本: 2008年10月アーカイブ
松岡正剛氏の「知の編集工学」を読んだ。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
→松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)
この本は「編集」についての著者の考え方が分かるというもので、どちらかというと「編集そのものがどういうものか」についてを語っていた本であった。僕は、「目的達成のための一つのツール・考え方」としてどのように「編集」というものは捉えられるのかということに興味があったので(どういうところに気を使って編集は行っていくべきかとか。)、若干イメージとは違う内容ではあった。
でも、面白かった。
この本では、「編集とは人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」としている。その中で、松岡氏は情報の基本的な動向について、「情報は生きている」「情報はひとりでいられない」「情報は途方にくれている」という三つの見方を持っている。この三つの動向をまとめると、「情報は関係し合おうとしている」ということになるそうで、その関係性を見出すことが、「編集」なのだと松岡氏は言う。その中の「情報はひとりでいられない」というのに、なるほど~と思った。これを説明する例えに、連想ゲームを挙げている。
詳細は本を読んでもらうとして、例えば「リンゴ→赤→血→吸血鬼」とか連想が続くとする。ではこれはなぜ起こりうるか?それは、「リンゴ」という情報には「赤」という情報が常に付きまとっているからである。それ以外にも「果物」だとか「ニュートン」だとか「MAC」だとか。そういう意味で、情報はひとりではいられず、「ひとつの情報が多様な情報を持ち合わせている」ということが言える(これには本当はもう一つ前提があるそうで、本の中では<単語の目録>と<イメージ辞書>と<ルール群>というので説明をされていたが、話が逸れていくので省略)。
この情報連鎖が編集の大事な要素の一つであるそうだが、これというのは広告とかプレゼンとか「情報を発信する行為」でも大事になりますよね。つまり、発信した情報で相手に情報連鎖を起こさせることができれば、短い時間やセンテンスで多くのことを伝えられるわけです。とすると、広告にもプレゼンにも、「編集」が大事になるんですね。当たり前に思えるけど、編集がただ情報を整理整頓するという意味ではなく、その先にあるもののための編集だということを再確認。
また、松岡氏は、人は頭の中で常に「編集作業」を行っていると指摘する。
これは何となく分かりますよね。一日24時間ある中で、昨日のことを思い出そうとしてもほんの数分分しか思い出せない。これは24時間の経験を数分にまとめちゃっているということで、これを編集作業をしていると言っている。で、この編集作業で「まとめらる」か「まとめられないか」の瀬戸際で大切になるのが、「注意を向ける」ということなのだそうだ。そこに注意が払われて初めて、「編集作業」が始まるのだそう。また、情報には性質として「情報の地」と「情報の図」というものがある。情報の地とは情報の背景にあるもので、情報の図とは背景に乗っている情報の図柄を指す。例えば「コップ」に注意を払ったとしたとき、情報の図は「コップ」で、情報の背景は「コップが乗っているテーブル」になる。このとき私たちは「コップ」しか覚えられないだろう。つまり私たちは「図」にのみ注意を払って日常生活をしていると言ってよい。
これを読んで思い出したのは、一緒に団体活動をしているデザイナーのjpの注意の払い方。彼は少なくとも僕よりは、「図」にも「地」にも注意を払って生活する癖がついている。例えば同じものを見た時も、僕が「図」として見ている「そのもの」よりも「地」を含めた広範を、jpは「図」として見れている。だからjpが「あれ面白かったよね」と言ったとしても、僕の眼には飛び込んできていなかったりするんですよね。「どれ?そんなのあったっけ?」みたいに。もちろんこれには個々人の性格とか視点とか興味とかにもつながってくる話だし、「注意力」というのはどこに入ってくるのかとかも思うが、常日頃から人の頭は編集を行っていて、注意を払ったものだけが「見えていて、頭に残るもの」になると自覚しておくことは、物を見る上で大切になる。これも考えてみると当たり前。
→Hs.jp blog
この本で一番興味深かったことは、松岡氏が「自分がどのように編集しているのか」を考えているところ。そういや、自分は何を持って編集しているのだろうか?
上記したように一日を過ごす中で、人は日々を「編集」している。また、今僕がこのブログを書くにしても、まさに「編集行為」を行っているわけですね。350ページの本を読んで、自分の体験とか考えをちょこちょこ加えて、書いている。でもこれというのは、何を持って編集しているのだろうか?本を読んだときに、僕はどのように自分が引っかかった言葉を選んできて、頭に残すんだろうか。でも自分が引っかかった言葉(情報)と、相手が発信したい言葉(情報)って、重なるんだろうか?重ならないと思うんですよ。この本の中にもあるけれど、情報のやりとりというのは「相互作用」に依存するので、メールのように発信すれば、必ずその通りに受信されるわけではない(これは白土さんも同じことを言われていた→ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~)。相手が伝えたい情報と自分が引っかかる情報を、どう相互作用をし合って、「編集」していけばいいんだろう?
本の中で「自由な編集状態」でいるということを勧めていたけど、僕にはよく分からなかった(笑) ここが結構知りたいところだったのだけれど。まあそこは、「自分なりに受け取って、それをシェアすればいいではないか」とは思う。
相手が発信している情報を、相手の意のままに受け取ることは相手の背景だとかを知った上でしかできないと思うので、そうではなくて自分なりに引っかかった情報というのを、自分の中でまとめてみて、それをシェアすればいい。一つの情報でも、それぞれの興味や経験から見ると多様な情報がくっついてるのが見えてくるだろうから、それをシェアした方がより広い情報を得られるということになるわけですね。
そうすると、僕が受け取る情報というのも、僕が成長して視点が変われば、変わってくるのだろうか。そしたら「編集」というのも、決して固定されたものではないということですね。これもまた当たり前か。
金子先生の「理性」と「弱さ」のジャンプという論文を読んだ。この論文では前の記事で書いた「合理性」が、「最も大切になれない理由」と、今後の社会における「弱さの強さ」について書かれている。読んだ後には、「既存の枠組みを変える原動力」をこのブログも担っているんじゃないかと勝手に思っていた(笑)
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら
ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている
ということだった。良かったら読んでみてください。
→『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)
研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。
サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。
ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。
中世のある村では、牧草地が入会地として村人全員で共有され、全員に解放されていた。そのために、羊飼いの中には、自分の羊を何匹もそこに連れてきて牧草を食べさせようとするものが出てくるかもしれない。そのような不心得者が一人出てくると、他の羊飼いも競って自分の羊をたくさん連れてきてそこで牧草をたらふく食べさせるようになり、結果として、みなの財産である共有地は丸坊主になり、荒れ果ててしまうことになる。これが合理的選択が行きすぎたところによる悲劇であるわけです。ここでの選択肢の集合とは「何匹羊を連れてくるか」ということであったが、「一番自分にメリットがある」という基準で選択すると、「自分が持っている全ての羊を連れてくる」という選択が最も望ましいものになる。しかし、皆が皆合理的な選択をした結果、共有地が丸坊主になって、そしたら食べ物が無くなった羊はたぶん死んでしまうので、皆大損する羽目になる。これではいけない。
この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。
つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。
現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。
ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。
僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。
どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。
また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。
論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。
この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。
「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。
色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。
2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら

