ありがとうの最近のブログ記事

助け助けられて、助けさせられて助けて。

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人というのは関係性の中で生かされてるんだということ。
力の働きかけは循環しており、前後の概念はないんだということ。
自分、助けられてるな~ということ。

最近よく感じます。


自分一人では何もできない。自分がリードをしていると思い込んだ時、それは自分がリードされている時であり、自分がリード"させられている"時なんだって思う。

色んな人に助けられていて、今の自分がここにいること。


噛み締めて、さて僕はどこに行くのだろうか。


なるほど。この時間に考え事をしていると、ブログにこういう心境を書きたくなるものなんですね笑



祈りと感謝の欠如(第三回会津訪問の教え一)

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9月14日から15日にかけて、会津若松を訪問してきた。今回の旅は「会津のアツい大人」をインタビューすること。僕たちはこの「アツい大人」という言葉の定義を、「自身の人生背景から社会・個人の問題点を見出し、その解決に向けて人生をかけて活動している人」としている。前回インタビューさせていただいた人も、みな「アツい大人」としてインタビューのお願いをさせていただき、話を伺ったわけです。


今回最初にインタビューをさせていただいたのは、アルテマイスターという仏壇を取り扱う会社の執行役員である飯束時雄さん。飯束さんも、これまた腰の低い人であった。「自慢・高慢、バカのうち」なのだな。凄い人には「謙虚さ」が必要ということは、会津で学んだ良いこと。 →アルテマイスター公式HP

このアルテマイスターは創業1900年(明治33年)という長い歴史を持つ会社。昔ながら仏壇の製造から塗り、販売までをやっている会社であり、今ではそれは国内唯一のメーカーになってしまったそうだ。さらに、近年では「変わらぬ祈りの新しいかたち」をテーマに、インテリアデザイナーの内田繁氏による「新しい仏壇」や「新しい位牌」が発表され、展開されている。


このインタビューではいろいろ聞きたいことがあった。一番単純に疑問に思っていたことは、「そもそも、仏壇って形を変えていいの?」ということだった。

仏壇の形を変えるのには、もちろん理由がある。それは、「現代のライフスタイルに合わない」こと。東京の様にマンション・アパートの中に仏壇を置くことは難しいし、核家族化が進んだ中では、家に仏壇がないことはめずらしくない。(我が家にもない)その中で、「新しい時代・ライフスタイルに合った形の仏壇・位牌が必要だ」と考えられたそうだ。

僕は最初、これに抵抗を感じた。というのも、仏壇とは「あの形だから、意味があるのではないか」と感じていたからだ。つまり、あの形であるからこそ、亡くなった先祖が住み、お祈りを捧げる対象になるのではないか?それがいくら有名デザイナーの作品とはいえ、なんでもかんでもモダン化してしまっては、ましてや位牌までモダンな形になってしまっては、「仏壇である必要性」が無くなってしまうのではないか?、と感じたわけです。

とはいっても、今の仏壇は大きすぎて、現代のライフスタイルに合わないというのは事実。「やっぱり企業生き残りのためにはそういう展開の仕方は必要だよな」と思っていたところ・・・・・・アルテマイスターの考えは、向けている対象が違うことに気がついた。


彼らが対象にしているのは、仏壇うんぬんではなく、「そこに祈りがあるかどうか」。


祈りとは、僕みたいに都会生まれ都会育ちの人間には、バカに聞こえることかもしれない。それは目に見えず、効果があるのかないのか分からない非合理な行為で、ある種宗教的な響きが強い言葉である。ではその祈りとは何なのか?何の意味があるのか?飯束さんは、「祈りは大きなつながりを意識する行為であり、感謝の気持ちを持つ行為である」と言う。そして仏壇は、その祈りを行う場なのだそうだ。


昔の仏壇とは、「祈る場」という役割を持ってそれぞれの家に存在していたらしい。その祈る目的とは、様々なものへの「感謝」。「この世に生を受けたことに対する感謝」や、「一日を始めさせてくれ、その日一日を無事に過ごせたことに感謝」、「親や友人、先祖や子孫にまで対する感謝」などであった。ちょっと宗教的な言い回しにはなるかもしれないが、「自分は大きなつながりの中で生かされているんだな」という意識を日々確認させるということを、「祈る」という行為をさせる場所として存在することで、仏壇は行っていたそうなのだ。

しかし、江戸時代の「寺請制度(檀家制度)」が制定されたことで、「全ての人はどこかの寺の檀家になること」という法律が定まる。これにより寺院は経営を安定させるが、同時に寺院の堕落が進み、制度制定前は一周忌から三回忌くらいまでの追善供養が一般的だったのに対し、制定後は三十三回忌まで増える。こんなに追善供養が必要なのかと言う人々の批判が"葬式仏教"(葬式のときにしか必要とされない仏教。日本の仏教を揶揄して呼ぶ)として認知されるようになったそうだ。さらに今では日本は仏教国ではないため、葬式時の形式として仏壇が残り、「葬式のときに必要なもの」として認知されるようになった。

つまり、本来の仏壇のあるべき姿は、今の日本で認知されている仏壇のものとは大きく異なったものであるのだ。

もちろんもはや仏教国ではない現代日本において、仏壇を敬遠する方もおられるかもしれない。それはそれでもちろんいいのだが、それでも、飯束さんは「今の人々には仏壇、もしくはそれに代わるものが必要だ」と言う。なぜなら現代社会、特に東京などの大都市において、「祈りと感謝の欠如」は広く見られるからである。ではなぜ、「祈りと感謝」は欠如したのか。答えはいろいろあるだろうが、今の僕としては、「命と命のコミュニケーションから、大きな力を感じることが無くなったから」のように感じる。


昔の日本は農業大国であった。その中で、農業とは紛れもなく「命と命のコミュニケーション」であった。間違いなく同じに田植えをし、稲を見守って育てても、「今年は豊作、来年は凶作」となってしまっていた。その中で、自分では影響を及ぼせないプロセスとそれを働かせていると思われる"大きな力"に対して、「豊作をお願いします!」という祈りと、「(豊作で)ありがとうございます!来年もよろしくお願い致します」という感謝の気持ちは生まれたんじゃないかと思っている。また、ご飯を食べるときに「いただきます」、食べ終わったときに「御馳走様でした」という言葉が出ることも、「頂く」ということに対する感謝、「料理を作る際に走り回ってくださったこと」への感謝というのが根付いていたのだと思う。

しかし現代農法は、「安定供給・大量生産」のために農薬や化学肥料によって農作物を「コントロールする」。この改善によって、現代農法では毎年安定した量の作物を収穫するに至っており、今の僕たちの食生活を支えてくれるようになったが、この間に「命と命のコミュニケーション」のプロセスは消え、"大きな力"に対する祈りや感謝も消えてしまったんじゃないかと思う。


その中で、仏壇を「祈る場所」として認識した上で家に置いてあれば、「祈り」をする習慣が生まれる。ただ毎日祈ることを繰り返すだけでも、何かに対して「感謝」の気持ちが芽生えてくる。それでいいのだそうだ。

「別に仏壇でなくてもいいのです。家のどこかにでも、「祈りの場」があればそれでいい。今欠如してしまっている祈るという習慣。これが広がれば、日本社会に様々なものに対する「感謝の気持ち」が再び芽生えてくる。そうすれば、近頃起こっている怖い事件もなくなり、いい社会になるのではないかと思うのです。」と飯束さんは言う。


僕自身、「祈る」ということをしっかりと考えたことがなかった。僕は日頃から熱心に祈ったりはしない。でも、今回のインタビューを通して、自分が大きなつながりの中にいるんだということに、改めて気づいた。そのつながりを意識すると、先祖に「ありがとう」という気持ちも生まれてくるし、こうしてパソコンを開いていていられることに「電気を作ってくれてありがとう。このパソコン作ってくれた人ありがとう。」という気持ちにもなる。生活のあらゆる場面で僕が使うものを通して、「生かされてるんだな」と感じることができ、それにも「ありがとう」と思えるようになる。そう考えてみると、「祈る」というのは意識的なもので、非常に身近にある行為なのかなとも思えてきた。


