人: 2008年8月アーカイブ

これも大学に向かう途中でのこと。

急行電車に乗り換える為に、ホームで並んでいた。すると、隣に一組の夫婦が並んだ。どうやら旦那さんの耳が聞こえないらしく、手話で会話していた。

面白いことを話しているのだろうか。笑いながらとても楽しそうに、二人とも手慣れた感じで、パッパと手を動かしてコミュニケーションを取っていた。あまり手話を見る機会がないことと、なんでこんなに笑ってるんだと気になったので、何気なく二人を見ていた。

ところが、ここから驚かされた。

電車が来て、ぞろぞろと乗り始めた。奥さんは見送りらしく、電車には乗り込まない。旦那さんだけが乗った。しかし、見てると会話が終わりそうにない。旦那さんは歩きながら手を動かし、メッセージを伝えている。そして、電車に乗り込んでも、ドアが閉まっても・・・・。

そうなんですよ。そこで驚いたのですが、ドアが閉まってもコミュニケーションを取ってたんです。というか、取れるんです。当たり前のことなんですが、手話って「見えれば分かる」んですね。旦那さんがドア越しにメッセージを送る。電車が動き始める中で、奥さんがウンウンとうなずいているのが分かり、そして見えなくなる。そこでコミュニケーションは終わったわけです。普通に話しているだけなら、ドアが閉まった瞬間に終わりますよね。ただ、手話なら「電車が走り出しても、続く。相手が見えなくなるまで、続く。」わけです。

これに驚いた理由として、僕の声が低いことが関係しているかもしれません。よく、「えっ??」て言われます(笑)始末が悪いことに、あまり口を開けてしゃべらないものですから、さらに聞き取りにくいらしい。中学の頃、送辞を読むことになり練習していたと時に、「口を開けて話しなさい!」と怒られたことを思い出します。そんなことで怒られるのかと思いました。その中で、音ではなく目で行うコミュニケーションというものを目の当たりにして、非常に驚いたのだと思います。

また、考えてみると、一般の人のコミュニケーションでも、「ボディーランゲージ」が大切とか言いますね。動きは相手に気持ちや不言のメッセージを伝えるとか。手話がその不言のコミュニケーションに意味づけをした力を持っているとすると、手話のコミュニケーションというのは、意外と想いだとかニュアンスだとかが伝わるんじゃないかとも思いました。何も話していないのに、あれだけ楽しそうにしていたわけですから。その感覚というのはどういうものなんだろう。


もちろん、それが出来ない方がいる中で、言葉のやりとりが出来ることのありがたさは認識しているつもりです。しかし、この言葉のやりとりも、ある局面においては万能ではないということに気づかされました。

「当たり前」って、当たり前でないことに出会った時でしか、気づかないものです。この出来事から言葉の限界と、それを考えた時に自分が話せることに対してのありがたさを、学ばせていただきました。

ありがとうございました。



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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