昨日報道ステーションで、「ドバイのバブル崩壊」をやっていた。1年前、友人と海外旅行の計画をしていたとき、「ドバイに行って世界の大富豪を目の当たりにしてみるのもいいね」と話していたのを思い出した。もちろん番組編集のせいもあるだろうが、テレビの中のドバイは完全に色あせていた。
そんなのを見ると、僕なんかは、「豊かな人生って何なんだろうな~」とか思ってしまうわけです。
確かに1年前に存在していた「豊かな人生のゴール地点」は、完全にその色を失っていた。それを目にすると、今まで自分の内にあった「豊かさ」の意味に疑問を感じる。今でも僕は「豊かな人生」を望んでいる。だけど、その意味は1年前と変わってきている。
そういえば、近頃「勝ち組」「成功」「幸せ」の言葉が目に入らなくなった。もしかしたら「豊かさ」の意味を問い直しているのは、僕だけじゃないのかも。もしくは、今まで自分の中にあった「勝ち組」「成功」「幸せ」の意味が変わってきているから、それらの刺激・情報に反応していた僕のセンサーが反応を示さなくなったのか。
そんな中、近頃安岡正篤の「小学」を読んでいる。
→『人物を創る 人間学講和「大学」「小学」』/安岡正篤著
この「小学」というのは、中国の宋代の儒学者である朱子が先達の偉大な人たちの残したものから範となるものを編集して、書物としたものだそうだ。この小学には、「体現・体得を重んじた知行合一の学問」が記されており、また人間が人間として生きる上で大切なことは何かという示唆が書かれている。
小学では、豊かさを「自分の内に探すよう」にと言っている。今の僕には、この考え方は結構しっくりくる。まあ自分の頭や心が「今の自分は豊かか豊かでないか」を決めているのだから、心を常に豊かな状態にしておけば、外の世界はどんなだろうと関係ないというのも、考えとしてはよく分かる。
でもそれ以上に、僕は外の世界においても豊かでいられ、かつ自分の心にも豊かでいられる答えというのも、やはり自分の内にあるんじゃないかと思います。そんなメッセージを小学から受けている。
社会に出る準備をしている時期に、自分の考え方・価値観を問い直す機会が訪れたのは、ある意味幸運かもしれない。もうちょい自分が安易に使っている「豊かさ」について、考えてみたいと思う。
ちなみに、小学の中にある僕の好きな言葉で、「知識ばかり覚えてはいけない。ただ知識を覚えるためだけに学問をして人間を損なうのであれば、そんなものはしないほうがよろしい。」というものがある。ごもっともだと思う。
そんなのを見ると、僕なんかは、「豊かな人生って何なんだろうな~」とか思ってしまうわけです。
確かに1年前に存在していた「豊かな人生のゴール地点」は、完全にその色を失っていた。それを目にすると、今まで自分の内にあった「豊かさ」の意味に疑問を感じる。今でも僕は「豊かな人生」を望んでいる。だけど、その意味は1年前と変わってきている。
そういえば、近頃「勝ち組」「成功」「幸せ」の言葉が目に入らなくなった。もしかしたら「豊かさ」の意味を問い直しているのは、僕だけじゃないのかも。もしくは、今まで自分の中にあった「勝ち組」「成功」「幸せ」の意味が変わってきているから、それらの刺激・情報に反応していた僕のセンサーが反応を示さなくなったのか。
そんな中、近頃安岡正篤の「小学」を読んでいる。
→『人物を創る 人間学講和「大学」「小学」』/安岡正篤著
この「小学」というのは、中国の宋代の儒学者である朱子が先達の偉大な人たちの残したものから範となるものを編集して、書物としたものだそうだ。この小学には、「体現・体得を重んじた知行合一の学問」が記されており、また人間が人間として生きる上で大切なことは何かという示唆が書かれている。
小学では、豊かさを「自分の内に探すよう」にと言っている。今の僕には、この考え方は結構しっくりくる。まあ自分の頭や心が「今の自分は豊かか豊かでないか」を決めているのだから、心を常に豊かな状態にしておけば、外の世界はどんなだろうと関係ないというのも、考えとしてはよく分かる。
でもそれ以上に、僕は外の世界においても豊かでいられ、かつ自分の心にも豊かでいられる答えというのも、やはり自分の内にあるんじゃないかと思います。そんなメッセージを小学から受けている。
社会に出る準備をしている時期に、自分の考え方・価値観を問い直す機会が訪れたのは、ある意味幸運かもしれない。もうちょい自分が安易に使っている「豊かさ」について、考えてみたいと思う。
ちなみに、小学の中にある僕の好きな言葉で、「知識ばかり覚えてはいけない。ただ知識を覚えるためだけに学問をして人間を損なうのであれば、そんなものはしないほうがよろしい。」というものがある。ごもっともだと思う。




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