正直分かったような、分かってないような。「コレが祈りだ!!!」と言えないからなんだろうけど。それでも、仏教徒でない僕にとっての「仏壇の必要性」が腑に落ちたことというのは、非常に良かったなと思います。




「自分のため」を、忘れない。

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色々あると、自分が「何のために」目の前のことをやっているのかが、分からなくなる。


「この方面に、こんなメリットを考えて~~」
「こっちのこういう要求を、しっかり踏まえて~~」
「落とし所としては、こんな感じが望ましいって話だから~~」


社会人でもないのに、気使って色々と調整ばっかしていると、「自分は本当にこんなことしたいのか?」と考えてしまう。


そんな状態から引きずり上げてくれるのは、やっぱり仲間。

話をしていると、自分よりずっと芯があることに気づかされる。どんな切り口から、どんな狙いでプロジェクトに参加しようと思ったのかを、思い出させてくれる。目の前のことに捉われすぎる僕。物事の全体が見えてねーのはお前だ、kenji。


社会人の真似事をするのは、社会人になってからでいい。安価な労働力の「学生」として、言い様に使われるのは腹が立つ。

自分が参加したいと思ったのは、何よりも「自分のため」。自分はここで何を得られて、それは今後にどうつながっていくか。「それ」にワクワク感を感じて、参加しよーと思ったんでしょーよ。そのワクワク感を勝手に忘れて、目の前の物事の調整に嫌気をさして、疲れを感じる。なんだそりゃ。


「誰かのために」という大きな目標を見れない僕は、「自分のために」最大のパフォーマンスを積み重ねていって、「結果として」全体に貢献するしか、できない。そこを忘れちゃ、ただのお荷物。


いつの時代も、持つべきものは素敵な仲間。

いやー、本当に、ありがとうね。



肯定的叱られ。

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先日、久しぶりに怒られた。先輩にマジギレされた。理由は、僕の報告の怠慢。どんどん雑になっていることに、気がつかなかった。

いつもはニコニコしている先輩が、ブチ切れた。その先輩のすごいところは、ブチ切れ、怒鳴った後、少しするともうニコニコしている。しかし、この「気にしてないよ~。」という空気が、僕に自省を強く促す。

「いつものこと」をこなすって、すごく難しいことだと気がついた。知っていたけど、強く心に刻みつけられたイメージ。最初は「最終的な目的があって、今自分がやっていることがある」ということに気がついていて、次のステップの邪魔にならないように、もしくはより円滑に進むように、気をつけていたはずだった。しかし気がつくと、自分のしていることの目的は「それをこなすこと」になっていた。また慣れた作業だと、何を意識しなくても行える。ミスも起こりやすくなる。そこに気づいていなかった。結果、ミス発生。

「なんでここが抜けてんの?」
「あ、すいません。ついウッカリ。」
「ウッカリじゃぁねえだろうがああああああああ!!!」
(文字だと迫力でないのですが、こんな感じ。)

ビックリしました。久々に怒られた時の、「やべぇ」という感情を味わった。(余談になりますが、この「精神的な痛み」っていうのはどこでするのだろう?と考え、「やべぇ」という感覚の中、痛みの発生箇所を探っていた。やっぱり心臓のあたりが痛くなりますね。これが「心がハートで、心臓(付近)にある」と思われる所以だろうか。僕は前野隆司さんの考え方が一番しっくりきているので、心はこんなとこにはないと思っているが。心臓に血液がどんどん行ったりするのかな?するのだろうね。余談でした。)たぶん、僕の怠慢を薄々感じていたんだと思う。だって、しっかり最終的な目的を考えた上で自分の行為を行えていたら、日々の積み重ねで、当初よりは少しは進歩していたりしていたはずだし。経験が蓄積した分、「こうしたらもっと次がやりやすくなるんじゃないかな?俺も楽だし。」とか、そういう発想が生まれたはずだろう。でも、僕はただこなしていた。


