に「自分の思考と同じ経路をたどらせることができるから」であり、それは相手が「分かる伝え方」をすることにつながるからである。(相手を説得するということではないですね。むしろ相手が反論しやすくなる。自分がどういう風に考えてこういう結論を出したということが分かるから。)
研究会で行ったのは、ハーバート・サイモン提唱による「合理的行動」を理解すること。
→ハーバート・サイモン
合理的行動とはすなわち
①その中から一つを選ぶ選択肢の集合が与えられている
②選択の基準が与えられている(一番利潤が高いもの、一番社会的なもの、サイコロ振って決めるなどなど)
③②で決めた基準にそって最も望ましい選択肢を選ぶ
という順序で行われる行動のことを指す。
最初は「なるほど。このステップを踏んで説明すれば、合理的に伝えられるのね。」と軽く考えていた。ただ、ステップを踏んでみて驚いた。自分の日常の思考がいかに(サイモンの言うところでの)合理的でないかを知ることになった。
まず①の「選択肢の集合」というものが難しい。この選択肢とは、「同じレベルのものでなければいけない」というルールが必要になるからだ。
この同じレベルとは、それぞれの選択肢が位置する「階層」とも言えるかもしれない。昨日は社会の話だったので、社会について例を挙げるとすると、
国・地方自治体・民間企業・NPO法人・財団法人・hayashi kenji
という選択肢があったとすると、これらは同じレベルに入るだろうか?という話。
これは入らない。なぜなら、
一人一人が決めることと、組織が決めることは違う
民間が決めることと、国が決めることは違う
国が決めることと、世界が決めることは違う
などなど、それぞれの選択肢が行えることや発することができる影響力が違うので、同じ土俵(レベル)で比較してしまっては混同してしまうからである。
この場合では、
国>民間>NPO>個人
と、選択肢は違うレベルにあることを理解しておく必要があるとのこと。
研究会には日本の高校生を対象に研究を行っている学生がいるが、彼女の研究の場合、合理的に自分の研究対象を説明するには、選択肢の集合は、
Ⅰ北海道から沖縄まで、全ての高校生を対象にする
↓
Ⅱその中で、東京都の公立・私立の高校生を対象にする
↓
Ⅲその中で、私立の高校の男子校・女子校・共学を対象にする
↓
Ⅳその中で、男子校を対象にする
というように①から④まで選択肢の集合のレベルを下げていくことができる。このようにすれば、彼女が「東京都の私立の高校生の男子を対象にした研究」を行っていることが分かりやすい。
さて、ここからが一番難しいところになる。合理的な行動を行うためには、「②選択の基準が与えられている」必要があるのだそうだ。つまり上記の例の場合、
Ⅱでは、1都1道2府43県がある中で、なぜ東京都を選んだのか。選択の基準は?
Ⅲでは、東京都の公立・私立の中で、なぜ私立を選んだのか。選択の基準は?
Ⅳでは、男子校・女子校・共学がある中で、なぜ男子校を選んだのか。選択の基準は?
