プロダクトの最近のブログ記事
先日、友達から「フラワーアレンジメントを見に行こう」と誘われた。
「フラワーアレンジメント?いいよ。行こう行こう。」と、僕は何気なく答えて高島屋の展示会場に行った。それがどんなものかも知らずに・・・・。
展示会場が見えてくると、壁の色が僕好みだったんですよ。「お、これはなんか期待できそう。」と思ったのも束の間、
眼に飛び込んできた一つ目の作品に、僕は圧倒されました。
「すんげえ・・・」
という感想です。あのですね、すんごいんです。
この展示会は、ダニエル・オストというフラワーアーティストの展示会でした。今日知人に話して知ったのですが、結構世界的に有名なアーティストらしい。彼は草木・花を使って空間をデザインするのですが、彼の作品の存在感といい、その空間やモノ(今回は『食卓』がテーマだったので、テーブルや食器、テーブルクロス等)との調和といい、圧倒的なわけです。"美しい"んです。
何より、草木は生きているので、香りや水分が展示室の中に充満しており、まさに「部屋全体を感じる」ように、展示物を見ることができる。そらもう、すごかった。あまりに感動して、帰りに彼の作品集を買って、本人が来ていたのでサインをもらってしまいました笑
作品を見た帰り、つくづく、改めて思ったことは、「表現を突き詰めると、万人に影響を与えるんだな」ということでした。というか、感性に訴えるものは、自分の趣味趣向・考えを突き抜けて「すごい」と思わせる力がある。それを改めて感じました。今日は秋川雅史さんの「千の風になって」を生で聞くことができたが、秋川さんの歌声にも心を揺さぶる力がありました。
これから僕の進む道は、彼らのような芸術の道ではないけれど、「感覚・感性」に訴える力を持つことは大事。これ極意と見た。
▼LINK-----
ダニエル・オストのウェブサイトです。
→DANIEL OST JAPAN
秋川雅史さんのウェブサイトです。
→秋川雅史オフィシャルWEBサイト
「フラワーアレンジメント?いいよ。行こう行こう。」と、僕は何気なく答えて高島屋の展示会場に行った。それがどんなものかも知らずに・・・・。
展示会場が見えてくると、壁の色が僕好みだったんですよ。「お、これはなんか期待できそう。」と思ったのも束の間、
眼に飛び込んできた一つ目の作品に、僕は圧倒されました。
「すんげえ・・・」
という感想です。あのですね、すんごいんです。
この展示会は、ダニエル・オストというフラワーアーティストの展示会でした。今日知人に話して知ったのですが、結構世界的に有名なアーティストらしい。彼は草木・花を使って空間をデザインするのですが、彼の作品の存在感といい、その空間やモノ(今回は『食卓』がテーマだったので、テーブルや食器、テーブルクロス等)との調和といい、圧倒的なわけです。"美しい"んです。
何より、草木は生きているので、香りや水分が展示室の中に充満しており、まさに「部屋全体を感じる」ように、展示物を見ることができる。そらもう、すごかった。あまりに感動して、帰りに彼の作品集を買って、本人が来ていたのでサインをもらってしまいました笑
作品を見た帰り、つくづく、改めて思ったことは、「表現を突き詰めると、万人に影響を与えるんだな」ということでした。というか、感性に訴えるものは、自分の趣味趣向・考えを突き抜けて「すごい」と思わせる力がある。それを改めて感じました。今日は秋川雅史さんの「千の風になって」を生で聞くことができたが、秋川さんの歌声にも心を揺さぶる力がありました。
これから僕の進む道は、彼らのような芸術の道ではないけれど、「感覚・感性」に訴える力を持つことは大事。これ極意と見た。
▼LINK-----
ダニエル・オストのウェブサイトです。
→DANIEL OST JAPAN
秋川雅史さんのウェブサイトです。
→秋川雅史オフィシャルWEBサイト
夕食後、食器を洗っていた時、ふと大学一年の時知り合った人に言われたことを思い出した。
「なぜ水道の蛇口のタイプが変わったか分かる?ユニバーサルデザイン?それは建前で、本当は水をたくさん使わせるため。」
我が家の水道の蛇口は、小学校の校庭とかにあるひねるタイプのものではなく、上に押し上げるタイプのもの。力を入れずに水を出したり止めたりできるタイプ。今やほとんどそのタイプですよね。学校や駅のトイレもそうだし。
昔の蛇口をひねるタイプのものを思い出してみる。右回しで蛇口を回すと、水が出てくるが、蛇口が外れるまで回したりはしなかった。たいてい自分の手首の限界まで回すのをを二回とかそんなもん。自分で出す水の量を制限していた。
では蛇口を上に押し上げるタイプだとどうか。これは力を入れる必要がなく、さらに簡単に一番上まで押し上げられるため、意識せずに水を全開にして使ってしまう(僕はこの話を聞いた後から、水の量を意識するようになってしまったが)。
つまり、この話が正しければ、ユニバーサルデザインに基づいた改善の中に、別のところから自分の利益を上げる種を含んでいたということになる。
また、歯医者と歯磨き粉メーカーの関係の話も聞いた。昔の人は塩で歯を磨いていたとか聞いたことがある。今の人は歯磨き粉で磨く。食べ物が同じであったとしたら、歯医者により通うようになりやすいのはどちらか。