しかし、今考えると、めっちゃいい経験になった。本当に、先輩に感謝。

あそこで怒られなかったら、こんなに気にしなかっただろう。「ウッカリじゃないよ~~(ニコニコ)」なんて言われてたら、ただミスしたところを直しておしまいだった。この怒られたことというのは、どこでもやりかねないことだし、今後やっちゃう可能性が多いにある。僕の場合なんて特に。その中で、どれだけ「気をつけよう」と意識する感覚が続くか分からないが、今は日常一つの行動にもしっかり気をつけるようにしている。このまま習慣になってしまえばいいなあ。

中学や高校で部活をやっていた頃、先生によく怒られた。しかし、その怒られたときの受け止め方が今とは全然違った。叱られるっていうマイナスなことから、相手が何のためを思って叱ってくれたか、それを今後にどう生かすかを考えられるようになった。僕も少しは、「肯定的叱られ」を身につけてきているのかな。(これというのを若いうちから身につけておけば、その分その子は色々要素の吸収力を身につけることになる。これというのは、どうしたら教えられるものだろう?これも余談。)

いい経験をしたし、これを忘れたくないので、将来の自分へメッセージを記しておこう。


kenjiへ

【日常の行動すべてに最終的な目的があり、その目的の身近な達成ゴールとして、今取っている行動のゴールがある。その最終的な目的をしっかり意識して、日常の行動・ルーティンワークなどを行うこと。その最終的な目的に少しでも寄与するような改善を、しっかり考えながら行動していくこと。】


最近は「ほめること」に注目が集まっている気がしているが、上手い叱り方であればこれも非常に効果を上げるものになる。このバランスが大切になるわけですな。

でもやっぱり、叱られるって良くないね。たまに、理不尽に叱られることだってあるしね。



食卓の「リアル」(会津の教え一)

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30日の夜から1日にかけて、福島県の会津に行ってきた。ここには、あるプロジェクトの一次の調査という位置づけで行ってきた。このプロジェクトに関しては追々書こうと思う。

今回、会津で経験できたことは、特に今の自分にとって、非常に意味のある知見と考え方をもたらした。その中で、今回得たものを要素に分けて、記しておく。


近年高い食の安全性が求められている。その中で、現在人気沸騰中の「有機野菜」を育てている農家のIさん宅に泊めさせてもらい、その生産過程の一部を見させていただいた。

会 津は非常に肥沃な土地らしい。会津という土地は盆地のため、昔大雨が降った時には、山から高い栄養分を含む粘土が流れてきて、ここに堆積したのだそうだ。 このため会津は豊作と凶作にほとんど差がないことで知られており、1993年の冷夏の時も、会津を残した福島全域は大きな被害を受けたのに対し、会津では 逆に豊作であったそうだ。さらに、会津は災害の少ない地域で、南方にある日本アルプスのおかげで、台風が来ない。そのため水害も少なく、農業を営むには最 適の土地だと言う。(この辺りは良く分からないので、調べて追記しておこう。)


今回僕らが行ったのは、トマトの収穫と、じゃがいもの選別だった。

Iさんは、農薬を一切使わない有機農法で 野菜を作っている。Iさんは、「有機農法と化学肥料を使った農法とどう違うのか。その違いは一点だけ。『野菜に苦労をさせるか否か。』だけ。」と言う。化 学肥料は人工的に作られた肥料だが、この肥料の長所でもあり短所でもあるところは、野菜に栄養素を送ってあげることなんだとか。そのため、野菜は根をそこ まで張らずとも栄養をたっぷり吸い取ることができきる。この野菜はある程度大きく育つは育つが、味もある程度までしか育たない。「それに「加えて」、健康 に良くないとかそういう話なんだよね。」とIさんは言っていた。しかし、有機農法で用いる肥料では、野菜にとって必要な栄養素が簡単には吸収できない。野 菜は受け身では栄養を吸収できないため、根を張って吸収できる面を広げながら、自ら栄養素を吸収していかなくてはならない。それには自然の成り行きだけで は難しく、途中でダウンして死んでしまう野菜もあるので管理をしっかりしなければならないが、その末大きくなった野菜の味は、化学肥料のものとは比べ物にならないそうだ。