となっていく。ここで選択の基準が明確であれば、一番基準に沿って好ましいものが選ばれていた場合はそれが「合理的な行動」であることが分かるし、基準に沿って好ましいものでない場合は、それは「合理的でない行動」であることが分かる。
この考え方を、良く世間で行われている行動を観察することに用いてみる。例えば、「貧困をなくそう!」とすること。この方法として、「食糧を送る」という選択肢があるとする。しかし、この行動には数多くのレベルがあることが分かるだろうか。
食料を送る → 「政府」が、政府に送る
食料を送る → 「NPO団体」が、NPO団体に送る
食料を送る → 「個人」が、NGOに送る
などなど。つまり「貧困をなくそう!」と思った時に、「食糧を送る」という選択肢があったとしても、合理的行動に起こすには「どのレベルが、どのレベルに送るか」ということを考える必要があるということになる。またその中で、レベルを決めたなら「食料を送る」という選択肢の他にどんな選択肢が、そのレベルにはあるかを考える。様々な選択肢を用意したなら、ある「基準」を設けた上でその選択肢を観察し、その基準を最も満たす最善なものを選ぶ。そうすると、それは「合理的な判断に基づく行動」になるわけですね。
これを書いている現在、正直よくわかったようなわからないようなです。この考えをいかに応用して物事を観察して捉えていくか。それが大事になるようなのだが、今はまだ何とも言えない。また、認識の間違いがあったら、ご教授いただければ幸いです。
ちなみに金子先生曰く、ソーシャルイノベーションとは、「先ほどの「貧困をなくそう」の中の選択肢に、「今はない仕事を作ろう!」などと、普通には出てこない選択肢を用意すること」だそう。イノベーションには自由な発想がつきものであるし、枠を取っ払った考え方が必要になる。それではまず、枠を作って考えてみる。そういったアプローチの仕方も、イノベーションを起こす上では必要だということでした。
研究会での、自分を含めた新規履修生の最初のテーマは、「合理的に考える・伝えること」。
「別に合理的に考えることが人生において最も大切なことはではない」と金子先生は言う。僕もそう思う。しかし、相手に何かを伝えるという点においては、「合理的に考え、合理的に伝える」ということは非常に重要な意味を持つ。なぜなら相手に「自分の思考と同じ経路をたどらせることができるから」であり、それは相手が「分かる伝え方」をすることにつながるからである。(相手を説得するということではないですね。むしろ相手が反論しやすくなる。自分がどういう風に考えてこういう結論を出したということが分かるから。)
研究会で行ったのは、ハーバート・サイモン提唱による「合理的行動」を理解すること。
→ハーバート・サイモン
合理的行動とはすなわち
①その中から一つを選ぶ選択肢の集合が与えられている
②選択の基準が与えられている(一番利潤が高いもの、一番社会的なもの、サイコロ振って決めるなどなど)
③②で決めた基準にそって最も望ましい選択肢を選ぶ
という順序で行われる行動のことを指す。
最初は「なるほど。このステップを踏んで説明すれば、合理的に伝えられるのね。」と軽く考えていた。ただ、ステップを踏んでみて驚いた。自分の日常の思考がいかに(サイモンの言うところでの)合理的でないかを知ることになった。
まず①の「選択肢の集合」というものが難しい。この選択肢とは、「同じレベルのものでなければいけない」というルールが必要になるからだ。
この同じレベルとは、それぞれの選択肢が位置する「階層」とも言えるかもしれない。昨日は社会の話だったので、社会について例を挙げるとすると、
国・地方自治体・民間企業・NPO法人・財団法人・hayashi kenji
という選択肢があったとすると、これらは同じレベルに入るだろうか?という話。
これは入らない。なぜなら、
一人一人が決めることと、組織が決めることは違う
民間が決めることと、国が決めることは違う
国が決めることと、世界が決めることは違う
などなど、それぞれの選択肢が行えることや発することができる影響力が違うので、同じ土俵(レベル)で比較してしまっては混同してしまうからである。
この場合では、
国>民間>NPO>個人
と、選択肢は違うレベルにあることを理解しておく必要があるとのこと。
研究会には日本の高校生を対象に研究を行っている学生がいるが、彼女の研究の場合、合理的に自分の研究対象を説明するには、選択肢の集合は、
Ⅰ北海道から沖縄まで、全ての高校生を対象にする
↓
Ⅱその中で、東京都の公立・私立の高校生を対象にする
↓
Ⅲその中で、私立の高校の男子校・女子校・共学を対象にする
↓
Ⅳその中で、男子校を対象にする
というように①から④まで選択肢の集合のレベルを下げていくことができる。このようにすれば、彼女が「東京都の私立の高校生の男子を対象にした研究」を行っていることが分かりやすい。
さて、ここからが一番難しいところになる。合理的な行動を行うためには、「②選択の基準が与えられている」必要があるのだそうだ。つまり上記の例の場合、
Ⅱでは、1都1道2府43県がある中で、なぜ東京都を選んだのか。選択の基準は?
Ⅲでは、東京都の公立・私立の中で、なぜ私立を選んだのか。選択の基準は?
Ⅳでは、男子校・女子校・共学がある中で、なぜ男子校を選んだのか。選択の基準は?
