インタビューの最近のブログ記事

彼らの言う「花柄」とは?

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デザイナーの松永真さんにインタビューをした。

松永さんは日本最高峰のデザイナーの一人。ベネッセカルビーUNOザバス缶チューハイなどのロゴを手掛けられた方。作品集を見ていると、「あ!これもなんだ!」と思うロゴやポスターやモニュメントがとにかくたくさんある。

松永さんは、とても気さくな方だった。常に冗談を言っている方で、非常に楽しいインタビューができた。同時に「良く観察しているな」と思わせる。相手の特徴や考え方を自分という鏡に反射させながら、話をする。話の方向は、その人が良く映る方向へと進んでいく。松永さんはそれを"白紙"と表現する。白には"吸収"と"反射"の二つの側面がある。アーティストではなくデザイナーである松永さんにとって、白紙でいることはとても大事なことなのだそうだ。白紙であるからこそ「最適」にたどり着けるとも言えるのだと思う。


このインタビューで一つ、松永さんがデザイナーとして達成した偉大な話を聞いた。

ティッシュペーパーの「スコッティ」を作られた時のこと。松永さんはまだ若手で、コンペに参加したのは世界の名だたるデザイナーたちだったそうだ。そのコンペのテーマは、「決められたロゴを使うこと」「花柄を使うこと」。松永さんがどのような選択をしたのかは、インタビュー記事を作りますのでお楽しみに。


世界の名だたるデザイナーと競い合わなければならない中で、松永さんが考えたのは"日本におけるティッシュの役割"と"彼らの言う「花柄」とは?"ということだった。そして、そこに向き合った結果で答えを出した。そこに向き合ったことに対しては、自信を持っていた。

松永さんがすごいのは、デザインを考える上で根ざした場所はテーマの裏側、「本質」とも言える場所であり、それを的確に見抜き、そこから見える問題をコンペの問題としたこと。そしてそこから見える問題に対する答えを、コンペの答えとしたこと。そこに自信を持った。そもそも何が的確かなんてのはわからない。そこは直観だと言わざるを得ないところなのかもしれないが、それに対して自信を持っていたというのは、裏付けがあったからなのだろう。その裏付けの取り方は"白紙であること"の中に答えが隠されていると思っている。ともかくも、当時の松永さんの決断と自信には心が躍った。自分を重ね合わせてみて、「こうなりたいものだ~~」と思った。

また、松永さんとは"実体性"についても貴重なご意見をいただいた。
やっぱり実体が伴った経験からでしか分からないことって多いと思う。

考えの深まるインタビューだった。ここで得た考えを、僕の実体に伴った活動につなげていく。



言葉の裏を掴むように。

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更新をご無沙汰していました。

春休みもついに終わりです。

近頃、日常自分でも使っている言葉にも、ハッとさせられることが多いです。

例えば、「一生懸命が、自分の道を切り開く」という言葉。
今日、これからお世話になっていくだろう先生からいただきました。

僕はこれまで、この当たり前の言葉から、どれほどの意味を捉えられていただろうか。
そして、今はどうだろう?

自分の体験の蓄積から、何となく言葉のイメージがつかめるようになってきた今日この頃。そのイメージには、今まで自分が感じたこともないようなことも含まれていたり。こういったことが、成長といわれるものなのかな。


明日から、大学4年生。
あと一年。最高の年にする。


正義の多様化

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最近、マンガの正義に変化が起きていると思いました。


以前、学校の課題図書で「『世界征服』は可能か?」という本を読みました。色々なアニメやマンガの悪者の「世界征服」の方法を参考にしながら、「本当に世界征服ってできるかな?」というのを考察しているもの。この本はすぐ読めちゃうし、面白いのでお勧めです。『空想科学読本』とか好きな人は、抑えておいた方がいいです笑
岡田斗司夫著「『世界征服』は可能か?」/ちくまプリマー新書(2007/06)
→柳田理科雄著「空想科学読本」/メディアファクトリー(1999/07)

この本はビジネス書として読んでも学ぶところが多いのだが、特に面白いのは、世界征服を現実に考えてみると、「かつてのイメージで世界征服しても、あまりウマミがないよ~」ということが分かる、という項がある。ここがよかった。