「こっちの方がウマい。だから僕はこっちのやり方で野菜を育てる。化学肥料を使うと健康に良くないとかなんとか言われてるけど、この味を知ってしまったら、まず化学肥料は使えないんだよね。」

I さんの野菜は、どれも新鮮な、かつ食欲のそそる匂いをガンガン放っている。その匂いに誘われてくる虫は後を絶たない。その虫とうまく付き合っていきなが ら、必要な分を収穫し、出荷したり地元の人たちに持って行ったりする。地元の人はお返しにと、Iさんに収穫物やらもらったものやら、少し多めに買ったもの など、様々なものを持ってくる。その話をしているIさんは非常に楽しそうだった。


ここまではいい話。Iさんの野菜は本当に美味しい。本当に。みな、食べたくなるだろう。では、そのプロセスはどうか。

Iさんに連れられてトマトを育てているビニールハウスに行った。Iさんは様々な野菜を、必要な分だけ育てているので、ビニールハウス自体はそこまで大きくなかった。しかし、そこの暑さと○○の多さが半端じゃない。

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ト マトが広がる。顔を赤らめこっちを見てるやつから、青白い顔して興味なさそうにしたを向いているやつがいる。Iさんは完熟したトマトを出荷しているので、 うっすら顔を赤らめているやつではダメ。日焼けして顔を真っ赤にしているやつでもダメ。大恥かいて、顔から火が出そうなやつ。こいつを収穫する。

こ の収穫を困難にするもの。暑さ。なんせ暑い!!!直射日光がガンガン降り注ぎ、ビニールがその光を吸収し、だけど逃がさない。地球温暖化の恐怖を感じなが らの収穫(ウソ)。僕らは3人で収穫をしていたからいいものの、これがIさんとIさんの奥さんだけなら大変だ。収穫時期を見逃すと、「ゴチになります」と 言わんばかりに虫が寄ってくる。彼らに先を越されてからでは遅い。


さらに収穫を困難に、というか、いやにするもの。

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そ うです。蜘蛛です。彼らが本当に、心を折ろうとしてくる。写真には3匹しか写ってないけど、あり得ないくらいいた。何年も放置されているのか、ビニール シートの屋根の下に、蜘蛛の巣でできた屋根がある。そこには無数の蜘蛛と、間違えて遊びに来てしまって帰れなくなってしまった虫が住み着いている。

また、当たり前だけど苗と苗の間にも巣を作る。いい色をしたトマトがあるので手を伸ばすと、蜘蛛の巣にぶち当たる。そこいら一帯の蜘蛛が一斉に動き出し、巣 にかかった(壊した?)獲物の方に向かってくる。「うわっ!」となって手を振りはらって立ち上がると、今度は頭で巣を破る。メガネに巣がついたり、髪の毛 に蜘蛛が住んだり。

別に蜘蛛はきらいではないんですが、好きじゃないです。こんなことで地元の人に「都会っ子」と笑われたくはなかったので、我慢です。もっとも、だんだん慣れてくると、そこまで気にならなくなる。でも、顔とかで蜘蛛の巣に突っ込むと、マジで萎えた。