となっていく。ここで選択の基準が明確であれば、一番基準に沿って好ましいものが選ばれていた場合はそれが「合理的な行動」であることが分かるし、基準に沿って好ましいものでない場合は、それは「合理的でない行動」であることが分かる。
この考え方を、良く世間で行われている行動を観察することに用いてみる。例えば、「貧困をなくそう!」とすること。この方法として、「食糧を送る」という選択肢があるとする。しかし、この行動には数多くのレベルがあることが分かるだろうか。
食料を送る → 「政府」が、政府に送る
食料を送る → 「NPO団体」が、NPO団体に送る
食料を送る → 「個人」が、NGOに送る
などなど。つまり「貧困をなくそう!」と思った時に、「食糧を送る」という選択肢があったとしても、合理的行動に起こすには「どのレベルが、どのレベルに送るか」ということを考える必要があるということになる。またその中で、レベルを決めたなら「食料を送る」という選択肢の他にどんな選択肢が、そのレベルにはあるかを考える。様々な選択肢を用意したなら、ある「基準」を設けた上でその選択肢を観察し、その基準を最も満たす最善なものを選ぶ。そうすると、それは「合理的な判断に基づく行動」になるわけですね。
これを書いている現在、正直よくわかったようなわからないようなです。この考えをいかに応用して物事を観察して捉えていくか。それが大事になるようなのだが、今はまだ何とも言えない。また、認識の間違いがあったら、ご教授いただければ幸いです。
ちなみに金子先生曰く、ソーシャルイノベーションとは、「先ほどの「貧困をなくそう」の中の選択肢に、「今はない仕事を作ろう!」などと、普通には出てこない選択肢を用意すること」だそう。イノベーションには自由な発想がつきものであるし、枠を取っ払った考え方が必要になる。それではまず、枠を作って考えてみる。そういったアプローチの仕方も、イノベーションを起こす上では必要だということでした。
先日のSIJイベントの席で、デザインジャーナリストの兼松佳宏氏のお話を伺った。
兼松さんは、日本一エコスゴイサイト「Greenz.jp」を運営されている傍ら、自身でもデザイナーとして活動されている方。
→whynotnotice inc.
→greenz.jp
兼松さんの考え方で「これ、自分に取り入れよう!」と思った考え方がある。
「一石n鳥」を軸に考える考え方。ここでは「一石n鳥思考」と呼ぼう。
一石n鳥思考は、一石二鳥のごとく、一つの行動がどれだけの連鎖を生み出すかを考える考え方。兼松さんはとても魅力的なイノベーションを起こした活動をこの考え方で紹介してくれたが、魅力的なイノベーションほど一石五鳥にも六鳥にもなっていることがよく分かる。
例えば、Play Pumpという南アフリカにある遊び道具。これは子供が遊ぶエネルギーを、労働力にできないかという発想から生まれたユニークな発明品であるが、このPlay Pumpの存在はこれだけでなんと六つの利益を生み出している、つまり一石六鳥にもなる道具だという。
下記、greenz.jpの中で述べているPlay Pumpの有益な点である。
兼松さんは何かプロジェクトを始めるとき、「これは一石n鳥になっているか」と考えるそうだ。もし自分の活動が「n石一鳥」になってしまっていたら、それはどこか効率が悪い状態で続けているか、意味のないことを行ってしまっている可能性がある。「だったら辞めよう」という判断軸にもなると言う。
何かを行うことというのは、大体は一つの目的を達成するために、それに向かって行われる。もちろんそこから外れることになってしまっては本末転倒ではあるが、その目的に向かいつつ、付属的に何か他のいい影響や結果が生まれないかと考えること。これが「一石n鳥」の考え方になる。目標を見失わずにその他を考えられるということは、それは広い視野で物事を捉えられているということになる。
僕なんかは目標達成のために、とても非効率に動いてしまう人間である。その中でこの「一石n鳥の視野」で物事を見るということは、それだけで僕のヒントになりそうだ。参考にして行動してみよう。(greenzのサイトにはいろいろな一石n鳥思考の参考になる情報がある。興味があれば、ぜひ見てみてください。)
兼松さんは、日本一エコスゴイサイト「Greenz.jp」を運営されている傍ら、自身でもデザイナーとして活動されている方。
→whynotnotice inc.
