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美術教育って何?

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11月29日に、こども環境学会学生部コトナ主催のイベントに参加してきました。
友達のtatsuwat君が代表を務める団体。
(tatsuwatのやってることについて書いた記事→スリルとリスクと創造性

テーマは、『美術教育って何?』だった。これ、結構大切だと思う。

僕は大学に入って、よく「見る」ことだとか目に見えないことを「感じる」ことだとかを学んだ。だけどそれまではそういったことは「よく分からない」で片づけていたし、美術の成績は良かったけれど美術は好きではなかった。


このイベントでは、とりあえず10分描いてみて、その後少し「描く」ということについて話し合ってみて、また描いてみた。(クロッキーというらしい。対象を描写すること。)

今回は講師の先生をクロッキーした。久しぶりにえんぴつと紙を持って描いてみたわけだが、妙に緊張した。特に何が分からなかったとか心配だったというわけではないのだが、とてもドキドキしていた。

クロッキーを終えると、座談会を行った。その場では自分が受けてきた「美術教育」を振り返り、何をどう感じたかを互いに言い合った。


僕は美術が好きではないと書いたが、よくよく考えてみると、中学までは好きだった。特に良いものを作れるわけではないが、何かを創作するということについて「自信を持って、楽しく」取り組んでいたことを思い出す。ただ、高校に入って嫌いになった。以後、美術はあまり好きでない。

なぜ高校で美術が嫌いになったかは分からない。また、特別大きなきっかけがあったわけではないが、一つ思い出すことがある。油絵の授業の時だった。花瓶や本を並べたものを描いていた。最初は普通に描いていたのだが、青い花瓶を描いたとき、「何か違うな」と感じた。どんどん青の色を塗り足して、陰になってるところ・光が当たっているところを再現しても、何か違う。それが何かを考えながら描いていると、先生が僕の絵を見て「kenji君には、まだ色が見えてないね。」と言った。僕は「色って何だ?」と思い、もっと濃淡をはっきりさせてみたり輪郭を描いてみたものの、まだ違う。するとまた先生が僕の絵の後ろに立って、「まだ見えてないね。よく見なさい。いろんな色が隠れているだろ?」と言う。まあ年頃の男の子だったので、かなりイラついた。全く見えなかったのを覚えている。その時ふと顔を上げると、目の前に油絵の絵が掲示されていることに気がついた。それは白い花瓶だったのだが、確かに、赤や黄色や緑で影の部分が描かれていた。「そういやゴッホの似顔絵の絵とかも、いろんな色で描いてあった!」と思いだし、すぐに持っている色全てを出して濃淡を描いた。すると、それっぽくなってきた。先生が見ると、「お、kenji君もようやく色が見えてきたね。」と言う。どんなもんだと思い、さらに描いた。提出した作品は高く評価され、成績も良かった。


これが別に美術嫌いの原因になっているかどうかはさておき、僕はこの授業で何を学んだのだろうとふと考えてみる。僕は最後まで「色」が見えるようにならなかった。というか、先生が言っていた「色」というのはどんなものなのかは、今も分からない。成績は良かったけれど、今となってはそんなものは関係ないし。

このイベントでは、美術教育の中に、特に「見る」という観察の力をつけるべきではないかという問題提起をしている。

眼は真実を映しているか?でも書いたが、物というのは「見えているようで、見えていない」ことが多いように思える。仮に眼が正しく映し出しているとしても、脳がそのとおりに認識しなければ、結局は間違って見えることになる。先ほどの油絵の話にしても、高校生の僕が「あの花瓶は青い。」と思い込んだ時点で、僕には青くしか見えないようになったのかもしれない。もしかしたら、先生にはもっと豊かな花瓶に見えており、それが歯がゆくて「kenji君には、まだ色が見えていないね。」と言ったのかもしれない。そう考えると、「物の見方」というのは見方を訓練すればより多彩に見ることができるようになるし、観察力もつくし、「思い込み」という存在にも気がつく。これは絵画や美術だけではなく、全ての分野に関連する。立派に教えるべき内容ではないか。

座談会の時に話を聞いていると、「美術が苦手だ」という人に限って、なぜかという理由を体験を交えて説明できていた。これが今の美術教育のやり方が悪いからだとか教員の質が低いからだとかに関係しているかは分からないが。