さらにさらに、少し悲しくなったことですが、下記の写真を見てください。これ、片方は売りに出せない商品。どっちが売りに出せない商品でしょうか。両方とも完熟。

CIMG3671.JPG正解は、左ですね。左が売りに出せない商品。理由は、ケツのところ。

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ちょ こっとです。ちょこっとヒビが入ってしまったので、売り物にはならなくなったのだそうです。「これ売れないんだ~~」と思うと、悲しくなりますよ。あの暑い中、蜘蛛と闘いながら一生懸命もいで、でもこんなんで売れないんですから。テレビで食糧危機を騒いでいるのを思い出すと、馬鹿じゃないかと思ってしまう。食べていいと言われたので、食ってやりました。僕トマト大好きなんですが、マジで美味しかった。ガツガツ食って、ヘタはそこらにポイする。完熟なのに 意外と皮が堅くて噛み心地があり、かつフルーツのごとく甘い。最高でした。なんて種類だろう?聞かなかったな。


トマトの収穫を終えると、次はじゃがいもの選別。これまでに収穫したじゃがいもから、状態のいいもの、少し削れたりネズミに食われたりしているけど、他の部分は食べられるもの、腐っているものに分ける。この作業が、地味だけど大変。

CIMG3683.JPGのサムネール画像じゃがいもも普通の農家では、農薬を使って腐らない対策をしているそうだ。腐るのは菌が原因なので、その菌を殺す薬をまけば、多少傷ついても腐りはしない。しかし、有機農法だとそんなことはしない。傷んだものは、ガンガン腐る。

さらに迷惑なことに、この腐ったもの(僕らは「お腐りさん」と呼んでいた。以下、お腐りさん。)は、隣の健康なじゃがいもも腐らせる。これにより、一つの ケースに一つでもお腐りさんが入っていると、全部とは言わないまでも、ケース中のじゃがいもが腐っていく。また、匂いも強烈。そんなじゃがいもを出荷するわけにはいかないので、お腐りさんと、そのお腐り液をもらったじゃがいもは分けなければならない。

これが、お腐りさんら。

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すげー臭いし、お腐りさんは持つとぶよぶよする。もうこれに触れると萎えちゃう。菌の部分を触る手は、普通に仕分けてる手とは変えて使う必要があるため、できるだけ観察し、お腐りさんを見つけたら反対の手で持ち、捨てる。お腐り液をかかってしまったじゃがいもも天日で殺菌するので、別口にする。他、傷がついていたり、ネズミに食われてないかなどをチェックし、仕分ける。しゃがんだり立ったり、重いじゃがいもケースを運んだりと大変だった。一日やっただけなので、別に疲れも何もないが、農家の方はこういった作業を毎日繰り返す。農薬を使えばこの仕分けはもっと楽になるのに。


この経験を通して思ったこと。

「スーパーにトマトは生えない。美味い野菜の労力に感謝。」

っ てこと。僕らの食卓に当たり前に置かれるトマトとじゃがいもは、本当にプロセスがあるんですよ。僕がやったことなんてほんの一部で、ビニールシートの管理から、苗を植えるところから、きれいに洗って箱詰めするところから、誰かに渡されて運ばれてくるところから、僕らがスーパーで買って食卓に届くわけです。このプロセスを体感することが、人に感謝できるようになる上で、とても大事なことのように感じる。100円200円で買えるトマトに、このプロセスがあるんです。じゃがいもや、他の野菜だって全く一緒。魚だって肉だってお菓子だって。気づかされたなー。

また、農薬使ったものは反対だとか、科学肥料はどうだとかってのは、リアルを知らない人から言われるセリフのような気がする。「健康に気を使って、農薬を使用したものは買わない」だとかってのを良く聞くようになった近年であるが、てか僕もそういうのヤダけど、仕事として農業をやられるのであれば、農薬使っちゃいますよー。面倒だもの!!例えば 今まで農薬を使った農法をしていた人が、使わない農法に変えるとならば、そこには設備投資やら学習やらと非常に大きなコストがかかる。また、上手くいくかどうかも不透明だし、大量生産だってできない。しかも若い人ならともかく、年配の人なら怖いでしょう。そしたら変えないですよね。