ここで述べられていることは「支配とは何か?」ということで、簡単にまとめると「昔と今の豊かさが変わってしまい、今求められる豊かさは「人の支配下」では生まれえない。」ということが書かれているわけです。これについては本を読んでください。

この本からは、一面的な「世界征服したら、きっと幸せだろう」という考えをひっくり返す考えを学んだんだけれども、今週ジャンプでNARUTOを読んだら、「敵対する正当な正義」について語っていて、面白いなと思ったわけです。主人公は攻めてくる敵と戦っている。主人公の目的は、「世界を平和にするため」。でも今週の話では、実は敵も「世界を平和にするため」に、主人公の国に攻め込んでいることが分かったわけです!

ロジックで二人の意見をぶつけていても互いに分かり合えないでしょうね。だって、二人ともロジック的には言ってること正しいんです。まあ互いの前提が違うんですが、二人とも似たような「正義」のために戦っている。これはそっくりそのままアメリカとイラクの形に映し出せると思います(マンガをしっかり読んでないんで、主人公と敵の背景まではカバーしてません。僕の読み方が浅いだけでしたらすみません)。以前ジャーナリストの野中章弘さんに、「二つの真実、一つの事実」という話を伺ったけど、マンガを読んで改めて思いだした。

経営者でONE PIEACEが好きな人は多いです。一人の経営者に「多様な強さと、絶対的強さを持ち合わせない主人公が、前を向いて困難に向かっていくのが面白い。あと感動するシーン。」と聞いたことがある。そういえば研究会の先輩が、「ドラゴンボールは強さを『戦闘力』に置き換えてしまったことが、失敗だった。」と言っていたのを思い出します。確かにドラゴンボールって、強さも一元的だし、悟空の戦う理由も明確で、悟空は必ず良い側(地球を守る)でしたよね。ドラゴンボールの敵なんてのは、やりたい放題のやつばっかだったし。


そう考えると、時代とともにマンガの在り方も変わっているんだなあと思った。まあ当たり前ですね。
このマンガの在り方の変化に敏感になったのは、前に哲学者の野矢さんに話を伺った時に、「マンガは紋切り型を教える」という話をしたからだと思います。「マンガを読むのって若い人が多い。子供も多い。彼らの思考はマンガに影響されるところが多いだろうから、マンガのメッセージというのは結構大切。」という話でしたが、それを踏まえると、今のマンガを読む子供は、一つの物事にも多様な真実があるってことを学んでいるのか。

なんか芋づる式にどんどん書きたいことが出てきてしまって、終わらなくなってしまったのでこの辺で強制終了。会津行きはもう明後日。



▼LINK-----
哲学者野矢茂樹さんのインタビュー。
野矢茂樹インタビュー
ジャーナリスト野中章弘さんのインタビュー。
野中章弘さんインタビュー



祈りと感謝の欠如(第三回会津訪問の教え一)

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9月14日から15日にかけて、会津若松を訪問してきた。今回の旅は「会津のアツい大人」をインタビューすること。僕たちはこの「アツい大人」という言葉の定義を、「自身の人生背景から社会・個人の問題点を見出し、その解決に向けて人生をかけて活動している人」としている。前回インタビューさせていただいた人も、みな「アツい大人」としてインタビューのお願いをさせていただき、話を伺ったわけです。


今回最初にインタビューをさせていただいたのは、アルテマイスターという仏壇を取り扱う会社の執行役員である飯束時雄さん。飯束さんも、これまた腰の低い人であった。「自慢・高慢、バカのうち」なのだな。凄い人には「謙虚さ」が必要ということは、会津で学んだ良いこと。 →アルテマイスター公式HP

このアルテマイスターは創業1900年(明治33年)という長い歴史を持つ会社。昔ながら仏壇の製造から塗り、販売までをやっている会社であり、今ではそれは国内唯一のメーカーになってしまったそうだ。さらに、近年では「変わらぬ祈りの新しいかたち」をテーマに、インテリアデザイナーの内田繁氏による「新しい仏壇」や「新しい位牌」が発表され、展開されている。