良い機会なので、もっとよく考えてみようと思った。少なくとも、絵を描く時に緊張するのだけは、なんとかしたいな。


tatsuwat blog「おもちゃ論の覚え書き」
→こども環境学会学生部 コトナ


コーラを着た女性

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少し前の話になるが、駅のホームで「コカ・コーラ」が非常に似合う女性を見かけた。


少しレゲエ風の、長身の美人。髪の毛は金髪で編み込んでいて、顔はほりが深く、眼の大きな人。その彼女の手の中に「コカ・コーラ」があったのを見た時に、なぜか衝撃が自分の中に走った。「こんなにコーラが似合う人がいるのか!!」という衝撃。

あれがペプシ・コーラやスプライトとかであったら幻滅だった。コカ・コーラだったからこそ、ハマったのだと確信を持っている。それぐらい、コーラの似合う女性だった。


この経験は、僕にコーラの新たな一面を見せてくれた。というか、飲み物の新たな一面というべきか。手に持つ飲み物すらもファッションになりうる、ということ。そんなことを考えたことがなかったので、今回感じたこの衝撃に驚きを隠せない。



自分を追い込む環境にいられるならば、それを幸せに思え。

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今日は、陶芸家宗像利浩さんの個展を、日本橋三越本店に見に行った。

宗像利浩さんは、享保四年(1718年)から続く宗像窯の八代目当主であり、僕が会津でインタビューをさせていただいた人。宗像さんは1997年の日本陶芸展で自身の名を含めた作品「利鉢」で準大賞を受賞し、その後2003年の同展覧会では文部科学大臣賞を受賞した。また、宗像窯伝来のにしん鉢は、六代目豊意氏の時にベルギーで行われた万国博覧会で最高賞のグランプリを受賞し、今でも国内国外からの注目を浴びている。宗像窯への秩父宮妃殿下の来訪もあったらしい。(ちなみに、宗像窯のにしん鉢は先日銀座の松屋銀座で行われていた「DESIGN BUSSAN NIPPON展」でも福島の物産としても出品されていた。)


その宗像さんは、本当に腰が低く、言葉を選んで話をしてくれる人。会津でインタビューをした際も、陶芸について何も知らない僕たちが発する初歩的な質問に対して、一つ一つ丁寧に答えてくださった。(インタビューについても、いずれまとめます。)

宗像さんが陶器の作り手として追い求められていることは、「用の美」だという。つまり「美」は作品としての茶碗や壷にあるのではなく、使われる過程の中に「美」があるということ。使われる中で茶碗が視覚・触覚に存在感を放ち、それが食事と一体となって食事を美味しくさせるところに、「美」あるというのだ。宗像さんは、「自分にとって出来がいいとか悪いとかはあるけれど、使われる方が自分にとって一番いい茶碗を選んで、それを大切に使われれば、次に自分が見た時に「いいと思うもの」と「悪いと思うもの」が逆になっていることがある。」と言う。それくらい使われる中で陶器(ここでは茶碗)が変化していくのだそうだ。


今日改めて宗像さんの作品を見させていただいて、やはり「本物」という存在感があった。特に触ると違いが分かる。肌ざわりはもちろん、手にのせた時の重さや重心に一つ一つ個性があって、自分に合うやつを見つけると、持っていて本当に「気持ちいい」。さらに上薬のかかりかたなどでいろいろな表情をしていて、「これにご飯よそったらどんなになるんだ?」と想像すると、それぞれ違ったイメージと美味しさが浮かぶ。

ちょっと余談だけど、「本物」ってその人の感覚に今までになかった感覚を植え付けるもののような気がします。評論家じゃないからうまく説明はできないけれど、「本物」は、作品にある色や形が持つ「きれいだなあ」という感覚に、さらに深い意味を付け加える。その意味は言葉ではうまく言い表せないから「きれいだなあ」しか言えないのだけれど、でも自分の「きれい」の意味の中に今までに感じられていなかった感覚や感情が残る。「ああ、こういうきれいさがあるのか」みたいな感じ。
さらに作品かはその作り手の想いだとか熱意、緊張感といったものが染み出しており、それにまたドキドキさせられる。もし自分でそういう力を持つものに出会ったならば、それは「本物」と呼んでもいいような気がしました。分かりにくくてすみません。

