貧困: 2008年9月アーカイブ
先日、明治大学リバティホールで、ビッグイシュー日本版100号記念&5周年記念イベントが行われた。僕はホームレスサッカー・ワールドカップに関わっていることもあり、行ってきた。
→ビッグイシュー日本公式HP
このイベントでは、「若者とビッグイシューの未来を考える」をテーマとして、一部では脳科学者の茂木健一郎氏が講演し、二部で精神科医の香山リカ氏と新聞記者の大津和夫氏が対談をした。
イベント全体を通しては、ビッグイシューが社会に対してどんな貢献をしているかから、今のホームレス事情や若いホームレスがなぜ生まれてくるのか、それが貧困の連鎖からもたらされているのであれば、それらをどうやって断てばいいのかといった話になった。
僕がこのイベントで強く印象に残ったことは、茂木さんの「偶有性」の話と、大津和夫さんの「海外の地方自治体による若者のソーシャル・インクルージョンの方法」の話。
茂木さんはよくテレビに出られる方なので、初めて見たのによく知っている顔だった。
彼は若いころにイギリスに留学しており、そこで日本のホームレスとイギリスのホームレスの違いや、一般人との付き合い方の違いに気づいて、日本のホームレスをなんとかしたいと思っていたそうだ。そんな中でビッグイシューが日本で始まり、多くのホームレスが利益を手にし、さらに一般人との交流を持つ機会も手にしたということで、嬉しく思っているそうだ。
おもしろかったのは、やはり科学者的な意見。茂木さんは「人生には偶有性が前提としてあり、自分が他の人でもあり得たことに気づくことよって、人に優しくなれる。」と話した。
偶有性とは、「他でもあり得たのに、たまたまそれになった」ということらしい。つまり人生の偶有性とは、「他の人生にもなり得たのに、結果としてこういう人生を歩み、現在こういう立場として生きている」ということになる。(人生の偶有性という言葉の使い方が正しいかどうかはわからないが。)茂木さんのお母さんは、1945年8月9日に小倉にいたらしい。お母さんが茂木さんによく言ったのは、「小倉が曇っていなかったら、(原爆が投下されたはずから)あなたはいなかったのよ」ということだったそうだ。つまり、小倉が曇っていたら茂木さんは存在していなかったかもしれないが、小倉は曇っていたので茂木さんは存在している。偶有性ですね。
この偶有性を思うと、ホームレスなど困った状況にいる人に優しくなれるそうだ。なぜなら、自分もその状況になっていてもおかしくないから。(もちろんこれからなる可能性もある。)相手の立場に「共感」していると言えるかもしれないが、僕の中では「相手と自分を同義にする」というイメージ。「相手が自分でもあり得たわけだから、相手は自分だ!」となるのが僕の中での「偶有性を思う」ということ。
その中で茂木さんは、そういったホームレスの人を支援する方法として、ビッグイシューを買えるというのは非常にありがたいと話した。その理由はしっかりビジネスとして成り立っているので、堂々と支援できるからだそうだ。昔は自分の持っている500円玉をホームレスにあげたいなと思った時、わざと靴ひもを結ぶふりをして置いてきたりしたんだとか。しかし今は、販売者から雑誌を買うことで、自分も本を得られるし、販売者にも利益をもたらすことができる。無理でない形で販売者を支援できることが、無理な形でホームレスを支援してきた茂木さんにとってとてもすごいことだと強調していた。
ちなみに、この偶有性の話は突っ込みの意見を受けていた。「「自分がホームレスになり得たかもしれない」を想像すれば、相手を自分のように支援するということだったが、それだけではその人の気持ちを本当に理解することはできないし、相手の立場に完全には立てないじゃないか。」といった意見だった。これはホームレスの人を、ホームレスの立場になって支援している方にとってはもっともな意見だと思うし、ここは僕としても悩ましいところ。
その中で茂木さんは、「確かに偶有性を思うだけでは相手の本当の気持ちを知ることはできないし、本当に相手の立場にはなれないですよね。」とした上で、「それでも、偶有性を思って相手を想像することは大切。また社会は突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えではできていなく、もっと複雑なもので脆弱性を抱えたものだ」と言われた。
突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えとは、「ホームレスの人を本気で思い、本気で支援しようとするのであれば、まず相手の立場に立ってから支援をすることが大切。それ以外は結局は上から見下ろしていて、本当に相手の立場に立てていない。それでは本気で支援はしていない。」とした考え方(だと僕は解釈しています)。これには、「そう言われてしまえばそうかもしれない」というところがありますよね。「でも、それではダメだし、社会は成り立っていかない。だから偶有性を思うことが大切」というのが茂木さんの意見。なぜなら、多くの人は、みんなビジネスの中で競争をしているから。
一般的な資本主義の社会があって、それぞれが生産をしていて、そこから社会に利益が生まれて消費されてそれがまた生産を生んで、、と循環をしている。しかしその中では、その循環からこぼれ落ちてしまう人がいる。そこが社会の脆弱性であり、それを補完する形でビッグイシューのような社会企業が生まれてきて、その人たちには救いの手を差し伸べ始める。だけどその中には、その人たちと同じ立場から手を差し伸べられる人もいれば(ビッグイシューに努めたり、ホームレスと一緒に生活しながら支援をしたりする人)、競争をしながら差し伸べる人もいるわけで(一般的な生活の中で少しずつ支援をする人)、逆に言うと全ての人が同じ立場から手を差し伸べては、誰が社会に利益をもたらしていくのか?という話になる。だから全ての人が同じ立場に立って支援の手を差し伸べるのではなくて、全ての人がそれぞれの立場から、「偶有性を思って」くらい弱くて強いような拘束力を持つの考え方をすることで、それぞれの形で支援できる。結果としてそれは一番現実的で効果を上げられる形になる。
またその中でビッグイシューのように「雑誌を買う」という簡単な支援行為と面白い記事という自分にしっかりとした利益がもたらされる形は、さらに気軽な偶有性を思った結果の行為として取組みやすいでしょう、ということ。
僕は大学に行けない人が多くいる中で、大学に通わせてもらっている。僕は多少なりともホームレスの支援に興味はあるが、でも自分の生活は切り捨てられないと思っている。だから、さっきの単一的な考え方は僕の中にもあるので、いつも悩まされている。その中で、自分の偶有性を思いながら、「僕もこうなったかもしれないし、こうなるかもしれないから、自分と思って支援しよう」という考え方は、僕の立場を肯定できもするし、かつ支援の意欲や理由を失わずにいられるので、非常にいいものだと捉えている。また、それが自分の限界かとも思うのです。
そんなところで、茂木さんの話は面白かった。
また、新聞記者の大津和夫氏は自身がイギリスで調査をしたときの自治体による若者支援の形を紹介していた。その形は、若者を社会に取り込んでしまおうというもの。まさに「ソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)」!でも、僕はまだ「Social Inclusion」の定義や内容を詳しくは知らないので、ここでは話されていたことだけを記しておく。
イギリスでは、学校にいる間から若者を社会に取り込んでいこうという活動をしているらしく、コネクション・サービスというのがあって、学校に来なくなった若者の家やたまり場に行って、彼らを積極的に社会に取り込んでいこうとするのだそうだ。この取り込む先は学校ではなくて、社会活動とかそういうことになるんだろうね?だって学校に戻すというのだったら日本の先生だってやっているし。
また、スウェーデンの自治体では、若者が「ロック・コンサートを開きたい!」といった内容にも、お金を出すのだそうだ。それはなぜか?という問いに対しては、「若者は立派な市民の一人であり、どこに彼らの社会への参画を拒否する理由があるのか?」と逆に聞かれるほどだそうだ。日本だと、「ロックなんかに我々の税金を出すなんて何事だ!!」とかになりそうですよね(笑)
上記二つの取り組みは一定の成果を出しているのだそうだ。この二つの共通点は、「有り余った若者の力を、いい方向に持っていかせる土壌を作っている、もしくはある程度出来上がっている」ということなのだろうか。
「日本の若者は元気がない」といったイメージで語られることがよくあるが、そんなことはない。夜遅くまで起きて外を歩いていられる元気だってあるし、性欲だって昔と変わらずあるし。夜の街で力を有り余らせている若者は非常に多いと思う。その力をどういう風な方向で発散させたら社会にいいかを考えて、道筋を作れれば、結構いい結果が出ると思うのだが。もちろん文化的にとか思想的な限界は出てくるだろうけれどもね。
→ビッグイシュー日本公式HP
このイベントでは、「若者とビッグイシューの未来を考える」をテーマとして、一部では脳科学者の茂木健一郎氏が講演し、二部で精神科医の香山リカ氏と新聞記者の大津和夫氏が対談をした。
イベント全体を通しては、ビッグイシューが社会に対してどんな貢献をしているかから、今のホームレス事情や若いホームレスがなぜ生まれてくるのか、それが貧困の連鎖からもたらされているのであれば、それらをどうやって断てばいいのかといった話になった。
僕がこのイベントで強く印象に残ったことは、茂木さんの「偶有性」の話と、大津和夫さんの「海外の地方自治体による若者のソーシャル・インクルージョンの方法」の話。
茂木さんはよくテレビに出られる方なので、初めて見たのによく知っている顔だった。
彼は若いころにイギリスに留学しており、そこで日本のホームレスとイギリスのホームレスの違いや、一般人との付き合い方の違いに気づいて、日本のホームレスをなんとかしたいと思っていたそうだ。そんな中でビッグイシューが日本で始まり、多くのホームレスが利益を手にし、さらに一般人との交流を持つ機会も手にしたということで、嬉しく思っているそうだ。
おもしろかったのは、やはり科学者的な意見。茂木さんは「人生には偶有性が前提としてあり、自分が他の人でもあり得たことに気づくことよって、人に優しくなれる。」と話した。
偶有性とは、「他でもあり得たのに、たまたまそれになった」ということらしい。つまり人生の偶有性とは、「他の人生にもなり得たのに、結果としてこういう人生を歩み、現在こういう立場として生きている」ということになる。(人生の偶有性という言葉の使い方が正しいかどうかはわからないが。)茂木さんのお母さんは、1945年8月9日に小倉にいたらしい。お母さんが茂木さんによく言ったのは、「小倉が曇っていなかったら、(原爆が投下されたはずから)あなたはいなかったのよ」ということだったそうだ。つまり、小倉が曇っていたら茂木さんは存在していなかったかもしれないが、小倉は曇っていたので茂木さんは存在している。偶有性ですね。
この偶有性を思うと、ホームレスなど困った状況にいる人に優しくなれるそうだ。なぜなら、自分もその状況になっていてもおかしくないから。(もちろんこれからなる可能性もある。)相手の立場に「共感」していると言えるかもしれないが、僕の中では「相手と自分を同義にする」というイメージ。「相手が自分でもあり得たわけだから、相手は自分だ!」となるのが僕の中での「偶有性を思う」ということ。
その中で茂木さんは、そういったホームレスの人を支援する方法として、ビッグイシューを買えるというのは非常にありがたいと話した。その理由はしっかりビジネスとして成り立っているので、堂々と支援できるからだそうだ。昔は自分の持っている500円玉をホームレスにあげたいなと思った時、わざと靴ひもを結ぶふりをして置いてきたりしたんだとか。しかし今は、販売者から雑誌を買うことで、自分も本を得られるし、販売者にも利益をもたらすことができる。無理でない形で販売者を支援できることが、無理な形でホームレスを支援してきた茂木さんにとってとてもすごいことだと強調していた。
ちなみに、この偶有性の話は突っ込みの意見を受けていた。「「自分がホームレスになり得たかもしれない」を想像すれば、相手を自分のように支援するということだったが、それだけではその人の気持ちを本当に理解することはできないし、相手の立場に完全には立てないじゃないか。」といった意見だった。これはホームレスの人を、ホームレスの立場になって支援している方にとってはもっともな意見だと思うし、ここは僕としても悩ましいところ。
その中で茂木さんは、「確かに偶有性を思うだけでは相手の本当の気持ちを知ることはできないし、本当に相手の立場にはなれないですよね。」とした上で、「それでも、偶有性を思って相手を想像することは大切。また社会は突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えではできていなく、もっと複雑なもので脆弱性を抱えたものだ」と言われた。
突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えとは、「ホームレスの人を本気で思い、本気で支援しようとするのであれば、まず相手の立場に立ってから支援をすることが大切。それ以外は結局は上から見下ろしていて、本当に相手の立場に立てていない。それでは本気で支援はしていない。」とした考え方(だと僕は解釈しています)。これには、「そう言われてしまえばそうかもしれない」というところがありますよね。「でも、それではダメだし、社会は成り立っていかない。だから偶有性を思うことが大切」というのが茂木さんの意見。なぜなら、多くの人は、みんなビジネスの中で競争をしているから。
一般的な資本主義の社会があって、それぞれが生産をしていて、そこから社会に利益が生まれて消費されてそれがまた生産を生んで、、と循環をしている。しかしその中では、その循環からこぼれ落ちてしまう人がいる。そこが社会の脆弱性であり、それを補完する形でビッグイシューのような社会企業が生まれてきて、その人たちには救いの手を差し伸べ始める。だけどその中には、その人たちと同じ立場から手を差し伸べられる人もいれば(ビッグイシューに努めたり、ホームレスと一緒に生活しながら支援をしたりする人)、競争をしながら差し伸べる人もいるわけで(一般的な生活の中で少しずつ支援をする人)、逆に言うと全ての人が同じ立場から手を差し伸べては、誰が社会に利益をもたらしていくのか?という話になる。だから全ての人が同じ立場に立って支援の手を差し伸べるのではなくて、全ての人がそれぞれの立場から、「偶有性を思って」くらい弱くて強いような拘束力を持つの考え方をすることで、それぞれの形で支援できる。結果としてそれは一番現実的で効果を上げられる形になる。
またその中でビッグイシューのように「雑誌を買う」という簡単な支援行為と面白い記事という自分にしっかりとした利益がもたらされる形は、さらに気軽な偶有性を思った結果の行為として取組みやすいでしょう、ということ。
僕は大学に行けない人が多くいる中で、大学に通わせてもらっている。僕は多少なりともホームレスの支援に興味はあるが、でも自分の生活は切り捨てられないと思っている。だから、さっきの単一的な考え方は僕の中にもあるので、いつも悩まされている。その中で、自分の偶有性を思いながら、「僕もこうなったかもしれないし、こうなるかもしれないから、自分と思って支援しよう」という考え方は、僕の立場を肯定できもするし、かつ支援の意欲や理由を失わずにいられるので、非常にいいものだと捉えている。また、それが自分の限界かとも思うのです。
そんなところで、茂木さんの話は面白かった。
また、新聞記者の大津和夫氏は自身がイギリスで調査をしたときの自治体による若者支援の形を紹介していた。その形は、若者を社会に取り込んでしまおうというもの。まさに「ソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)」!でも、僕はまだ「Social Inclusion」の定義や内容を詳しくは知らないので、ここでは話されていたことだけを記しておく。
イギリスでは、学校にいる間から若者を社会に取り込んでいこうという活動をしているらしく、コネクション・サービスというのがあって、学校に来なくなった若者の家やたまり場に行って、彼らを積極的に社会に取り込んでいこうとするのだそうだ。この取り込む先は学校ではなくて、社会活動とかそういうことになるんだろうね?だって学校に戻すというのだったら日本の先生だってやっているし。
また、スウェーデンの自治体では、若者が「ロック・コンサートを開きたい!」といった内容にも、お金を出すのだそうだ。それはなぜか?という問いに対しては、「若者は立派な市民の一人であり、どこに彼らの社会への参画を拒否する理由があるのか?」と逆に聞かれるほどだそうだ。日本だと、「ロックなんかに我々の税金を出すなんて何事だ!!」とかになりそうですよね(笑)
上記二つの取り組みは一定の成果を出しているのだそうだ。この二つの共通点は、「有り余った若者の力を、いい方向に持っていかせる土壌を作っている、もしくはある程度出来上がっている」ということなのだろうか。
「日本の若者は元気がない」といったイメージで語られることがよくあるが、そんなことはない。夜遅くまで起きて外を歩いていられる元気だってあるし、性欲だって昔と変わらずあるし。夜の街で力を有り余らせている若者は非常に多いと思う。その力をどういう風な方向で発散させたら社会にいいかを考えて、道筋を作れれば、結構いい結果が出ると思うのだが。もちろん文化的にとか思想的な限界は出てくるだろうけれどもね。