→greenz.jp
兼松さんの考え方で「これ、自分に取り入れよう!」と思った考え方がある。
「一石n鳥」を軸に考える考え方。ここでは「一石n鳥思考」と呼ぼう。
一石n鳥思考は、一石二鳥のごとく、一つの行動がどれだけの連鎖を生み出すかを考える考え方。兼松さんはとても魅力的なイノベーションを起こした活動をこの考え方で紹介してくれたが、魅力的なイノベーションほど一石五鳥にも六鳥にもなっていることがよく分かる。
例えば、Play Pumpという南アフリカにある遊び道具。これは子供が遊ぶエネルギーを、労働力にできないかという発想から生まれたユニークな発明品であるが、このPlay Pumpの存在はこれだけでなんと六つの利益を生み出している、つまり一石六鳥にもなる道具だという。
下記、greenz.jpの中で述べているPlay Pumpの有益な点である。
プレイ・ポンプを設置するメリットは次のようなことが考えられる。
- 水がきれいなため病気になる人が減る
- 水運びに時間をかけずに済むため、女の子も労働から解放され男の子と同じ時間学校に通える
- 比較的低コスト(75万円程度)で2500人規模のコミュニティーに水を提供できる
- 水をためるタンクにはエイズ防止のメッセージが掲げられ、子どもたちにとって教育になる
- ポンプを設置・維持するのは訓練を受けた地元住民。地元の雇用機会が増える
- コミュニティーの中心や学校の近くに設置されるので、学校帰りの子どもが遊ぶ機会が多い。そして何よりも子どもたちが楽しそうだ!
(greenz.jpより抜粋→掲載記事へ)
兼松さんは何かプロジェクトを始めるとき、「これは一石n鳥になっているか」と考えるそうだ。もし自分の活動が「n石一鳥」になってしまっていたら、それはどこか効率が悪い状態で続けているか、意味のないことを行ってしまっている可能性がある。「だったら辞めよう」という判断軸にもなると言う。
何かを行うことというのは、大体は一つの目的を達成するために、それに向かって行われる。もちろんそこから外れることになってしまっては本末転倒ではあるが、その目的に向かいつつ、付属的に何か他のいい影響や結果が生まれないかと考えること。これが「一石n鳥」の考え方になる。目標を見失わずにその他を考えられるということは、それは広い視野で物事を捉えられているということになる。
僕なんかは目標達成のために、とても非効率に動いてしまう人間である。その中でこの「一石n鳥の視野」で物事を見るということは、それだけで僕のヒントになりそうだ。参考にして行動してみよう。(greenzのサイトにはいろいろな一石n鳥思考の参考になる情報がある。興味があれば、ぜひ見てみてください。)
時が経つのは本当に早いものだ。僕が別府の町から帰ってきてから、もう一週間になる。あの時の印象を記しておく時間がなかったからずるずると来てしまっていたが、ここでしっかりと整理しておきたいと思う。別府のモスクに行った時のことである。
モスクと言って、想像されるのはどのようなものだろう?これは僕がトルコに行った時に撮ってきたブルーモスク。

しかし、大分県別府市のモスクは、これ。
ちょっとイメージが違うけど、これが立派な別府のモスク。モスクとはそもそも「ひざまずく場所」の意味なのだそう。このモスクができるまでには、すごいストーリーがある。ここは使われていない廃ビルだったそうなのだが、以前まで礼拝をする場所がなかったイスラム教の留学生が、なんとこのビルを買い取ったのだという。今まで週2でしていたアルバイトを週5に増やし、少しずつ貯めて買い取ったのだと胸を張って教えてくれた。ビルを買い取るという発想とその行動力・・・。イスラム・コミュニティの底力はすごい。
僕が別府に滞在しているときに、別府の兄の同居人であるタムラ君が、「最近別府にモスクができた。」と教えてくれた。なんでもイスラム教の国から来ている留学生が、自分たちでお金を出し合ってビルを買い取り、そこをモスクにしたのだとか。是非行きたいというと、そのモスクに出入りをしている友人に連絡を取ってもらい、連れて行ってもらった。
モスクとは言ったものの、本当に普通のビル。だが場所は国道沿いの結構いいところ。
若干緊張しながら中に入ってみると、そこには一人の日本人もおらず、イスラム教の留学生が20人ほどいた。彼らは色々な国から来ており、共通点はイスラム教徒だというだけで、母国語が一緒ではない。なので、会話を英語でしていたりする。僕から見ると雰囲気から同じ国出身に見えるのだが(日本人と韓国人の違いみたいなもの)、それが違う。それを見ても新鮮だったし、宗教のために国を超えて団結を図れるというのはすごいなと、改めてこのコミュニティの力強さを感じた。
僕が行った時はラマダン月で、彼らは日の出から日没まで食事はできなかった。僕らが行った時間はちょうど食事が解禁となる日没の時間で、一緒に食べようと誘ってくれた。この時の料理はバングラディシュの料理だそう。各国の留学生が、国々の料理を当番制で作るのだそうだ。

これらは手で食べる。カレーはネバネバしているので、少し気持ちが悪かった。結構辛い。
このモスクのいいところは、彼らが日本語を流暢にしゃべることだ。彼らは僕の抱いていた勝手なイメージと違って、イスラム教信者ではない僕らにとてもウェルカムな対応で接してくれた。イスラム教は日本では怖いイメージが持たれるが、それもメディアを通して知った情報で判断していること。彼らの国の人間性は、むしろ日本人より人間味があって温かいのではないだろうか。
ラマダンの最中は、祈りを何回か繰り返すらしく、この日も食後に祈りを行った。


正直なところ、僕は彼らが祈っている姿を撮ることに少しビクビクしていた。信者ではない僕らが来て、一緒にご飯を食べているときやお祈りの場に参加することに対して、「のんびり見てて」と言ってくれたものの、彼らの神聖な祈りに対してカメラを向けたり写真を撮ったりすることは、良くないのではないかと思ったりした。しかし、写真を撮ってもいいか聞いてみると、「全然いいよ!」と笑っていた。彼らの神に対する考えと、僕らが持つものとは少し違うのだろうか。考えというよりも、神との付き合い方と言った方が適切かもしれない。僕らが考えているものより、もっと身近であるのかのように感じた。
祈りの後に、イスラム教について話す場を設けてくれた。この場で主に話してくれた人(名前を聞き忘れてしまった)は、ヒンドゥー教から改宗してイスラム教徒になったのだそうだ。彼は、宗教が言う正しいものとは何かに疑問を抱き、ヒンドゥー教からキリスト教、仏教などの聖典を研究した末、イスラム教にたどり着いたのだそうだ。
彼は、「宗教は大切なところはイスラム教でもキリスト教でも仏教でも皆同じ。大切なのは、神の存在を信じ、受け入れること。それができれば、どの宗教でも同じ。言っていることは同じだから。」と言う。僕はこの彼の見解が僕にはないことであり、非常に強い印象を受けた。
僕は宗教や神というものをあまり真剣に考えたことがない。僕の家にはマリア像やキリストの絵などが飾ってあるので、自然と「神」というものの存在を受け入れていた。しかし、それは「何か自分には関与の出来ない大きな力が存在する」という点でなんとなく受け入れており、それは「神」という個人ではなく、どちらかというと「万物全て」という抽象的な大きな枠組みのものにあると考えている。この「大きな力」というものを「神」という単体と捉えるか否かの違いだけではないかとも思うが、そう考えるようになるだいぶかけ離れた経緯から来ていると思う。
そういうことを考えるきっかけとなっただけでも、大変貴重な経験だった。また、彼らと実際に話をしてみて、僕の中でイスラム教に対する見方が変わった。この視点をもらうきっかけとなったこととしても、大きな経験だった。今度東京にあるモスクにも、行ってみようと思う。
ちなみにこのモスクは、いつでも誰でもどの宗教の信者でも、歓迎だそうだ。興味がある方は、是非。5年後とかには、名所になってたりしたらいいな。
お祈りの後、イスラム教について話をした。
コーラン。初めて見た。正式な日本名は「聖クルアーン」という。
モスクと言って、想像されるのはどのようなものだろう?これは僕がトルコに行った時に撮ってきたブルーモスク。
しかし、大分県別府市のモスクは、これ。
