昨日はお花見でした。
真剣に、楽しみました。
こうしたことにも、真剣に準備できるメンバーで活動ができていることを、嬉しく思うなあ。
写真はHPの 2009年4月11日お花見 にアップしました。
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DANNA project HP
昨日家に帰ると、2週間前から家出をしていた愛猫「ラッキー」が帰ってきていた。
雨や雪が降っていたし、近所は車の交通も多いので、正直あきらめてもいた。
ガリガリに痩せていながらも、どこも怪我している様子はなく、ほっとした。
またエサを食べる際、エサを横取りしようとする兄弟ネコ「サン」に対して、今までは尻尾を巻いて逃げていたのが、うなり声を上げて威嚇するなど、少し強くなって帰ってきていた。
あきらめていた「吉」が戻るとは、色んな意味でいいニュースでした。
昨日、高校の部活の同窓会があった。
いろんな代の先輩が来ていた。もう結婚している先輩も来ていたし、同じ時期を一緒にバレーボールした友人や後輩も来ていた。一緒に練習していた代ではないのに、「同じ部活だった」というつながりが、卒業後にも残り、顔を合わせる機会になることは嬉しいものです。
お世話になった先生も来ており、「元気にしてたか?お前が顔出してくれて嬉しいよ!」と言ってもらって、僕も嬉しかった。
最近スポーツしていないので、スポーツしたいなあと思いました。
※ゲソン、写真くれ。
昨日、高校の友達20人弱くらいで忘年会をした。とても楽しかった。
人ってどんどん成長していくものなので、中学・高校・大学と、その時々の自分の成熟度によって作るコミュニティとか人間関係というのは変わってくると思うんです。だから自然と、中学・高校・大学では、「ノリ」が違ってくる。
また、その時の友達と会うと、当時の自分が戻ってくる(内面から浮き上がってくる?)感じがする。別にその自分を押し殺しているわけではないんだけど、勝手に自分が成長しちゃってるので忘れてしまっているのかもしれない。でも、その時々に自分がいたコミュニティの環境に囲まれると、その時の自分が戻ってくる。高校時代の友達との人間関係の中では、高校の時のノリの自分が表面化してくるので、大学生の自分の普通とは少し違ってくるわけです。普段とは別の楽しみがそこにあり、非常に楽しみました。友達っていいなって思いました。
当時の自分を振り返り、留学を経て大学に入って、今に至る。僕は現在社会起業だとかに興味を持つようになったけど、その「社会」って何を指すんだ?と考えたとき、やっぱりこうした友達だとか自分の周りを指していたい。その延長線、つまり「友達の友達」とか、「知人の知人」といったつながりで存在してくるものが、大きな意味での社会になるのだと思う。「社会のため」「他人のため」という言葉はマクロなものに見てしまいがちだけど、ただ友達との関係を自分が大切にしていきたいと思った時に、自分だけでなく他人のためも含めた生き方・働き方というものが、自分の選択するべきものになってきて、それが「社会起業」とか呼ばれるものになってくるのかなと思います。
今、ピーターセンゲが書いている『出現する未来』という本を読んでいる。内容は「物事を分断して考える既存の考え方から脱却して、『自分と他人』『自分と世界』を融合させて考えられるようになろう」みたいな感じなんだけど(まとめられるほど理解していないんです。。。)、ここでセンゲが言う『自分と他人を融合させた考え』というのが、まさに昨日感じたことなのかなと思いました。つまり、自分が大切だと思うもの(友達)があって、それを大切にしたいと思うと色々なこと(友達が大切だと思う事とか、コミュニティ環境のように、自分には直接関係なさそうな要因)を大切にしなければいけない。でもそれらを大切にすることは、結局は自分のためである、みたいに。これは簡単に言うと「みんなのため」ということになるんだろうけど、それをわざわざ自分との対比における「みんな」としないで、全てのものを融合させて考えようというのが、センゲの言いたいことなのかなあと思ったりしました。まとまりがなくてすみません。
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『出現する未来』/ピーターセンゲ、C・オットー・シャーマー、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズ著 野中郁次郎監訳 高遠裕子訳/講談社BIZ今回の忘年会は、女性人が突っ走ってくれて盛り上げてくれたので、「次は僕が」という気持ちに溢れています。負けらんない。
またやりたいな。
今日大学に行こうとして、最寄り駅を降りてバス停に向かって歩いていた(夏休み中はあまり多く大学には行かないので、駐輪場代を浮かすために自転車は別のところに置いており、バスで行くこと多し。)。バス停にはバスが止まっており、僕の前の人がそれに乗ろうと走り出した。僕も彼に続いて小走りになる。前から同い年くらいの茶髪の二人組が向かって歩いてきて、その隣におじいちゃんがヨロヨロと歩いていたら、そのまま茶髪二人組に話しかけた。何気なく見ると、おじいちゃんの顔から大量の血が流れている。
びっくりした。たぶん二人組もびっくりしただろう。とりあえず僕も駆け寄った。おじいちゃんはパニックになっているのか、何かをつぶやいているが何を言っているのかわからない。ふらふらしてそのまま座り込んだ。
二人組が、
「これヤバいですよね。ちょっと、救急車呼んできます。」
といって、近くのお店に駆けて行った。僕は道の真ん中で座り込んでいるおじいちゃんを、とりあえず日陰に連れて行った。どうやら前のめりに転んでしまったらしい。血も大量に出ているが、皮がめくれて出ている感じ。おじいちゃんもちょっと動揺はしているものの、大きな問題だということではなさそう。
救急車が来て、二人組と彼らが連れてきたお店の人と一緒に、どんな状況だったかを聞かれた。話をして、そのまま「では、ごきげんよう」といった流れで別れた。
おじいちゃんには失礼だが、こういった出来事に関わった場合には、見知らぬ人とでも強い団結力を発揮するものだなと感じた。茶髪二人組の行動は非常にテキパキして、おじいちゃんが血を流しているのを見てから救急車が来るまでは、ほんの5分やそこらだった。
その中でふと思ったことだが、これが外国人だった場合はどうなのだろう。英語で助けを求められたら?どこかが痛いと言っているのに、理解ができなかったりしたらどうなのだろう。英語はともかく、中国語とかロシア語とかだったらまあ大変。近頃は田舎町である大学周辺にも、ちらほらと外国人を見掛けるようになった。そういったことも起こり得るだろうな。もしそうなったら、日本のコミュニティの温かさと安心できるというところを見せてあげたい。