常識: 2008年8月アーカイブ

「ホームレスという人種はいません。ホームレス状態に置かれた人がいるだけです。」


これは、ビッグイシュー基金のウェブサイトの最初に載ってる言葉。今日、特にそれを感じた。

ホームレスワールドカップに向けて、隔週日曜日、練習を重ねている。今日もその練習だった。
(→ホームレスワールドカップについては、こちらの記事)

練習が終わると、それぞれが話しながらビッグイシューの事務所に戻る。今日の帰りは、僕はホームレスのAさんと話しながら帰った。


Aさんはもう、ずっと練習に来ている方。最初はあまり人とのコミュニケーションがうまく取れなかったものの、慣れ始めるとメキメキと頭角を現し、今じゃ戦力として数えられるほど(?)の上達を見せている。

帰り道、そのAさんと練習について話していると、雨が降ってきた。


Aさん 「雨だー。またいきなり降るやつかな。あれやられると大変なんだよなー。本濡れるし。人いなくなるし。」
kenji 「そうですよね。本とか濡れたら売り物にならなくなりますもんね。」
Aさん 「オレは屋根ある所に避難出来たり、そこで少し販売できたりするからまだいいんだけどな。でも暑い時は暑いで大変だよ。それでまた売れないんだ最近。」


このAさんがこぼした軽いグチが、僕にはとてもリアルだった。というのも、近頃外と言えば灼熱の暑さなわけです。そんな中、雑誌を掲げて声出して、頑張って売っているわけです。たまに街中でビッグイシューの販売員を見かけるが、日陰で販売できている人はほとんどいない。炎天下、もしくはゲリラ雨と闘いながら、雑誌を売っているわけ。

今日軽く交わしたこの会話が、僕の頭にずっと残っていた。「なんでだろうなー」と思っていたところ、以前名古屋の公園でホームレスの小屋の強制撤去があったときのことを思い出した。当時の僕は、全くホームレスの人とは関わったことがなく、一視聴者としてこの出来事をテレビで見ていた。

今思うと、テレビに映っていたホームレスの人や支援者を、僕は別の人種として見ていた気がする。どこか遠い人で、自分には関わりのない人。だから名古屋の出来事も、自分にとってはどこかの国の暴動の映像と同じ程度のものでしか見ていなかった。

大学の授業で大阪を行政を研究している教授が、大阪のホームレスを調査した際(日本では、ホームレスは大阪が一番多い)、その理由として「やむなくなってしまった」人が多いそうだ。

名古屋の出来事があった際、僕は少なからず「のらりくらりとした生活をしていて、勝手に公園に家を作って、それでも税金払ってなくて、良い身分だ」と思っていた。しかし、それは全くの偏見だった。勝手にホームレスという「人種」を自分の中に作り上げ、彼らはこういう生活をしているという先入観で彼らを見ていた。今日、Aさんとの会話になぜあんなにもショックを受けたのか。それはこの先入観が崩れ、人種を作り上げていた自分を自覚したからに違いない。


もちろん自分からホームレスになりたくてなる人もいるらしいが、それはほんのごく一部らしい。やはり大多数の人は、「やむなくなってしまった」人。その中でも多くが、「なんとかこの状況から抜け出そう」と思っている人なのだそうだ。


僕は貧困の問題に興味がある程度で詳しくはない。しかし、こういった情けない偏見を抱えていた自分を知った今、自分の出来る範囲で、何かしていきたいとは強く思う。その中で、サッカーでホームレスを応援する。自分もサッカーを楽しく練習出来て(今日コーチにフェイントをかけるときの体重移動を一人だけこっそり教えてもらった。)、本気でゲームを出来て、それで少しでも彼らとの接点ができ、自分の知っている彼らだけでも応援することにつながっていければ、これほど「自分のために、他人を幸せにする」ことはない。そう思うわけです。


ホームレスという人種はいない。それを強く自覚することができただけでも、このサッカーでは大きな収穫。ここから僕が彼らに具体的な応援をしていくことにつながっていけば、さらに収穫。



イマ・ココの「遊び」を書いたら、Aがコメント・補足をくれました!!知見が広がる!!テンション上がる!!!



