本の最近のブログ記事
最近連ちゃんの影響で「批評」というものに関する書籍やウェブ記事を読む。
批評とは何か。「ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露」ということだとはてなは言う。 >>1 これ以上批評について興味がある人は、各自調べてください。
全くその世界を知らなかった僕がなぜ急に「批評」に興味を持ち始めたかというと、「同時代性」を考える必要が出てきたから。大学生が社会性のある活動を行おうとするとき、どんな分野においても等しく「若者らしく元気よく、今の時代にあった形で活動してほしい」と言われると思う。これは「大学生が活動を行う」ことを前提とすれば当然の期待であるし、そこにこそ学生の挑戦意義があるわけだが、それでは「今の時代にあった形」とは何か。というか、「今の時代」をどう捉えるか。
この問いを「自分ないしは自分の周りの人間」に置き換えて進めることは簡単。しかし、通常は「今の15代~30代の日本人男女=若者」を想定して話が展開される。まあ当たり前。
また、一回性を持った期限付きプロジェクトでない限り、更新を前提としてもある程度今後のことを視野に入れた活動を行う必要がある。今の20歳の若者は10年後には若者ではなくなっているわけで(上の若者定義によるならば)、その時社会が進んでいる方向性、その時若者となっている10歳の子供が影響を受けるであろう現代社会の予兆に目を向けておくことが必要だろうなと思ったりする。
そんなことで、連ちゃんに「今の時代ってどんななんだ?」と相談したわけです。そうすると、色々な意見/視点を教えてもらい、本も紹介してもらった。『思想地図』と『ニッポンの思想』。読んでみると、、、面白い!全く無知の学生が最初読んだ感想は、「サブカルチャーへの言及/引用が多いんだなあ」という単純なものだったが、だんだん「サブカルチャ-が示す現代日本」というものに惹かれ始める。「そうか~。同時代性を語る上では『なぜサブカルチャ-が示す現代か』という点からは目をそらせない」と思ったりする。
現在白馬民宿のプロジェクトを行っているが、このプロジェクトの前提となっている「なぜスキー人口は減少しているか」という問いを考える時も、この辺りを踏まえて考えるべきだと思った。興味/娯楽/コミュニケーションツールの機能や役割が別に移ってしまっているわけなんですな。
>>白馬村 新民宿宣言プロジェクト
先日、おそばせながらエヴァンゲリオンを見に行った。6月に始まった映画なので、9月後半ともなると上映が終わっている劇場もちらほらあった。ただ渋谷でやっていたので行くと、なんとめっちゃ混んでいた。特に20代の女の子が多かった。中には「ギャル男」も見ていて、帰りに興奮しながら彼女と映画について熱弁していた。
また、ローカル・リンクで旅をして市長を訪問していたときも、埼玉県春日部市では『クレヨンしんちゃん』、埼玉県幸手市では『らき☆すた』が市内の活性化において重要な役割を果たしていると各市長が仰っていた。それらが一部に知られていることはあったとしても、行政が積極的に町の代名詞にしようとするのは時代の流れなのか。幸手市では「聖地巡礼」という☆型シールが貼ってあるお菓子が売られていたり、電柱に『らき☆すた』の絵が入っていたりする。
>>ローカル・リンク
こういうことを見ても、今まで「オタクのもの」として捉えられがちだったサブカルチャーの文化が、どんどん一般の(マジョリティの)領域に引き寄せられていると感じる。エヴァが始まった1995年と違って、彼女とデートでエヴァを見に行くのは普通なんだね。コミュニケーションツールとしてのオタク文化を利用する傾向も出ているとも読んだけど、それもつくづく感じる。
今「同時代性」を考えるときには、新たな雰囲気を受け入れつついる姿勢が大事になってくるんじゃないか。でも考えると、新しさが含まれるのは当たり前だよね。だって「同時代性」なんだもの。ただ、伝統文芸とかとの距離がどんどん乖離していくことになるなあ。昔と今の価値/視点の違いなんだろうけど。そんなことに関しても色々面白いことが書いてあったが、収集がつかないので今日はここまで。
批評とは何か。「ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露」ということだとはてなは言う。 >>1 これ以上批評について興味がある人は、各自調べてください。
全くその世界を知らなかった僕がなぜ急に「批評」に興味を持ち始めたかというと、「同時代性」を考える必要が出てきたから。大学生が社会性のある活動を行おうとするとき、どんな分野においても等しく「若者らしく元気よく、今の時代にあった形で活動してほしい」と言われると思う。これは「大学生が活動を行う」ことを前提とすれば当然の期待であるし、そこにこそ学生の挑戦意義があるわけだが、それでは「今の時代にあった形」とは何か。というか、「今の時代」をどう捉えるか。
この問いを「自分ないしは自分の周りの人間」に置き換えて進めることは簡単。しかし、通常は「今の15代~30代の日本人男女=若者」を想定して話が展開される。まあ当たり前。