Iさんは好きでやってるし、何より自分や自分の子供、自分の地域のためにやっている。それなら楽しくやれるかもしれんが、これを「食の安全のために仕事して、やれ。」とは言えないでしょう!「農薬使ってるところからは、買いません。」とか言いだされても、仕事はいきなりは変えられない。この労力は「金払ってるんだから」とかじゃ変えられないですよ。てか、そもそもどれだけ農家の人にお金を払えているんだろう?(今回はトマトだったので、しかも僕トマト好きなので、 トマトの無農薬の取引が、農薬の取引と比べてどれくらいで行われているのか、調べてみようかな。)


それにしても、いい体験でした。「いい体験」で済ませてしまうのは、Iさんに申し訳ないし、自分にとってももったいない。自分ができることは何か。Iさんから野菜買ったりかな?皆に伝えることもそうか?何かしていかないと。



ハハ・バースデー

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21日は、母親の誕生日だった。母にプレゼントとバースデーカードを渡した。

非常に喜んでくれた。「ありがとう」と何回も言われた。


喜んでくれてすごくうれしかったが、ふと思うところによると、当たり前だが親が子供を産んでから、子供はどんどん大きくなり、逆に親はどんどん年を取っていくわけで、いずれは立場が逆転し、経済的にも精神的にも、子供の方が頼れるものにならなくてはいけない。

でも、一つのプレゼントに対してこれだけ感謝されると、逆に母に対する申し訳なさが出てくる。いつも迷惑かけてんのに、たった一つのプレゼントにこんなも感謝されてしまうと、なんだか僕がお客さんのごとく、プレゼントを渡すのがすごく意外な人間かのごとくに感じる。

それって日頃から感謝の気持ちを表せていないからなんだろう。また、こういうことが普通にできる人だと認知されていないからかもしれない。生まれてこの方、当たり前のごとく母に付き添ってもらって生きている。これがどんなに感謝すべきことか。


そういった精神面が成長していない。成人は迎えたけれど、全然精神的に頼られる人間になれていない。少し気取って工夫を凝らしたプレゼントにしたつもりだったけど、自分の「お子様ぶり」を際立たせられた、ハハ・バースデーになった。



「ありがとう」を言おう。

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僕のアルバイト先の店長が、少し前に変わった。

新しい店長は、いつも「ありがとう」と言う。


店長「kenji君、これあそこに閉まってきてくれない?」
僕「わかりました。」
店長「本当、ありがとうね。」


店長「kenji君、あそこのお客さんの接客、お願い。」
僕「了解です。」

~~少しした後

店長「さっきは本当にありがとう。助かりました。」
僕「いやいや、仕事ですし。」
店長「いやー。でも、ありがとうね。」

~~閉店後

店長「じゃあ服をたたんでくれるかな。」
僕「わかりました。」
店長「遅くまでありがとうね。」
僕「いやいや、シフトですよ笑」
店長「それでも手伝ってくれてるわけだから、嬉しいよ~笑」


と、こんな感じです。本当に、いつも言ってます。もちろん気持ちがこもった「ありがとう」です。


店長は意識的に言おうとしてるのだと思いますが、これは結構嬉しいものです。僕が「仕事だから」と割り切って行動していることに対しても、「ありがとう」と言ってくる。そうすると、僕は違和感を感じるわけです。仕事でやってるのに、ありがとう??、となる。

でもそしたら、自然と「仕事以上」のパフォーマンスをしたくなってくるんです。しなきゃいけないわけではなく、したくなってくる。(当然したくならない人もいるとは思いますが)ここが不思議なところです。

それはたぶん、店長から「感謝」をされているからだと思います。仕事にしろ何にしろ、自分のとる行動に対して感謝をされるわけです。それに対して、嫌な気持ちがする人はいないと思います。むしろ嬉しくなります。そしたらその感謝の分、仕事に対してのパフォーマンスを上げようとするんじゃないかと思うんです。この辺りを理論立てて研究している人がいたら、その研究を見てみたいです。


で、僕も「ありがとう」を言うことにしました。「ありがとう」キャンペーンです。素直にありがとうを言おうと思います。これは物事を素直に受け止められるかが大事になってくると思いますので、難しそうですが、取り組みがいがありそうです。



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プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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