常識の最近のブログ記事

同時代性ってなんぞや。

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最近連ちゃんの影響で「批評」というものに関する書籍やウェブ記事を読む。

批評とは何か。「ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露」ということだとはてなは言う。 >>1 これ以上批評について興味がある人は、各自調べてください。


全くその世界を知らなかった僕がなぜ急に「批評」に興味を持ち始めたかというと、「同時代性」を考える必要が出てきたから。大学生が社会性のある活動を行おうとするとき、どんな分野においても等しく「若者らしく元気よく、今の時代にあった形で活動してほしい」と言われると思う。これは「大学生が活動を行う」ことを前提とすれば当然の期待であるし、そこにこそ学生の挑戦意義があるわけだが、それでは「今の時代にあった形」とは何か。というか、「今の時代」をどう捉えるか。

この問いを「自分ないしは自分の周りの人間」に置き換えて進めることは簡単。しかし、通常は「今の15代~30代の日本人男女=若者」を想定して話が展開される。まあ当たり前。

また、一回性を持った期限付きプロジェクトでない限り、更新を前提としてもある程度今後のことを視野に入れた活動を行う必要がある。今の20歳の若者は10年後には若者ではなくなっているわけで(上の若者定義によるならば)、その時社会が進んでいる方向性、その時若者となっている10歳の子供が影響を受けるであろう現代社会の予兆に目を向けておくことが必要だろうなと思ったりする。


そんなことで、連ちゃんに「今の時代ってどんななんだ?」と相談したわけです。そうすると、色々な意見/視点を教えてもらい、本も紹介してもらった。『思想地図』と『ニッポンの思想』。読んでみると、、、面白い!全く無知の学生が最初読んだ感想は、「サブカルチャーへの言及/引用が多いんだなあ」という単純なものだったが、だんだん「サブカルチャ-が示す現代日本」というものに惹かれ始める。「そうか~。同時代性を語る上では『なぜサブカルチャ-が示す現代か』という点からは目をそらせない」と思ったりする。

現在白馬民宿のプロジェクトを行っているが、このプロジェクトの前提となっている「なぜスキー人口は減少しているか」という問いを考える時も、この辺りを踏まえて考えるべきだと思った。興味/娯楽/コミュニケーションツールの機能や役割が別に移ってしまっているわけなんですな。
>>白馬村 新民宿宣言プロジェクト

先日、おそばせながらエヴァンゲリオンを見に行った。6月に始まった映画なので、9月後半ともなると上映が終わっている劇場もちらほらあった。ただ渋谷でやっていたので行くと、なんとめっちゃ混んでいた。特に20代の女の子が多かった。中には「ギャル男」も見ていて、帰りに興奮しながら彼女と映画について熱弁していた。

また、ローカル・リンクで旅をして市長を訪問していたときも、埼玉県春日部市では『クレヨンしんちゃん』、埼玉県幸手市では『らき☆すた』が市内の活性化において重要な役割を果たしていると各市長が仰っていた。それらが一部に知られていることはあったとしても、行政が積極的に町の代名詞にしようとするのは時代の流れなのか。幸手市では「聖地巡礼」という☆型シールが貼ってあるお菓子が売られていたり、電柱に『らき☆すた』の絵が入っていたりする。
>>ローカル・リンク


こういうことを見ても、今まで「オタクのもの」として捉えられがちだったサブカルチャーの文化が、どんどん一般の(マジョリティの)領域に引き寄せられていると感じる。エヴァが始まった1995年と違って、彼女とデートでエヴァを見に行くのは普通なんだね。コミュニケーションツールとしてのオタク文化を利用する傾向も出ているとも読んだけど、それもつくづく感じる。

今「同時代性」を考えるときには、新たな雰囲気を受け入れつついる姿勢が大事になってくるんじゃないか。でも考えると、新しさが含まれるのは当たり前だよね。だって「同時代性」なんだもの。ただ、伝統文芸とかとの距離がどんどん乖離していくことになるなあ。昔と今の価値/視点の違いなんだろうけど。そんなことに関しても色々面白いことが書いてあったが、収集がつかないので今日はここまで。






ルールをどう破るか ~相手に伝えるコツ~

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今日はThink the Earthプロジェクトのイベント,

[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から

に参加してきた。
Think the Earth オフィシャルサイト


このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。

この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。


僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)