また、一回性を持った期限付きプロジェクトでない限り、更新を前提としてもある程度今後のことを視野に入れた活動を行う必要がある。今の20歳の若者は10年後には若者ではなくなっているわけで(上の若者定義によるならば)、その時社会が進んでいる方向性、その時若者となっている10歳の子供が影響を受けるであろう現代社会の予兆に目を向けておくことが必要だろうなと思ったりする。
そんなことで、連ちゃんに「今の時代ってどんななんだ?」と相談したわけです。そうすると、色々な意見/視点を教えてもらい、本も紹介してもらった。『思想地図』と『ニッポンの思想』。読んでみると、、、面白い!全く無知の学生が最初読んだ感想は、「サブカルチャーへの言及/引用が多いんだなあ」という単純なものだったが、だんだん「サブカルチャ-が示す現代日本」というものに惹かれ始める。「そうか~。同時代性を語る上では『なぜサブカルチャ-が示す現代か』という点からは目をそらせない」と思ったりする。
現在白馬民宿のプロジェクトを行っているが、このプロジェクトの前提となっている「なぜスキー人口は減少しているか」という問いを考える時も、この辺りを踏まえて考えるべきだと思った。興味/娯楽/コミュニケーションツールの機能や役割が別に移ってしまっているわけなんですな。
>>白馬村 新民宿宣言プロジェクト
先日、おそばせながらエヴァンゲリオンを見に行った。6月に始まった映画なので、9月後半ともなると上映が終わっている劇場もちらほらあった。ただ渋谷でやっていたので行くと、なんとめっちゃ混んでいた。特に20代の女の子が多かった。中には「ギャル男」も見ていて、帰りに興奮しながら彼女と映画について熱弁していた。
また、ローカル・リンクで旅をして市長を訪問していたときも、埼玉県春日部市では『クレヨンしんちゃん』、埼玉県幸手市では『らき☆すた』が市内の活性化において重要な役割を果たしていると各市長が仰っていた。それらが一部に知られていることはあったとしても、行政が積極的に町の代名詞にしようとするのは時代の流れなのか。幸手市では「聖地巡礼」という☆型シールが貼ってあるお菓子が売られていたり、電柱に『らき☆すた』の絵が入っていたりする。
>>ローカル・リンク
こういうことを見ても、今まで「オタクのもの」として捉えられがちだったサブカルチャーの文化が、どんどん一般の(マジョリティの)領域に引き寄せられていると感じる。エヴァが始まった1995年と違って、彼女とデートでエヴァを見に行くのは普通なんだね。コミュニケーションツールとしてのオタク文化を利用する傾向も出ているとも読んだけど、それもつくづく感じる。
今「同時代性」を考えるときには、新たな雰囲気を受け入れつついる姿勢が大事になってくるんじゃないか。でも考えると、新しさが含まれるのは当たり前だよね。だって「同時代性」なんだもの。ただ、伝統文芸とかとの距離がどんどん乖離していくことになるなあ。昔と今の価値/視点の違いなんだろうけど。そんなことに関しても色々面白いことが書いてあったが、収集がつかないので今日はここまで。
近頃会津に出入りすることが多い。それなのに会津の歴史を全く知らないのもおかしいし、そもそも僕は日本史に疎いので「せっかくなので勉強しよう」と思ってちらほら読んでみたりしてます。
今大河ドラマで「直江兼続」がやっていますね。直江兼続は今の鶴ヶ城を見て、「この場所では都合(攻められてきたときに弱い)が悪い」などして、戦術的に優れた場所に城を移そうとしたのだとか。徳川との関係から計画は流れたそうですが。
会津でツアーの打ち合わせをしていたとき、会津藩校日新館の仮名さんに「直江兼続流行ってますね~。会津もそこら中で『天地人』ですね」と話を振ってみると、「会津は領主が次々に変わった土地だった。兼続が仕えた上杉景勝もそうだったし、蒲生氏郷もいる。伊達正宗も少しの間そうだった。ただ、その中でも名君といえば、保科正之だろうね。」と言われた。何でも玉川上水の開削をしたり、江戸城が燃えた後に、江戸城を「作らせなかった」人なのだそうだ。
「すごい人なんだろうな」と思って話を聞いて、帰りに駅前の本屋に入ってみると、「保科正之」の本が目に止まった。縁だと思って買って読んでみたわけです。
→中村彰彦著『保科正之』/中公文庫(2006/5)
この保科正之という人は、二代目将軍徳川秀忠と世話人との間に生まれた人で、嫉妬深い大奥正室の目を逃れるようにして、武田信玄の娘に育てられ、高遠藩主保科正光の養子として預けられて育つという、稀有な経歴を持つ人。後年には三代目将軍家光から「徳川」姓、もしくは一門の姓である「松平」を名乗るよう言われるものの、養父正光への終生の義理立てから断り続けたという。その恩義に報いようとする姿勢や正直な人柄から、三代目将軍家光に信頼され、家光没後は幼かった四代目家綱の後見人になった。
彼は民に非常に目を向けた人であったそうで、「江戸の飲み水が足りない」という問題を解決するため、「江戸の堅牢性が下がる」とわめく幕臣達をしずめながら、玉川上水の開削を行った。また、「明暦の大火」といわれる大火事にて焼け落ちた江戸城も、立て直そうという幕臣に対し、「軍用に大きな利点があったということは聞かないし、ただ町を見下ろすものとして使うだけであるのなら、そこに大きな労力とお金を費やす必要はない。それよりも燃えてしまった町の復旧に力を入れるべきだろう」ということでその意見を退け、結局立て直さなかった。
また、会津藩の藩政においては、「会津藩家訓」を定めたり、「社倉」と呼ばれる「飢饉のときなどに貧民を救うための米貯蔵庫」を作ったりした。この社倉米は無利息で借り受けられたり、利息がついた場合でも2、3年は支払いを待ってもらえたりしたそう。天候に左右されてしまう農作物を扱う上で、こうした制度を作ってくれることは、農民にとっても有難いことだったと思う。
この時代の人について目を向けると、忠孝・恩義といったことにとても誠実だなということを、改めて感じる。今の時代とは大きく違う文化・習慣が、当然としてあった時代。もちろん読んでいて「美化されすぎだろ?」と思ったり、「この時代に生まれないでよかった」と思う点もあったけど、「こういうリーダーの下のこういう文化もいいなあ」と思う点もあった。
当たり前のことだけど、今僕らが当然のこととして考え、当然として親しむ文化も、昔から考えれば「異文化」だし、当然未来から考えても「異文化」になるわけだよなあ。そしたら未来を作っていくとは、すなわち「文化」を作っていくことになるわけで、「未来の担い手」とは「今の文化を過去の文化にできる人」を指すわけか。どんな文化にするかは、未来の担い手次第。
だったら、常に「対応」しているだけでなく、「創造」する側でいたいよなあ。
余談だけど、保科正之は「殉死」を禁止させる法律を早い段階で作った人らしい。殉死とは藩主が死んだらそれを追いかけて死ぬこと。当時はそれが普通に行われていた。
そうしたときって、「ああ、オレこいつのために死にたくないなあ」と思って死ぬ家臣はいたのだろうか。それとも皆、「いつ何時も、この方の供でいたいのだ!!」という気概で死んでいくのだろうか。そこを知りたい!!!って強く思った(笑)
今の時代に殉死を行えるぐらいの関係は、どれくらいあるだろうね。
今大河ドラマで「直江兼続」がやっていますね。直江兼続は今の鶴ヶ城を見て、「この場所では都合(攻められてきたときに弱い)が悪い」などして、戦術的に優れた場所に城を移そうとしたのだとか。徳川との関係から計画は流れたそうですが。
会津でツアーの打ち合わせをしていたとき、会津藩校日新館の仮名さんに「直江兼続流行ってますね~。会津もそこら中で『天地人』ですね」と話を振ってみると、「会津は領主が次々に変わった土地だった。兼続が仕えた上杉景勝もそうだったし、蒲生氏郷もいる。伊達正宗も少しの間そうだった。ただ、その中でも名君といえば、保科正之だろうね。」と言われた。何でも玉川上水の開削をしたり、江戸城が燃えた後に、江戸城を「作らせなかった」人なのだそうだ。
「すごい人なんだろうな」と思って話を聞いて、帰りに駅前の本屋に入ってみると、「保科正之」の本が目に止まった。縁だと思って買って読んでみたわけです。
→中村彰彦著『保科正之』/中公文庫(2006/5)
この保科正之という人は、二代目将軍徳川秀忠と世話人との間に生まれた人で、嫉妬深い大奥正室の目を逃れるようにして、武田信玄の娘に育てられ、高遠藩主保科正光の養子として預けられて育つという、稀有な経歴を持つ人。後年には三代目将軍家光から「徳川」姓、もしくは一門の姓である「松平」を名乗るよう言われるものの、養父正光への終生の義理立てから断り続けたという。その恩義に報いようとする姿勢や正直な人柄から、三代目将軍家光に信頼され、家光没後は幼かった四代目家綱の後見人になった。
彼は民に非常に目を向けた人であったそうで、「江戸の飲み水が足りない」という問題を解決するため、「江戸の堅牢性が下がる」とわめく幕臣達をしずめながら、玉川上水の開削を行った。また、「明暦の大火」といわれる大火事にて焼け落ちた江戸城も、立て直そうという幕臣に対し、「軍用に大きな利点があったということは聞かないし、ただ町を見下ろすものとして使うだけであるのなら、そこに大きな労力とお金を費やす必要はない。それよりも燃えてしまった町の復旧に力を入れるべきだろう」ということでその意見を退け、結局立て直さなかった。
また、会津藩の藩政においては、「会津藩家訓」を定めたり、「社倉」と呼ばれる「飢饉のときなどに貧民を救うための米貯蔵庫」を作ったりした。この社倉米は無利息で借り受けられたり、利息がついた場合でも2、3年は支払いを待ってもらえたりしたそう。天候に左右されてしまう農作物を扱う上で、こうした制度を作ってくれることは、農民にとっても有難いことだったと思う。
この時代の人について目を向けると、忠孝・恩義といったことにとても誠実だなということを、改めて感じる。今の時代とは大きく違う文化・習慣が、当然としてあった時代。もちろん読んでいて「美化されすぎだろ?」と思ったり、「この時代に生まれないでよかった」と思う点もあったけど、「こういうリーダーの下のこういう文化もいいなあ」と思う点もあった。
当たり前のことだけど、今僕らが当然のこととして考え、当然として親しむ文化も、昔から考えれば「異文化」だし、当然未来から考えても「異文化」になるわけだよなあ。そしたら未来を作っていくとは、すなわち「文化」を作っていくことになるわけで、「未来の担い手」とは「今の文化を過去の文化にできる人」を指すわけか。どんな文化にするかは、未来の担い手次第。
だったら、常に「対応」しているだけでなく、「創造」する側でいたいよなあ。
余談だけど、保科正之は「殉死」を禁止させる法律を早い段階で作った人らしい。殉死とは藩主が死んだらそれを追いかけて死ぬこと。当時はそれが普通に行われていた。
そうしたときって、「ああ、オレこいつのために死にたくないなあ」と思って死ぬ家臣はいたのだろうか。それとも皆、「いつ何時も、この方の供でいたいのだ!!」という気概で死んでいくのだろうか。そこを知りたい!!!って強く思った(笑)
今の時代に殉死を行えるぐらいの関係は、どれくらいあるだろうね。
最近、マンガの正義に変化が起きていると思いました。
以前、学校の課題図書で「『世界征服』は可能か?」という本を読みました。色々なアニメやマンガの悪者の「世界征服」の方法を参考にしながら、「本当に世界征服ってできるかな?」というのを考察しているもの。この本はすぐ読めちゃうし、面白いのでお勧めです。『空想科学読本』とか好きな人は、抑えておいた方がいいです笑
→岡田斗司夫著「『世界征服』は可能か?」/ちくまプリマー新書(2007/06)
→柳田理科雄著「空想科学読本」/メディアファクトリー(1999/07)
この本はビジネス書として読んでも学ぶところが多いのだが、特に面白いのは、世界征服を現実に考えてみると、「かつてのイメージで世界征服しても、あまりウマミがないよ~」ということが分かる、という項がある。ここがよかった。
ここで述べられていることは「支配とは何か?」ということで、簡単にまとめると「昔と今の豊かさが変わってしまい、今求められる豊かさは「人の支配下」では生まれえない。」ということが書かれているわけです。これについては本を読んでください。
この本からは、一面的な「世界征服したら、きっと幸せだろう」という考えをひっくり返す考えを学んだんだけれども、今週ジャンプでNARUTOを読んだら、「敵対する正当な正義」について語っていて、面白いなと思ったわけです。主人公は攻めてくる敵と戦っている。主人公の目的は、「世界を平和にするため」。でも今週の話では、実は敵も「世界を平和にするため」に、主人公の国に攻め込んでいることが分かったわけです!
ロジックで二人の意見をぶつけていても互いに分かり合えないでしょうね。だって、二人ともロジック的には言ってること正しいんです。まあ互いの前提が違うんですが、二人とも似たような「正義」のために戦っている。これはそっくりそのままアメリカとイラクの形に映し出せると思います(マンガをしっかり読んでないんで、主人公と敵の背景まではカバーしてません。僕の読み方が浅いだけでしたらすみません)。以前ジャーナリストの野中章弘さんに、「二つの真実、一つの事実」という話を伺ったけど、マンガを読んで改めて思いだした。
経営者でONE PIEACEが好きな人は多いです。一人の経営者に「多様な強さと、絶対的強さを持ち合わせない主人公が、前を向いて困難に向かっていくのが面白い。あと感動するシーン。」と聞いたことがある。そういえば研究会の先輩が、「ドラゴンボールは強さを『戦闘力』に置き換えてしまったことが、失敗だった。」と言っていたのを思い出します。確かにドラゴンボールって、強さも一元的だし、悟空の戦う理由も明確で、悟空は必ず良い側(地球を守る)でしたよね。ドラゴンボールの敵なんてのは、やりたい放題のやつばっかだったし。
そう考えると、時代とともにマンガの在り方も変わっているんだなあと思った。まあ当たり前ですね。
このマンガの在り方の変化に敏感になったのは、前に哲学者の野矢さんに話を伺った時に、「マンガは紋切り型を教える」という話をしたからだと思います。「マンガを読むのって若い人が多い。子供も多い。彼らの思考はマンガに影響されるところが多いだろうから、マンガのメッセージというのは結構大切。」という話でしたが、それを踏まえると、今のマンガを読む子供は、一つの物事にも多様な真実があるってことを学んでいるのか。
なんか芋づる式にどんどん書きたいことが出てきてしまって、終わらなくなってしまったのでこの辺で強制終了。会津行きはもう明後日。
▼LINK-----
哲学者野矢茂樹さんのインタビュー。
→野矢茂樹インタビュー
ジャーナリスト野中章弘さんのインタビュー。
→野中章弘さんインタビュー
以前、学校の課題図書で「『世界征服』は可能か?」という本を読みました。色々なアニメやマンガの悪者の「世界征服」の方法を参考にしながら、「本当に世界征服ってできるかな?」というのを考察しているもの。この本はすぐ読めちゃうし、面白いのでお勧めです。『空想科学読本』とか好きな人は、抑えておいた方がいいです笑
→岡田斗司夫著「『世界征服』は可能か?」/ちくまプリマー新書(2007/06)
→柳田理科雄著「空想科学読本」/メディアファクトリー(1999/07)
この本はビジネス書として読んでも学ぶところが多いのだが、特に面白いのは、世界征服を現実に考えてみると、「かつてのイメージで世界征服しても、あまりウマミがないよ~」ということが分かる、という項がある。ここがよかった。
ここで述べられていることは「支配とは何か?」ということで、簡単にまとめると「昔と今の豊かさが変わってしまい、今求められる豊かさは「人の支配下」では生まれえない。」ということが書かれているわけです。これについては本を読んでください。
この本からは、一面的な「世界征服したら、きっと幸せだろう」という考えをひっくり返す考えを学んだんだけれども、今週ジャンプでNARUTOを読んだら、「敵対する正当な正義」について語っていて、面白いなと思ったわけです。主人公は攻めてくる敵と戦っている。主人公の目的は、「世界を平和にするため」。でも今週の話では、実は敵も「世界を平和にするため」に、主人公の国に攻め込んでいることが分かったわけです!
ロジックで二人の意見をぶつけていても互いに分かり合えないでしょうね。だって、二人ともロジック的には言ってること正しいんです。まあ互いの前提が違うんですが、二人とも似たような「正義」のために戦っている。これはそっくりそのままアメリカとイラクの形に映し出せると思います(マンガをしっかり読んでないんで、主人公と敵の背景まではカバーしてません。僕の読み方が浅いだけでしたらすみません)。以前ジャーナリストの野中章弘さんに、「二つの真実、一つの事実」という話を伺ったけど、マンガを読んで改めて思いだした。
経営者でONE PIEACEが好きな人は多いです。一人の経営者に「多様な強さと、絶対的強さを持ち合わせない主人公が、前を向いて困難に向かっていくのが面白い。あと感動するシーン。」と聞いたことがある。そういえば研究会の先輩が、「ドラゴンボールは強さを『戦闘力』に置き換えてしまったことが、失敗だった。」と言っていたのを思い出します。確かにドラゴンボールって、強さも一元的だし、悟空の戦う理由も明確で、悟空は必ず良い側(地球を守る)でしたよね。ドラゴンボールの敵なんてのは、やりたい放題のやつばっかだったし。
そう考えると、時代とともにマンガの在り方も変わっているんだなあと思った。まあ当たり前ですね。
このマンガの在り方の変化に敏感になったのは、前に哲学者の野矢さんに話を伺った時に、「マンガは紋切り型を教える」という話をしたからだと思います。「マンガを読むのって若い人が多い。子供も多い。彼らの思考はマンガに影響されるところが多いだろうから、マンガのメッセージというのは結構大切。」という話でしたが、それを踏まえると、今のマンガを読む子供は、一つの物事にも多様な真実があるってことを学んでいるのか。
なんか芋づる式にどんどん書きたいことが出てきてしまって、終わらなくなってしまったのでこの辺で強制終了。会津行きはもう明後日。
▼LINK-----
哲学者野矢茂樹さんのインタビュー。
→野矢茂樹インタビュー
ジャーナリスト野中章弘さんのインタビュー。
→野中章弘さんインタビュー
昨日、高校の友達20人弱くらいで忘年会をした。とても楽しかった。
人ってどんどん成長していくものなので、中学・高校・大学と、その時々の自分の成熟度によって作るコミュニティとか人間関係というのは変わってくると思うんです。だから自然と、中学・高校・大学では、「ノリ」が違ってくる。
また、その時の友達と会うと、当時の自分が戻ってくる(内面から浮き上がってくる?)感じがする。別にその自分を押し殺しているわけではないんだけど、勝手に自分が成長しちゃってるので忘れてしまっているのかもしれない。でも、その時々に自分がいたコミュニティの環境に囲まれると、その時の自分が戻ってくる。高校時代の友達との人間関係の中では、高校の時のノリの自分が表面化してくるので、大学生の自分の普通とは少し違ってくるわけです。普段とは別の楽しみがそこにあり、非常に楽しみました。友達っていいなって思いました。
当時の自分を振り返り、留学を経て大学に入って、今に至る。僕は現在社会起業だとかに興味を持つようになったけど、その「社会」って何を指すんだ?と考えたとき、やっぱりこうした友達だとか自分の周りを指していたい。その延長線、つまり「友達の友達」とか、「知人の知人」といったつながりで存在してくるものが、大きな意味での社会になるのだと思う。「社会のため」「他人のため」という言葉はマクロなものに見てしまいがちだけど、ただ友達との関係を自分が大切にしていきたいと思った時に、自分だけでなく他人のためも含めた生き方・働き方というものが、自分の選択するべきものになってきて、それが「社会起業」とか呼ばれるものになってくるのかなと思います。
今、ピーターセンゲが書いている『出現する未来』という本を読んでいる。内容は「物事を分断して考える既存の考え方から脱却して、『自分と他人』『自分と世界』を融合させて考えられるようになろう」みたいな感じなんだけど(まとめられるほど理解していないんです。。。)、ここでセンゲが言う『自分と他人を融合させた考え』というのが、まさに昨日感じたことなのかなと思いました。つまり、自分が大切だと思うもの(友達)があって、それを大切にしたいと思うと色々なこと(友達が大切だと思う事とか、コミュニティ環境のように、自分には直接関係なさそうな要因)を大切にしなければいけない。でもそれらを大切にすることは、結局は自分のためである、みたいに。これは簡単に言うと「みんなのため」ということになるんだろうけど、それをわざわざ自分との対比における「みんな」としないで、全てのものを融合させて考えようというのが、センゲの言いたいことなのかなあと思ったりしました。まとまりがなくてすみません。
→『出現する未来』/ピーターセンゲ、C・オットー・シャーマー、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズ著 野中郁次郎監訳 高遠裕子訳/講談社BIZ
今回の忘年会は、女性人が突っ走ってくれて盛り上げてくれたので、「次は僕が」という気持ちに溢れています。負けらんない。
またやりたいな。
人ってどんどん成長していくものなので、中学・高校・大学と、その時々の自分の成熟度によって作るコミュニティとか人間関係というのは変わってくると思うんです。だから自然と、中学・高校・大学では、「ノリ」が違ってくる。
また、その時の友達と会うと、当時の自分が戻ってくる(内面から浮き上がってくる?)感じがする。別にその自分を押し殺しているわけではないんだけど、勝手に自分が成長しちゃってるので忘れてしまっているのかもしれない。でも、その時々に自分がいたコミュニティの環境に囲まれると、その時の自分が戻ってくる。高校時代の友達との人間関係の中では、高校の時のノリの自分が表面化してくるので、大学生の自分の普通とは少し違ってくるわけです。普段とは別の楽しみがそこにあり、非常に楽しみました。友達っていいなって思いました。
当時の自分を振り返り、留学を経て大学に入って、今に至る。僕は現在社会起業だとかに興味を持つようになったけど、その「社会」って何を指すんだ?と考えたとき、やっぱりこうした友達だとか自分の周りを指していたい。その延長線、つまり「友達の友達」とか、「知人の知人」といったつながりで存在してくるものが、大きな意味での社会になるのだと思う。「社会のため」「他人のため」という言葉はマクロなものに見てしまいがちだけど、ただ友達との関係を自分が大切にしていきたいと思った時に、自分だけでなく他人のためも含めた生き方・働き方というものが、自分の選択するべきものになってきて、それが「社会起業」とか呼ばれるものになってくるのかなと思います。
今、ピーターセンゲが書いている『出現する未来』という本を読んでいる。内容は「物事を分断して考える既存の考え方から脱却して、『自分と他人』『自分と世界』を融合させて考えられるようになろう」みたいな感じなんだけど(まとめられるほど理解していないんです。。。)、ここでセンゲが言う『自分と他人を融合させた考え』というのが、まさに昨日感じたことなのかなと思いました。つまり、自分が大切だと思うもの(友達)があって、それを大切にしたいと思うと色々なこと(友達が大切だと思う事とか、コミュニティ環境のように、自分には直接関係なさそうな要因)を大切にしなければいけない。でもそれらを大切にすることは、結局は自分のためである、みたいに。これは簡単に言うと「みんなのため」ということになるんだろうけど、それをわざわざ自分との対比における「みんな」としないで、全てのものを融合させて考えようというのが、センゲの言いたいことなのかなあと思ったりしました。まとまりがなくてすみません。
→『出現する未来』/ピーターセンゲ、C・オットー・シャーマー、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズ著 野中郁次郎監訳 高遠裕子訳/講談社BIZ
今回の忘年会は、女性人が突っ走ってくれて盛り上げてくれたので、「次は僕が」という気持ちに溢れています。負けらんない。
またやりたいな。
松岡正剛氏の「知の編集工学」を読んだ。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
金子先生の「理性」と「弱さ」のジャンプという論文を読んだ。この論文では前の記事で書いた「合理性」が、「最も大切になれない理由」と、今後の社会における「弱さの強さ」について書かれている。読んだ後には、「既存の枠組みを変える原動力」をこのブログも担っているんじゃないかと勝手に思っていた(笑)
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
中世のある村では、牧草地が入会地として村人全員で共有され、全員に解放されていた。そのために、羊飼いの中には、自分の羊を何匹もそこに連れてきて牧草を食べさせようとするものが出てくるかもしれない。そのような不心得者が一人出てくると、他の羊飼いも競って自分の羊をたくさん連れてきてそこで牧草をたらふく食べさせるようになり、結果として、みなの財産である共有地は丸坊主になり、荒れ果ててしまうことになる。これが合理的選択が行きすぎたところによる悲劇であるわけです。ここでの選択肢の集合とは「何匹羊を連れてくるか」ということであったが、「一番自分にメリットがある」という基準で選択すると、「自分が持っている全ての羊を連れてくる」という選択が最も望ましいものになる。しかし、皆が皆合理的な選択をした結果、共有地が丸坊主になって、そしたら食べ物が無くなった羊はたぶん死んでしまうので、皆大損する羽目になる。これではいけない。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら

友人が「これ、般若心経を限りなく分かりやすくした本だわ!」と言って見せてくれた。
母がクリスチャンであり、僕もキリスト教の考え方が強い人間であるのだが、読んでみると、本当に分かりやすく、しかも面白い。まえがきに書いてあるが、般若心経「思い切って」現代語にしたのだとか。意訳も意訳、「超」訳だそうだ(笑) しかし、それによって般若心経がすごく身近になり、仏教の知恵を僕に届けてくれた。
僕の心に残ったものをいくつか。
不生不滅(ふしょうふめつ)
人は不安を抱える。しかし、その不安とはどこにあるのだろうか?心の中にある?でも、そのどこにあるのか?どこにも見当たらないでしょう。探してどこにも見当たらない不安など、もともと存在しないということ。「ないもの」に怯えていても、しょうがないということ。
これに関して、前にイギリスの有名な医者の、「明日の自分に鉄のカーテンを引き、昨日の自分に鉄の扉をしなさい」という言葉を読んだことがある。彼が言っているのは、「一日の区切りで生きなさい」ということだった。つまり明日も昨日も想像でしかなく、自分が認識できる「自分という存在とその人生」は、イマ・ココにしかない、「ならば今を生きなさい、さらに自分を一日一日に区切ってその日の自分を懸命に生きなさい。」ということが彼の教えなのです。「昨日の失敗は昨日の自分の失敗であり、今の自分とは関係ない。明日の自分の心配は、明日の自分が考える。今の自分とは関係ない。」そう考えられるかどうかです。これは結構大切な気がしています。もちろん失敗を反省し、次に生かさなければ成長なんてないのは百も承知でしょう。計画的な準備も必要なのは当たり前。しかし、「心配」だとか「おびえ」だとかいうものについては、「今の自分には関係のないこと」と考えられれば、それだけで心に余裕ができる。その余裕を作り出せる考え方ならば、それは素敵な考え方だと言わざるを得ないし、それは採用していきたい(笑)
色々あったけれども、もう一つ。これも非常に共感できる知恵。
「死は不幸ではないと信じたい。なぜなら死は誰にでも訪れる。人は死に向かって生きている。死が不幸であるならば、人は不幸に向かって生きていることになる。それじゃあ、おかしいだろう。」
今、この「パズルランドのアリス」という本にはまっている。論理パズルの本。
中学時代に、先生から面白いと言われたので買ってみたが、良く分からなかったので放置されていた本。今読んでみると、とても面白い。
著者のレイモンド・スマリヤンという人は、様々な童話や物語をベースに、パズルの話を作るらしく、この「パズルランドのアリス」でも、不思議の国のアリスに出てくるキャラクターが、ルイス・キャロルの世界観の中の性格を保ちながら、論理的な問いかけをしてきたり、算数的な問いかけをしてきたり、なんやりと(最後まで読んでないので分からないが)、読んでいるだけでも楽しくて、かつ問いかけの一つ一つが非常に考えさせるものになっている。
読み終わったら、どんなものだったかを書きます。今は、面白い最中。
中学時代に、先生から面白いと言われたので買ってみたが、良く分からなかったので放置されていた本。今読んでみると、とても面白い。
著者のレイモンド・スマリヤンという人は、様々な童話や物語をベースに、パズルの話を作るらしく、この「パズルランドのアリス」でも、不思議の国のアリスに出てくるキャラクターが、ルイス・キャロルの世界観の中の性格を保ちながら、論理的な問いかけをしてきたり、算数的な問いかけをしてきたり、なんやりと(最後まで読んでないので分からないが)、読んでいるだけでも楽しくて、かつ問いかけの一つ一つが非常に考えさせるものになっている。
読み終わったら、どんなものだったかを書きます。今は、面白い最中。
最近、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』(ちくま新書)を読んだ。とても有名な本ですね。前から持ってたけど、なかなか手が伸びなかったが、先輩と話しているときに話題に出たので、勢いつけて一気に読んでみた。
面白かったです。分かりやすいし、2年も前に書かれた本なので、今となって読んでみると、今当然として認知されている流れがそのまま書いてあり、しっかりと時代の流れを説明している本なんだなーと思いました。読んでいない人は、読んでみるといいと思います。
一つ気になったのは、環境問題を始めとした社会問題を勉強している僕にとって、Webの世界を「あちらの世界」とした場合、どうも「あちらの世界」だけに浸っているわけにはいかないんじゃないかということ。「あちらの世界」に情報を蓄積したり、そこから新しい技術やビジネスが生まれていくことは社会全体にとってもいいことだと思うが、「こちらの世界(現実世界)」の不都合・ゆがみに対して目を向けないわけにはいかないんじゃないかと感じる。「あちらの世界」が素晴しい発展を遂げていても、「こちらの世界」が悲惨なことになってしまっては、「あちらの世界」の発展の意味がなくなってしまう。「あちらの世界」の情報や技術をいかに、「こちらの世界」に落とし込むか、現在の状況を考えると、いかに素早くか、というのは大切になってくるように感じた。
その中で、やってみよう!!と思ったことがあります。というか、今までもやってたけど、より意識的に。それは、「ブログを自分の経験・体験・勉強内容の蓄積場所として使う。しかもそれをオープンにしてしまう。」ということ。梅田氏は本の中で、「ブログこそ、自分にとって究極の『知的生産の道具』かもしれないと感じ始めている」と述べていた。(2年前の話なので、もしかしたらもう変わってるかも(笑))
ただ、今の僕にとっては、これは目から鱗であった。自分の経験したことや体験したことなどを、どんどんこの場所に書き溜めていこうと思う。文字情報ならほぼ無限大にサーバーに蓄積することが可能だし、曲がりなりにも公開するわけだから、言葉を選んだり、どうしたら相手に伝わるかを考えるし。何より、自分でしか見られないような日記をつけるよりも、見た目や書いている内容で「遊んでみよう!」という遊び心が生まれる。これって結構大切だと思っていて、この遊び心から色々イジッたりしてみて、なんとなくいいモノができたり、新しい発想が生まれたりするんだと思う。自分しか見ない日記じゃ、めんどうだからそんなことはしなくなるし。
ということで、このブログを自分の外部の記憶装置として、自分が感じたことや体験したことを、どんどん書きためていこうと思う。時が経つにつれて自分がどのように感じていたのかを見られるようになるのは、貴重なことになるに違いない。そういう意味でもいいものだ。
ちなみに、My Acceptには、「自分が経験するあらゆる出来事に対して、そこから目を背けずに、「自分なり」に受け止めていく」という意味を込めた。将来の自分は、今の自分の出来事の受け止め方を、どう思うだろう。
面白かったです。分かりやすいし、2年も前に書かれた本なので、今となって読んでみると、今当然として認知されている流れがそのまま書いてあり、しっかりと時代の流れを説明している本なんだなーと思いました。読んでいない人は、読んでみるといいと思います。
一つ気になったのは、環境問題を始めとした社会問題を勉強している僕にとって、Webの世界を「あちらの世界」とした場合、どうも「あちらの世界」だけに浸っているわけにはいかないんじゃないかということ。「あちらの世界」に情報を蓄積したり、そこから新しい技術やビジネスが生まれていくことは社会全体にとってもいいことだと思うが、「こちらの世界(現実世界)」の不都合・ゆがみに対して目を向けないわけにはいかないんじゃないかと感じる。「あちらの世界」が素晴しい発展を遂げていても、「こちらの世界」が悲惨なことになってしまっては、「あちらの世界」の発展の意味がなくなってしまう。「あちらの世界」の情報や技術をいかに、「こちらの世界」に落とし込むか、現在の状況を考えると、いかに素早くか、というのは大切になってくるように感じた。
その中で、やってみよう!!と思ったことがあります。というか、今までもやってたけど、より意識的に。それは、「ブログを自分の経験・体験・勉強内容の蓄積場所として使う。しかもそれをオープンにしてしまう。」ということ。梅田氏は本の中で、「ブログこそ、自分にとって究極の『知的生産の道具』かもしれないと感じ始めている」と述べていた。(2年前の話なので、もしかしたらもう変わってるかも(笑))
ただ、今の僕にとっては、これは目から鱗であった。自分の経験したことや体験したことなどを、どんどんこの場所に書き溜めていこうと思う。文字情報ならほぼ無限大にサーバーに蓄積することが可能だし、曲がりなりにも公開するわけだから、言葉を選んだり、どうしたら相手に伝わるかを考えるし。何より、自分でしか見られないような日記をつけるよりも、見た目や書いている内容で「遊んでみよう!」という遊び心が生まれる。これって結構大切だと思っていて、この遊び心から色々イジッたりしてみて、なんとなくいいモノができたり、新しい発想が生まれたりするんだと思う。自分しか見ない日記じゃ、めんどうだからそんなことはしなくなるし。
ということで、このブログを自分の外部の記憶装置として、自分が感じたことや体験したことを、どんどん書きためていこうと思う。時が経つにつれて自分がどのように感じていたのかを見られるようになるのは、貴重なことになるに違いない。そういう意味でもいいものだ。
ちなみに、My Acceptには、「自分が経験するあらゆる出来事に対して、そこから目を背けずに、「自分なり」に受け止めていく」という意味を込めた。将来の自分は、今の自分の出来事の受け止め方を、どう思うだろう。