このインタビューではいろいろ聞きたいことがあった。一番単純に疑問に思っていたことは、「そもそも、仏壇って形を変えていいの?」ということだった。

仏壇の形を変えるのには、もちろん理由がある。それは、「現代のライフスタイルに合わない」こと。東京の様にマンション・アパートの中に仏壇を置くことは難しいし、核家族化が進んだ中では、家に仏壇がないことはめずらしくない。(我が家にもない)その中で、「新しい時代・ライフスタイルに合った形の仏壇・位牌が必要だ」と考えられたそうだ。

僕は最初、これに抵抗を感じた。というのも、仏壇とは「あの形だから、意味があるのではないか」と感じていたからだ。つまり、あの形であるからこそ、亡くなった先祖が住み、お祈りを捧げる対象になるのではないか?それがいくら有名デザイナーの作品とはいえ、なんでもかんでもモダン化してしまっては、ましてや位牌までモダンな形になってしまっては、「仏壇である必要性」が無くなってしまうのではないか?、と感じたわけです。

とはいっても、今の仏壇は大きすぎて、現代のライフスタイルに合わないというのは事実。「やっぱり企業生き残りのためにはそういう展開の仕方は必要だよな」と思っていたところ・・・・・・アルテマイスターの考えは、向けている対象が違うことに気がついた。


彼らが対象にしているのは、仏壇うんぬんではなく、「そこに祈りがあるかどうか」。


祈りとは、僕みたいに都会生まれ都会育ちの人間には、バカに聞こえることかもしれない。それは目に見えず、効果があるのかないのか分からない非合理な行為で、ある種宗教的な響きが強い言葉である。ではその祈りとは何なのか?何の意味があるのか?飯束さんは、「祈りは大きなつながりを意識する行為であり、感謝の気持ちを持つ行為である」と言う。そして仏壇は、その祈りを行う場なのだそうだ。


昔の仏壇とは、「祈る場」という役割を持ってそれぞれの家に存在していたらしい。その祈る目的とは、様々なものへの「感謝」。「この世に生を受けたことに対する感謝」や、「一日を始めさせてくれ、その日一日を無事に過ごせたことに感謝」、「親や友人、先祖や子孫にまで対する感謝」などであった。ちょっと宗教的な言い回しにはなるかもしれないが、「自分は大きなつながりの中で生かされているんだな」という意識を日々確認させるということを、「祈る」という行為をさせる場所として存在することで、仏壇は行っていたそうなのだ。

しかし、江戸時代の「寺請制度(檀家制度)」が制定されたことで、「全ての人はどこかの寺の檀家になること」という法律が定まる。これにより寺院は経営を安定させるが、同時に寺院の堕落が進み、制度制定前は一周忌から三回忌くらいまでの追善供養が一般的だったのに対し、制定後は三十三回忌まで増える。こんなに追善供養が必要なのかと言う人々の批判が"葬式仏教"(葬式のときにしか必要とされない仏教。日本の仏教を揶揄して呼ぶ)として認知されるようになったそうだ。さらに今では日本は仏教国ではないため、葬式時の形式として仏壇が残り、「葬式のときに必要なもの」として認知されるようになった。

つまり、本来の仏壇のあるべき姿は、今の日本で認知されている仏壇のものとは大きく異なったものであるのだ。

もちろんもはや仏教国ではない現代日本において、仏壇を敬遠する方もおられるかもしれない。それはそれでもちろんいいのだが、それでも、飯束さんは「今の人々には仏壇、もしくはそれに代わるものが必要だ」と言う。なぜなら現代社会、特に東京などの大都市において、「祈りと感謝の欠如」は広く見られるからである。ではなぜ、「祈りと感謝」は欠如したのか。答えはいろいろあるだろうが、今の僕としては、「命と命のコミュニケーションから、大きな力を感じることが無くなったから」のように感じる。


昔の日本は農業大国であった。その中で、農業とは紛れもなく「命と命のコミュニケーション」であった。間違いなく同じに田植えをし、稲を見守って育てても、「今年は豊作、来年は凶作」となってしまっていた。その中で、自分では影響を及ぼせないプロセスとそれを働かせていると思われる"大きな力"に対して、「豊作をお願いします!」という祈りと、「(豊作で)ありがとうございます!来年もよろしくお願い致します」という感謝の気持ちは生まれたんじゃないかと思っている。また、ご飯を食べるときに「いただきます」、食べ終わったときに「御馳走様でした」という言葉が出ることも、「頂く」ということに対する感謝、「料理を作る際に走り回ってくださったこと」への感謝というのが根付いていたのだと思う。

しかし現代農法は、「安定供給・大量生産」のために農薬や化学肥料によって農作物を「コントロールする」。この改善によって、現代農法では毎年安定した量の作物を収穫するに至っており、今の僕たちの食生活を支えてくれるようになったが、この間に「命と命のコミュニケーション」のプロセスは消え、"大きな力"に対する祈りや感謝も消えてしまったんじゃないかと思う。


その中で、仏壇を「祈る場所」として認識した上で家に置いてあれば、「祈り」をする習慣が生まれる。ただ毎日祈ることを繰り返すだけでも、何かに対して「感謝」の気持ちが芽生えてくる。それでいいのだそうだ。

「別に仏壇でなくてもいいのです。家のどこかにでも、「祈りの場」があればそれでいい。今欠如してしまっている祈るという習慣。これが広がれば、日本社会に様々なものに対する「感謝の気持ち」が再び芽生えてくる。そうすれば、近頃起こっている怖い事件もなくなり、いい社会になるのではないかと思うのです。」と飯束さんは言う。


僕自身、「祈る」ということをしっかりと考えたことがなかった。僕は日頃から熱心に祈ったりはしない。でも、今回のインタビューを通して、自分が大きなつながりの中にいるんだということに、改めて気づいた。そのつながりを意識すると、先祖に「ありがとう」という気持ちも生まれてくるし、こうしてパソコンを開いていていられることに「電気を作ってくれてありがとう。このパソコン作ってくれた人ありがとう。」という気持ちにもなる。生活のあらゆる場面で僕が使うものを通して、「生かされてるんだな」と感じることができ、それにも「ありがとう」と思えるようになる。そう考えてみると、「祈る」というのは意識的なもので、非常に身近にある行為なのかなとも思えてきた。


正直分かったような、分かってないような。「コレが祈りだ!!!」と言えないからなんだろうけど。それでも、仏教徒でない僕にとっての「仏壇の必要性」が腑に落ちたことというのは、非常に良かったなと思います。




「希望」が感じられない世の中

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今日、アーティストの鉾山亘(ほこやま わたる)さんにインタビューをさせていただいた。
Wataru Hokoyama Web site

ワタルさんは、アメリカ在住のアーティストで主に映画音楽やコンサートで演奏されるクラシック音楽などを製作される。近年ではPS3専用ゲームソフト「アフリカ」で音楽の監修を担当した。その際には、ハリウッドのスタジオでオーケストラ総勢104名による演奏でBGMを収録するという前代未聞の挑戦を見事成功させた。

それが下記の動画。圧巻です。



いや、これはすごい。これがゲームソフトのBGMになるわけですか。スケール感が半端ではないですね。僕にはこのすごさは説明できない。圧巻の一言。

ワタルさんは他にも2001年のカンヌ国際映画祭で短編映画部門のグランプリを獲得した『Bean Cake(おはぎ)』や、2003年のサンダンス映画祭でオンライン・オーディエンス賞を獲得した『one』の音楽などを担当されている。まだ34歳というのがすごい。

ワタルさんは僕が参加している会津のプロジェクトのプロデューサーの方と幼馴染であり、今回はその関係でインタビューをさせていただくに至った。


ワタルさんの第一印象は、爽やかで本当に腰が低い人。宗像さんもそうだが、すごい方は本当に腰が低いのだなとつくづく感じる。「すごい人間すごくない人間」の判断軸には、やはり「謙虚さ」を入れるべきだ。

(後で聞いたところによると、ワタルさんはいつもおじいちゃんに、「自慢・高慢、バカのうち」と何度も何度も言われ続けたそうだ。「そりゃ友達の間では、たまに自慢はしますよ(笑) でも謙虚さは忘れない。それを忘れた時点で「バカ」なんですよ。」と、爽やかな笑顔で語ってくれた。)