こういう陰謀説はよくあるわけです。しかし考えてみると、「技術改善は会社に新しい利益をもたらす」わけだから、そういう種を仕込んでおくのが、ある意味合理的なわけですよね~。「新しい水道蛇口を作った。それが売れて利益アップ、さらに水道使用量が増えて利益アップ」みたいに。
何が正しいかは分からない。そういう可能性もある世の中ってことですよね。
9.11だって怪しいって言われているくらいですからね。
「なぜ水道の蛇口のタイプが変わったか分かる?ユニバーサルデザイン?それは建前で、本当は水をたくさん使わせるため。」
我が家の水道の蛇口は、小学校の校庭とかにあるひねるタイプのものではなく、上に押し上げるタイプのもの。力を入れずに水を出したり止めたりできるタイプ。今やほとんどそのタイプですよね。学校や駅のトイレもそうだし。
昔の蛇口をひねるタイプのものを思い出してみる。右回しで蛇口を回すと、水が出てくるが、蛇口が外れるまで回したりはしなかった。たいてい自分の手首の限界まで回すのをを二回とかそんなもん。自分で出す水の量を制限していた。
では蛇口を上に押し上げるタイプだとどうか。これは力を入れる必要がなく、さらに簡単に一番上まで押し上げられるため、意識せずに水を全開にして使ってしまう(僕はこの話を聞いた後から、水の量を意識するようになってしまったが)。
つまり、この話が正しければ、ユニバーサルデザインに基づいた改善の中に、別のところから自分の利益を上げる種を含んでいたということになる。
また、歯医者と歯磨き粉メーカーの関係の話も聞いた。昔の人は塩で歯を磨いていたとか聞いたことがある。今の人は歯磨き粉で磨く。食べ物が同じであったとしたら、歯医者により通うようになりやすいのはどちらか。
こういう陰謀説はよくあるわけです。しかし考えてみると、「技術改善は会社に新しい利益をもたらす」わけだから、そういう種を仕込んでおくのが、ある意味合理的なわけですよね~。「新しい水道蛇口を作った。それが売れて利益アップ、さらに水道使用量が増えて利益アップ」みたいに。
何が正しいかは分からない。そういう可能性もある世の中ってことですよね。
9.11だって怪しいって言われているくらいですからね。
近頃バタバタしてます。同時に、達成感による脱力感もありました。
去年から製作していた雑誌「mon-oral」が、11月1日に完成しました。

「何かを作る」ということにあまり携わったことがなかった僕は今、大きな「やってやった感」で溢れています。満足の出来栄えに、笑顔でいます。同時に、多くの人に迷惑かけっぱなしのまま作り上げたことについて、なんとか恩返ししなくてはと思っています。
去年から続けてきたことに一つ区切りをつけられたことで、達成感に満足し、少し気が緩んでしまいダラダラしちゃってました。が、相方と話をしている中でまた「わくわく」を見つけまして、今テンションが上がり始めています。楽しみつつも反省を踏まえた二歩目を、踏み出したいと思います。
去年から製作していた雑誌「mon-oral」が、11月1日に完成しました。

「何かを作る」ということにあまり携わったことがなかった僕は今、大きな「やってやった感」で溢れています。満足の出来栄えに、笑顔でいます。同時に、多くの人に迷惑かけっぱなしのまま作り上げたことについて、なんとか恩返ししなくてはと思っています。
去年から続けてきたことに一つ区切りをつけられたことで、達成感に満足し、少し気が緩んでしまいダラダラしちゃってました。が、相方と話をしている中でまた「わくわく」を見つけまして、今テンションが上がり始めています。楽しみつつも反省を踏まえた二歩目を、踏み出したいと思います。
少し前の話になるが、大学の友人二人と飲んだ。
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
これ、知ってますか?
これは「ライフセーバーボトル」なるもので、イギリスの会社が作ったんだと。
→LIFESAVER system社HP
これは簡単に言うと、「携帯型すんごい浄水器」で、そこら辺の水を汲んで、裏にあるポンプを押すと、中に入っている微細なフィルターで汚物が濾過されて、飲めるようになるんだと。そのフィルターの穴はウイルスよりも小さいらしく、全てのウイルスを通さないから、(理論上は)どんな水でも飲めるようになるんだ!!!ということらしい。
これを作った社長さんは、被災地を見て「自分が何かをしなくてはならない」と考えた時に、「なんで目の前に水があるのに、新鮮な水を求めなくてはならないのか。」と思ったことがきっかけとなったと話していた。
僕も被災地の映像とかで水を求めて列を作っているのを見ると、よく思います。けど、それを解決するモノを作ってしまうところがすごい。
値段は日本円で2万~4万くらい(サイズによる)だそうです。日本ではまだ売っていないそうだけど、本当にきれいな水を飲めるのかな?また、イギリスの水とは硬度の違うものでも、しっかり浄水できるのかな?試してみたい。