①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。

確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。


②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。

参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。

例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。


③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。

また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。


④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、

「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」

という文章を、

「花束がドアを開けた」

という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、

「草木も眠る丑三つ時」

とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。


⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。

最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」

40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。

もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。

今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。


⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。



とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。

よかった。次は何を得られるか楽しみだ。



「ホームレス」という人種はいない。

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「ホームレスという人種はいません。ホームレス状態に置かれた人がいるだけです。」


これは、ビッグイシュー基金のウェブサイトの最初に載ってる言葉。今日、特にそれを感じた。

ホームレスワールドカップに向けて、隔週日曜日、練習を重ねている。今日もその練習だった。
(→ホームレスワールドカップについては、こちらの記事)

練習が終わると、それぞれが話しながらビッグイシューの事務所に戻る。今日の帰りは、僕はホームレスのAさんと話しながら帰った。


Aさんはもう、ずっと練習に来ている方。最初はあまり人とのコミュニケーションがうまく取れなかったものの、慣れ始めるとメキメキと頭角を現し、今じゃ戦力として数えられるほど(?)の上達を見せている。

帰り道、そのAさんと練習について話していると、雨が降ってきた。


Aさん 「雨だー。またいきなり降るやつかな。あれやられると大変なんだよなー。本濡れるし。人いなくなるし。」
kenji 「そうですよね。本とか濡れたら売り物にならなくなりますもんね。」
Aさん 「オレは屋根ある所に避難出来たり、そこで少し販売できたりするからまだいいんだけどな。でも暑い時は暑いで大変だよ。それでまた売れないんだ最近。」


このAさんがこぼした軽いグチが、僕にはとてもリアルだった。というのも、近頃外と言えば灼熱の暑さなわけです。そんな中、雑誌を掲げて声出して、頑張って売っているわけです。たまに街中でビッグイシューの販売員を見かけるが、日陰で販売できている人はほとんどいない。炎天下、もしくはゲリラ雨と闘いながら、雑誌を売っているわけ。

今日軽く交わしたこの会話が、僕の頭にずっと残っていた。「なんでだろうなー」と思っていたところ、以前名古屋の公園でホームレスの小屋の強制撤去があったときのことを思い出した。当時の僕は、全くホームレスの人とは関わったことがなく、一視聴者としてこの出来事をテレビで見ていた。

今思うと、テレビに映っていたホームレスの人や支援者を、僕は別の人種として見ていた気がする。どこか遠い人で、自分には関わりのない人。だから名古屋の出来事も、自分にとってはどこかの国の暴動の映像と同じ程度のものでしか見ていなかった。

大学の授業で大阪を行政を研究している教授が、大阪のホームレスを調査した際(日本では、ホームレスは大阪が一番多い)、その理由として「やむなくなってしまった」人が多いそうだ。

名古屋の出来事があった際、僕は少なからず「のらりくらりとした生活をしていて、勝手に公園に家を作って、それでも税金払ってなくて、良い身分だ」と思っていた。しかし、それは全くの偏見だった。勝手にホームレスという「人種」を自分の中に作り上げ、彼らはこういう生活をしているという先入観で彼らを見ていた。今日、Aさんとの会話になぜあんなにもショックを受けたのか。それはこの先入観が崩れ、人種を作り上げていた自分を自覚したからに違いない。


もちろん自分からホームレスになりたくてなる人もいるらしいが、それはほんのごく一部らしい。やはり大多数の人は、「やむなくなってしまった」人。その中でも多くが、「なんとかこの状況から抜け出そう」と思っている人なのだそうだ。


僕は貧困の問題に興味がある程度で詳しくはない。しかし、こういった情けない偏見を抱えていた自分を知った今、自分の出来る範囲で、何かしていきたいとは強く思う。その中で、サッカーでホームレスを応援する。自分もサッカーを楽しく練習出来て(今日コーチにフェイントをかけるときの体重移動を一人だけこっそり教えてもらった。)、本気でゲームを出来て、それで少しでも彼らとの接点ができ、自分の知っている彼らだけでも応援することにつながっていければ、これほど「自分のために、他人を幸せにする」ことはない。そう思うわけです。


ホームレスという人種はいない。それを強く自覚することができただけでも、このサッカーでは大きな収穫。ここから僕が彼らに具体的な応援をしていくことにつながっていけば、さらに収穫。



イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~

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イマ・ココの「遊び」を書いたら、Aがコメント・補足をくれました!!知見が広がる!!テンション上がる!!!



その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。

>うんうん。「デザインされている」はここではイコール「目的性の内に位置づけられている」っていうことね。あと、危機感っていうより違和感かな◎

Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞 かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipedia には「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもする が、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、 これが「遊び」なのだろうか?

>「遊び」は二つの意味で使われてるんだよね。一つは「行動様式として遊び」で、これは仕事、勉強、食事とかと並ぶ項目としての遊び。二つ目はその人が今どんな状態にあるかという意味での「存在様態としての遊び」。
「どっからどこまで?」っていう質問は、上の二つの区分を考えるいいポイントかなって思って。たぶん前者の行動様式として遊びを見たときは、「宿題終わったら遊ぼっかなー」みたいな言い方が出来る。一応時間軸でもだいたい区切れるわけだよね。で、たぶんこっちの解釈の方がいろんなビジネスとか教育 の対象になりやすいんよねたぶん。時間で区切れるとカリキュラム化出来るし、一つの行為のパッケージとして見られるからだから幼児教室で遊びを通じたお勉強なんてのもあるし、遊びを通じた何か。という発想が生まれると思うんだ。




その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされ てしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、 色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらさ れると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はず だった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことがで きれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える 対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

>「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」っていうのは、目的をもって与えられて遊んだ場合、その遊びが目的的になったり行為(意図的行動)に絞られてしまわないかという事ね。そもそも遊びに目的ってないはず(?)
「それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう」っていうのはちょっとちがうかも。商品玩具でも石ころでも、本来それを越えたところにおもちゃ性を見出すのは子供の十八番だよ。だから本当は、コドモ にとっては自然な事のはずなんだけど、大人の既成概念や説明書や教育的な目的性を帯びた環境要因などなどが作用してそれを難しくさせているんじゃないかなーって。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

>「様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」=>「様々なモノに元から与えられている意味や目的を剥がしたり塗りかえたりして、改めて素材化・おもちゃ化することが重要。」ってかんじかな◎

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコン だろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。

>よくおぼえてるね。w
そう、ボクらの生活にはモノが溢れていて、ほとんどすべてがデザインされているけれど、それに従う必要は無い。ましてや遊びの世界におけるモノのあり方、つまり「おもちゃ」の存在を考えるならなおさらの事よね。

面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、 色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽 しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるよう に作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。

>うん、そういうとこはもうさんざん作られてきたし注目されてきたじゃん。エンターテイメントとか、テーマパーク、テレビゲーム、ネットゲーム、知育玩具その他いろいろ。
でも、遊びの一番生々しくて土臭い人間くさい部分ってもっと違うとこにあるんじゃないだろうか!!というのが僕の叫びかな。別に商品玩具もエン ターテイメントも好きだし、自分のこどもにも買うとおもう。でも「遊び」を全体として論じるときに、なーんか大事なとこ忘れられてる気がしてさ。その辺の違和感が出発かな。



イマ・ココの「遊び」

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先日、先輩に大学で有名な研究会の成果報告会に誘ってもらったので、行ってみた。

同学年の学生が何をしているのか全然知らなかった僕にとって、非常に刺激になる会だった。それぞれが自分の掲げる問題提起をしっかりと見つめ、それに対する自分のアプローチと達成するゴールを明確にする。そのゴールが問題提起や取ろうとしているアプローチから離れたところにあれば、容赦ない指摘により、議論が始まる。その中で、また徐々に自分が本当にやりたいと思っていることや念頭に置いていた問題提起が言語化されていき、その部分に自分が気づくことによって、さらに的確で、かつ自分でも気持ちのいい行動が取れるようになる。そこで発表したことや議論したことを実際に行動に移し、成果もあげている。l僕は大学ではどこの研究会にも所属していないので、こういう同学年での刺激し合う仲間関係が羨ましかった。来期はどこかの研究会に所属してみようかしら。


その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。


Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipediaには「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもするが、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、これが「遊び」なのだろうか?

その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらされると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はずだった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことができれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコンだろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。


面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるように作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。


面白い問題提起があったので、紹介しました。それにしても、「遊び」に対して問題提起か~。すごく楽しそう。それって遊んでんの?遊んでないの?


●ここに出てくるA君が、この記事に関して補足をくれました。A君、ありがとう!! 
イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~

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プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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