その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。

>うんうん。「デザインされている」はここではイコール「目的性の内に位置づけられている」っていうことね。あと、危機感っていうより違和感かな◎

Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞 かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipedia には「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもする が、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、 これが「遊び」なのだろうか?

>「遊び」は二つの意味で使われてるんだよね。一つは「行動様式として遊び」で、これは仕事、勉強、食事とかと並ぶ項目としての遊び。二つ目はその人が今どんな状態にあるかという意味での「存在様態としての遊び」。
「どっからどこまで?」っていう質問は、上の二つの区分を考えるいいポイントかなって思って。たぶん前者の行動様式として遊びを見たときは、「宿題終わったら遊ぼっかなー」みたいな言い方が出来る。一応時間軸でもだいたい区切れるわけだよね。で、たぶんこっちの解釈の方がいろんなビジネスとか教育 の対象になりやすいんよねたぶん。時間で区切れるとカリキュラム化出来るし、一つの行為のパッケージとして見られるからだから幼児教室で遊びを通じたお勉強なんてのもあるし、遊びを通じた何か。という発想が生まれると思うんだ。




その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされ てしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、 色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらさ れると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はず だった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことがで きれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える 対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

>「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」っていうのは、目的をもって与えられて遊んだ場合、その遊びが目的的になったり行為(意図的行動)に絞られてしまわないかという事ね。そもそも遊びに目的ってないはず(?)
「それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう」っていうのはちょっとちがうかも。商品玩具でも石ころでも、本来それを越えたところにおもちゃ性を見出すのは子供の十八番だよ。だから本当は、コドモ にとっては自然な事のはずなんだけど、大人の既成概念や説明書や教育的な目的性を帯びた環境要因などなどが作用してそれを難しくさせているんじゃないかなーって。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

>「様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」=>「様々なモノに元から与えられている意味や目的を剥がしたり塗りかえたりして、改めて素材化・おもちゃ化することが重要。」ってかんじかな◎

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコン だろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。

>よくおぼえてるね。w
そう、ボクらの生活にはモノが溢れていて、ほとんどすべてがデザインされているけれど、それに従う必要は無い。ましてや遊びの世界におけるモノのあり方、つまり「おもちゃ」の存在を考えるならなおさらの事よね。

面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、 色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽 しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるよう に作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。

>うん、そういうとこはもうさんざん作られてきたし注目されてきたじゃん。エンターテイメントとか、テーマパーク、テレビゲーム、ネットゲーム、知育玩具その他いろいろ。
でも、遊びの一番生々しくて土臭い人間くさい部分ってもっと違うとこにあるんじゃないだろうか!!というのが僕の叫びかな。別に商品玩具もエン ターテイメントも好きだし、自分のこどもにも買うとおもう。でも「遊び」を全体として論じるときに、なーんか大事なとこ忘れられてる気がしてさ。その辺の違和感が出発かな。



先日、先輩に大学で有名な研究会の成果報告会に誘ってもらったので、行ってみた。

同学年の学生が何をしているのか全然知らなかった僕にとって、非常に刺激になる会だった。それぞれが自分の掲げる問題提起をしっかりと見つめ、それに対する自分のアプローチと達成するゴールを明確にする。そのゴールが問題提起や取ろうとしているアプローチから離れたところにあれば、容赦ない指摘により、議論が始まる。その中で、また徐々に自分が本当にやりたいと思っていることや念頭に置いていた問題提起が言語化されていき、その部分に自分が気づくことによって、さらに的確で、かつ自分でも気持ちのいい行動が取れるようになる。そこで発表したことや議論したことを実際に行動に移し、成果もあげている。l僕は大学ではどこの研究会にも所属していないので、こういう同学年での刺激し合う仲間関係が羨ましかった。来期はどこかの研究会に所属してみようかしら。


その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。


Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipediaには「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもするが、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、これが「遊び」なのだろうか?

その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらされると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はずだった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことができれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコンだろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。


面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるように作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。


面白い問題提起があったので、紹介しました。それにしても、「遊び」に対して問題提起か~。すごく楽しそう。それって遊んでんの?遊んでないの?


●ここに出てくるA君が、この記事に関して補足をくれました。A君、ありがとう!! 
イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~

プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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