僕が別府に滞在しているときに、別府の兄の同居人であるタムラ君が、「最近別府にモスクができた。」と教えてくれた。なんでもイスラム教の国から来ている留学生が、自分たちでお金を出し合ってビルを買い取り、そこをモスクにしたのだとか。是非行きたいというと、そのモスクに出入りをしている友人に連絡を取ってもらい、連れて行ってもらった。
モスクとは言ったものの、本当に普通のビル。だが場所は国道沿いの結構いいところ。
若干緊張しながら中に入ってみると、そこには一人の日本人もおらず、イスラム教の留学生が20人ほどいた。彼らは色々な国から来ており、共通点はイスラム教徒だというだけで、母国語が一緒ではない。なので、会話を英語でしていたりする。僕から見ると雰囲気から同じ国出身に見えるのだが(日本人と韓国人の違いみたいなもの)、それが違う。それを見ても新鮮だったし、宗教のために国を超えて団結を図れるというのはすごいなと、改めてこのコミュニティの力強さを感じた。
僕が行った時はラマダン月で、彼らは日の出から日没まで食事はできなかった。僕らが行った時間はちょうど食事が解禁となる日没の時間で、一緒に食べようと誘ってくれた。この時の料理はバングラディシュの料理だそう。各国の留学生が、国々の料理を当番制で作るのだそうだ。
このモスクのいいところは、彼らが日本語を流暢にしゃべることだ。彼らは僕の抱いていた勝手なイメージと違って、イスラム教信者ではない僕らにとてもウェルカムな対応で接してくれた。イスラム教は日本では怖いイメージが持たれるが、それもメディアを通して知った情報で判断していること。彼らの国の人間性は、むしろ日本人より人間味があって温かいのではないだろうか。
ラマダンの最中は、祈りを何回か繰り返すらしく、この日も食後に祈りを行った。
正直なところ、僕は彼らが祈っている姿を撮ることに少しビクビクしていた。信者ではない僕らが来て、一緒にご飯を食べているときやお祈りの場に参加することに対して、「のんびり見てて」と言ってくれたものの、彼らの神聖な祈りに対してカメラを向けたり写真を撮ったりすることは、良くないのではないかと思ったりした。しかし、写真を撮ってもいいか聞いてみると、「全然いいよ!」と笑っていた。彼らの神に対する考えと、僕らが持つものとは少し違うのだろうか。考えというよりも、神との付き合い方と言った方が適切かもしれない。僕らが考えているものより、もっと身近であるのかのように感じた。
祈りの後に、イスラム教について話す場を設けてくれた。この場で主に話してくれた人(名前を聞き忘れてしまった)は、ヒンドゥー教から改宗してイスラム教徒になったのだそうだ。彼は、宗教が言う正しいものとは何かに疑問を抱き、ヒンドゥー教からキリスト教、仏教などの聖典を研究した末、イスラム教にたどり着いたのだそうだ。
彼は、「宗教は大切なところはイスラム教でもキリスト教でも仏教でも皆同じ。大切なのは、神の存在を信じ、受け入れること。それができれば、どの宗教でも同じ。言っていることは同じだから。」と言う。僕はこの彼の見解が僕にはないことであり、非常に強い印象を受けた。
僕は宗教や神というものをあまり真剣に考えたことがない。僕の家にはマリア像やキリストの絵などが飾ってあるので、自然と「神」というものの存在を受け入れていた。しかし、それは「何か自分には関与の出来ない大きな力が存在する」という点でなんとなく受け入れており、それは「神」という個人ではなく、どちらかというと「万物全て」という抽象的な大きな枠組みのものにあると考えている。この「大きな力」というものを「神」という単体と捉えるか否かの違いだけではないかとも思うが、そう考えるようになるだいぶかけ離れた経緯から来ていると思う。
そういうことを考えるきっかけとなっただけでも、大変貴重な経験だった。また、彼らと実際に話をしてみて、僕の中でイスラム教に対する見方が変わった。この視点をもらうきっかけとなったこととしても、大きな経験だった。今度東京にあるモスクにも、行ってみようと思う。
ちなみにこのモスクは、いつでも誰でもどの宗教の信者でも、歓迎だそうだ。興味がある方は、是非。5年後とかには、名所になってたりしたらいいな。






