人: 2008年9月アーカイブ

少し前の話になるが、駅のホームで「コカ・コーラ」が非常に似合う女性を見かけた。


少しレゲエ風の、長身の美人。髪の毛は金髪で編み込んでいて、顔はほりが深く、眼の大きな人。その彼女の手の中に「コカ・コーラ」があったのを見た時に、なぜか衝撃が自分の中に走った。「こんなにコーラが似合う人がいるのか!!」という衝撃。

あれがペプシ・コーラやスプライトとかであったら幻滅だった。コカ・コーラだったからこそ、ハマったのだと確信を持っている。それぐらい、コーラの似合う女性だった。


この経験は、僕にコーラの新たな一面を見せてくれた。というか、飲み物の新たな一面というべきか。手に持つ飲み物すらもファッションになりうる、ということ。そんなことを考えたことがなかったので、今回感じたこの衝撃に驚きを隠せない。



これはマザーテレサの言葉。僕はこの言葉が書いてあるカードをしおり代わりに使っている。

マザーテレサはクリスチャンである僕の母親が最も尊敬している人。そんなわけで家の中にはマザーの写真やら本やらがいたるところに置いてある。マリア様の像だとか絵だとかも。小さい頃からそんな環境だし、まあ普通にマザーテレサという人間には親しみを感じていた。ただ、そこまで深い関心があったわけではない。顔を見ると「あ、この人知ってる!」という程度だった。


少し前に、母とマザーテレサのドキュメンタリー映画を見に行った。僕はそこで彼女に対する考え方が変わった。彼女の活動や行動は、常に彼女の目標である「貧しい人を救う」ということに一貫していた。またそのための志の高さ・意志の強さ、そして行動力がすごかった。僕は、彼女はキリスト教の信仰者で、多くの貧しい人を助けてあげた人としか知らなかった。しかし彼女はただ流れに任せて寄付を集めて貧しい人を養っていたわけではない。お金を集めることには創意工夫を凝らす。孤児や病人を世話する施設を作る場所には、各国政府と話をして決して町はずれのような場所に移させないなど、人を助けることにおいてしっかり計画を持って取り組んでいた人であった。僕が強く印象に残っているのは、ある国(アルゼンチンだった気がする)の市場を作ろうと計画していた場所に、施設を作れと主張して作らせたシーン。「この場所に施設を作らないのなら、私たちはこの国での活動を止めます。」と言っていたのを覚えている。平和活動で世界中に名を知られているマザーが、その国でだけ活動を止めたなんてのが知れ渡ったら、どんな批判を浴びるか分からない。反対していた政府側も、「じゃあ作ります。」という流れで、その場所に施設を作ることを決めた。外交的圧力を非常にうまく使っていたのに強く感銘を受けた。(あそこで政府に「意地でも作りません」と言われたら、本当にその国から出てってしまったのかな?とかもふと思ったり。)

映画を通して強く感じたことは、マザーテレサという女性はまさにアントレプレナーだったということ。ただ神のご加護を持って貧しい人たちを助けていたのではなく、自分が何をどうすれば、より多くの人を仲間に巻き込み、そしてより多くの人を救えるかを考えていた。そして彼女は考えていたことを現実化させ、実に多くの人が彼女によって一時の幸せを得ることができた。


その中で、彼女と僕の違いは何かを考えてみる。いろいろ思い当たる節がありすぎるけど、やはり一番は「信仰とそれによる自分と向き合っている時間の長さ」だと思う。彼女は37歳の時、電車の中で「貧しい人を助ける活動をしなさい」という神のお告げを聞いたという。そこから彼女はインドを中心に世界各地の貧しい人を助ける活動を始めた。

ここだけ抜粋して見ると、「やっぱ宗教家はそういうお告げがあるのかー」だとか、「信仰があったから行動に移せたんだな」とか思えるけど、でも彼女は「37歳になるまで」自分の人生を懸命に生きて、「自分は何をなすべきか」を考えたのだと思う。これは、そこに向き合っていたプロセスから逃げなかったために、彼女は神のお告げを得られたのだとも言える。仏陀も全く同じで苦行で自分を追い込み、自問自答を繰り返し続けた果てに、悟りを開いたわけだし。


それ考えると、今学生という立場を利用していろいろなことに興味を持ち、首を突っ込んでいる僕であるが、常に「自分は何をなすべきか・何をなしたいのか」という問いに向き合っていたいと思う。そこから目をそらさずに向き合っていれば、必ず自分の中に答えが芽生えてくると思うし、またそれを模索する日々としての一日一日を、「懸命さと大きな愛」で過ごしていきたいと思う。


ちなみに、マザーを批判する意見もたくさんあります。 
マザーテレサ、スーパー物乞い

ざっとしか読んでいないし僕自身マザーがどんな人だったか全然詳しくないので、反対意見は否定しません。(というかできない(笑))ただ、人生を通して「他人を助ける」という目標を掲げ、それに貢献し、結果を出した人と、その人の人生のプロセスを批判している人。こういう構図で見てしまうと、なんか後者はひがんでるみたいで寂しいですよね。だったら批判されるほど注目の集める前者でいたいと思います。

今日から、また会津に行ってきます。



この疑問は非常に面白いと思う。答えはイエスであって、イエスでない。(もちろん「一つの答えはないかもしれないし、誰にもわからない」ということを言ってしまえばそれまでの疑問ではあるが。)


デザイナーをやっている友人が、「デッサンは瞑想と同じだ」と言っていた。どういうことかと言うと、「眼は真実を映し出しているが、人の脳はそれを素直に認識せずに思い込みで認識する。だからデッサンを極めたければ無にならなければいけないから、瞑想と同じ」だということ。

絵を描く時に、対象物を逆さにするときれいに絵が描けるということを聞いたことがあるでしょうか。例えば素人が有名画家の絵を模写するときは、模写する絵を逆さにして描いていくときれいに描ける。これは、絵を普通において描いていくと、脳が勝手に「この顔の輪郭はこういう風に描いてあるな」と思い込んで見てしまうため、きれいな線が描けないのだそうです。それを逆さにして描くと、脳はその顔を輪郭として捉えないので、一つの線として描けるのだとか。全部を描いたあとに自分の絵を逆さにしてみると、きれいに描けている。これは描写が上手いとか下手なのではなく、「眼が映しているものを脳が勝手に判断するか判断しないか」の違いであると言えるそうです。


ここでは絵を描くことを例えにあげましたが、この「見る」ということが思い込みで映し出しているのは日常生活でも同じだと言えます。それを考えると、例えば自分が嫌いな人の顔は「嫌い」に見えたり、好きな子の顔は「特に可愛く」見えたり、また少しお金を持っている印象がある人は「成金で偉そう」に見えたりすることがあると思いませんか?だって、それらはすべて人間の脳の「思い込み」で判断しているのですから。


そう考えると、嫌いな人がいたら「こいつはオレが嫌いと思っているから、嫌いに映っているんだ」だとか、「この人は全然偉そうじゃない。僕の頭が勝手に判断しているんだ」だとかを思えば、より相手を見つめることができるようになると思うのです。

にしても、本当のところはどうか分かりませんよね。「眼はいろんな情報をキャッチできる」とかも言いますから、眼を通した印象は意外とその人の人間性を表すのかもしれませんし。


どっちにしろ、どうやら「眼」を持つ人間ってのは、ものは映していても、素直にものは見ていそうにないってこと。



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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