ワタルさんは小学生の時から、音楽好きの両親の影響もあって音楽には触れていたそうだ。そんな折、ワタルさんが小学生の頃に「E.T.」という映画が、福島県郡山市の映画館にやってきた。会津出身のワタルさんは両親とその映画を見に行き、そこで映画音楽に興味を持つようになる。時は過ぎ、高校2年生の時に、たまたまテレビをつけたらやっていたオーケストラが演奏するE.T.のテーマ曲に頭を雷で貫かれた気持ちになり、「これがオレのやるべきことか。」と思い、主に映画音楽を担当する作曲家になることを決められたそう。


話が進んでいく中で、「今、ワタルさんが音で表現していること」についての質問になった。するとワタルさんは、「今の世界についてです。というか、今の世界はエネルギーがどんどん下がってきているのを感じる。特に東京ですよ。ここでは誰からも・どこからも「希望」を感じない。ここの土地は完全にエネルギーを失っている。」と言われた。


これを言われたときは、非常に驚いた。でも、なんとなく理解できる。日本は変わってきていますよね。気象とかは具体的だから分かりやすい。「ゲリラ豪雨」なんて素敵な名前の雨が最近よく降りますが、あれは「スコール」ですよね。また、なんと言っても雷がすごい。さらに、松食い虫のいたるところで大量発生をしており、木がどんどん死んでいるとも聞く。そういう以外にも、エネルギーというか元気さというか、そういうものは無くなってきているのではないか。自殺数年間3万人、引きこもり、親殺し、無差別殺人などなど。それは環境問題だとか社会問題だとかいうレベルの話ではなくて、なんとなく「今までの日本が持っていたもの、それによって守られていたもの」がなくなってきている気はする。

また、ワタルさんの地元の福島県会津若松でも、土地のエネルギーが弱まっているのを感じるそうだ。よく遊びに行ったり作曲しに行ったりした場所でも、エネルギーを感じず、インスピレーションが降りてこない。「自分が感覚で受取り、音にしていたものが、いなくなってしまったイメージ」だという。


その中でワタルさんは、「その事態に目を向け、「自分なりにできること」なんていう意識ではなくて、「自分ができる限りこと」に取り組んでいく必要があるのではないか」と言われた。


確かになあと思います。僕が捉えるニュアンスとしては、「自分なりにできること」だと、テレビがよく騒いでいるようにゴミを分別したり、ビニール袋を断ったりと、いわゆる受け身な形でしか物事に取り組まない。しかし、「自分ができる限りのこと」に取り組もうとすると、自分が何をすべきかを考えなければいけないし、自分のやっている仕事や活動を通して、どんなところで貢献できるかも模索するようになる。この違いは非常に大きい。


話の終わりにワタルさんは、「そういった社会が目の前にあって、僕はこれからもっと悪い方向へ進んでいくと感じている。僕は専門外だから、「社会がなんでこういう方向に進んでいってしまっているか。それにどう対処すればいいのか」というのは説明できないけど、僕の音楽を通じて、「なんか今の社会っておかしいよね。なんとかしなくちゃね」という風に、動き始めるきっかけになってくれたらうれしい。」と話してくれた。ワタルさんは、ワタルさんの「できる限り」に取り組むつもりだと感じた。僕の「できる限り」はなんだろう??


ちなみにワタルさんへのインタビュー記事は別のアウトプットで出す予定。そこではワタルさんが作曲家になられた背景を中心に音楽というものやインスピレーションの受け方・発信の仕方についても話をしています。今回は一部を切り取って書きました。インタビューについては別記事で報告しようと思います。



志を立てるということ(会津の教え四)

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8月23日から24日にかけて、また会津を訪問した。今回の訪問では、「東京に必要な会津の精神性」をキーワードに、何かに「懸命な人」にインタビューをしてきた。ここでもまた、本当に素敵な考え方、ものの見方をいただくことができた。


今回は二日で5人の方々にインタビューをさせていただいた。その中の一人で、今回唯一の農家さんであったのが、米農家をやられている新田義則さん。 → 新田さんについて

新田さんは、「日本のコメが、日本を救う。世界を救う。」と主張する。これだけを聞くと、「まあ、米農家だからね。そういう意気込みで作るよね。」とか思わ れるだろう。僕もそう思った。ところがどっこい。新田さんのすごいところは、「なぜ」を探求し、その解決策を思案し、実行に移す農家さんであるというこ と。