今日が初日だったのに、ウン十万の茶碗や鉢のほとんどに買い手が付いていた。一つ「これ欲しい!!!」と思った茶碗もあったが、自分が欲しいカメラが3つくらい買える値段なので、とりあえず触りまくって持ちまくって、感覚だけでも持ち帰ってきた。


個展の中で、宗像さんが時間を作ってくださったので、また少しお話をさせていただくことができた。今回のお話の中で非常に印象的であったのが、「自分を追い込む環境にいられるならば、それを幸せに思え。」ということ。

宗像さんは「自分の理想とするまであと少しだと分かっているんだけれど、その少しが遠い」という経験を幾度もされてきたそうだ。その間は苦しくて、もう無理じゃないかと何度も思われたそう。また話されてはいなかったが、そこには宗像窯八代目としてのプレッシャーや責任が重くのしかかっていたことは容易に想像できる。しかし、そういう時宗像さんは「これはチャンス。自分自身に革命を起こせる大きなチャンスである。」と考えるそうだ。


「人は自分の最大限の力は出せないもの。その力というのは、ギリギリまで追い込まれなければ出てこない。ということは、そういう苦しい時は自分の最大限の力を引き出すチャンスになる。その苦しい時を越えられたなら、その時は自分が今まで届かなかったものに届いているはず。」


やはり幾度とそれを体現されている方の言葉には、説得力がある。自分はどうなのかと振り返ると、お恥ずかしい限り。まだまだ自分を追い込めていない。都合のいい言い訳を探して、自分を正当化ばかりしている。


さらに、100キロマラソンと50キロマラソンをした人の例をあげられた。あるグループが100キロマラソンをしたのだが、ゴール直前に苦しくなり、ゴール出来なかった。とりあえず最初は50キロマラソンから始めようということで同じグループで50キロマラソンに挑戦したのだが、結局50キロマラソンでもゴール直前は苦しかった。

宗像さんは、掲げる目標は常に、「妥当な目標のはるか上」に設定しているそうだ。これもマラソンの例えと一緒で、「どうせやるなら高い位置にしておいた方がパフォーマンスは高くなるし、大変なのはどちらも一緒だから。」という理由だそう。昔、「100点を取りにいかないと、80点は取れない」という名言があったけど、やはり目標を高くし、そこまで行ってやろうとする中で、いいパフォーマンスが生まれてくるということだろうか。


個展で触れた「本物」に感動しきっていた僕だが、それを生み出している人は「追い込む」という言葉を大切にされていた。この「追い込み」→「不安・苦しみ」→「自分革命」→「追い込み」→・・・・というサイクルが、「本物」を生み出しているのだなー。そうすると、自分にもこの「追い込み」次第では、まだまだ隠された力を表出化できるということになる。これはまたワクワクしてくる。




これ、いいね。

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これ、家のゴミ袋ボックスに入っていたのですが、「おもしれー!」と思ったので、撮ってみました。どれも漢字に見えるようにさりげなく入っており、かつその字が象徴する絵だってのが、面白いです。「麺」とか「老」とかが面白い(笑) まるいしょくゆうかんを見直しました。近くにないんで、そこで買物はしないだろうけど。



Dancing

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これ、マジで感動です。見てると、笑顔になっちゃいますよ。
 

『Where the Hell is Matt?(2008) / mattharding2718 / youtube』


ゴミ × アート

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+Aのブログに面白いサイトの紹介があった。(これもまた違う人から教えてもらったらしい。情報の連鎖って、素敵ですね。)


GARBAGE BAG ART WORK


ゴミのネガティブなイメージを、アートで無くしてしまおうって動きらしい。マジですげー発想&素敵な取り組みだと、関心しまくりです。

世の中には様々な問題があるけれど、自分の好きな取り組みで、そういうのを解決していけたら楽しいと思うんですよね。自分の好きなことができて、問題が解決が出来て、それでさらに食っていけまでしたら、なんて素敵な人生だ!!と、そう思うわけです。


+Aの記事で紹介されている二つ目の活動もすげーです。やってみたいな。



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プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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