新田さんが「日本のコメが世界を救う。」という観点から取り組まれていることについてはひとまずは置いておいて、新田さんのインタビューの中から、特に僕が感動し、「やばい!オレどうしよう!!!」と思ったことを一つ紹介。

それは、「志を立てる」ということ。


論語の中に、「我、十有五にして学に志す」という言葉があるそうです。孔子は15歳の時に、学問で生きていこうと決心したということらしい。その中で、孔子 の教えを藩校で教えていた会津藩は、子供が15歳になった時に、自分の今後の人生を決めるという意味合いで「志を立たせる」ということで、「立志式」を行った。(その式の名前を「元服」という。)子供には立志式を行う前までに、「自分は何のために生まれ、今後の人生で何をなすべきか」を繰り返し自問し、一つの答えを導き出すことが求められていた。昔は世襲制だったので仕事は決まっていた。そのため、その仕事には一生関わっていかなければならないので、その仕事を通して何をなすべきかという ことは、非常に大切なことだったのだろう。それは今でも変わらないのではないか。

そしてその志を一度立てると、後はそれを懸命に貫き通すことが大切であった。新田さん曰く、以前の記事に書いた会津の「什の教え」の中の「ならぬものはならぬ」という言葉の中には、「一度決めたことを覆すこと」は「ならぬ」という意味も含まれていたという。「自分で掲げた志を覆すことは絶対にならぬ。ならぬものは、ならぬことだ。」という、否定を否定する肯定的な意味も含んでいたのだそうだ。


もちろん現代社会は世襲制ではないので、自分がすることを一度決めたら覆してはいけないなんてことは、どだい無理な考えだと思う。今の時代にとって様々な経験を通して、自分に必要なことや大事に思うことを模索することは、とても重要なことだ。しかし、この話を通して僕が「やばい!」と思ったの は、昔と同じだけの「自問自答を行えているか」ということである。


当時の会津の人は(他の藩の人は知らない。ここで「武士は」と言わないところがミソ。これについては別記事で。)、それだけ自分の人生について、一生懸命考えていた。孔子が15歳で人生を決めてしまったとばっちりを受けてか、会津の子供たちも自分の人生の大筋を15歳までに決めなくてはならないことになった。しかし、それまでに一生懸命自分にとって大切なことを考える。人であるために大切なことを考えた上で、それでは自分が何をなせるかを考えた。では今の時代の、15よりも7つも上の僕は、「自分の人生の今後」について 一生懸命に考えられているだろうか。


今の社会は変化が光速だし、志を明確にしてしまうには選択肢や考えるべき立場がたくさんあるし、自分のやりたいことや達成したい目標なんてのは二転三転するし、、、などと色々な当時との違いが思いつくが、大切なのは「その考えるプロセスから逃げないこと」であると思う。色々な検討材料はあるけれども、とりあえず自分が生まれた理由は何か。自分が成し遂げたいことは何か。それを考える。また、人間 にとって大切なことは何か。自分にとって大切で、他人にとって大切なことは何か。そういったことも少しずつ含めながら、考える。それを考えていく上で考慮 しなければならないことに出会ったら、それを含めた上でまた考え直す。そのプロセスをふむ重要性は、昔も今も変わらないと思う。


じゃあなぜ志を立てることの意味は何か。自分なりに考えてみた。

今の僕の答えは、志を立てるにあたり、自問して考えるプロセスを踏むことで、「自分だけの目標」を見出すことができる。目標が見いだせれば、人生に意味が生まれ、日々が楽しくなる。だから、志を立てる。これです。


「志」 という言葉は知っていたけど、それを立てることがこんなに大切なことであったとは、初めて知った。僕の場合、「自分を幸せにするために、他人を幸せにする」と言うけれど、それは具体的にどんなことをイメージしているのか、何をしたらそれが達成できると思っているのか。それを通した社会を、僕はどう想像し ているのか。色々考えることあるな~。

少しずつ答えを磨いていこう。とりあえず今は、寝よかな。



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プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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