表現: 2008年12月アーカイブ
11月29日に、こども環境学会学生部コトナ主催のイベントに参加してきました。
友達のtatsuwat君が代表を務める団体。
(tatsuwatのやってることについて書いた記事→スリルとリスクと創造性)
テーマは、『美術教育って何?』だった。これ、結構大切だと思う。
僕は大学に入って、よく「見る」ことだとか目に見えないことを「感じる」ことだとかを学んだ。だけどそれまではそういったことは「よく分からない」で片づけていたし、美術の成績は良かったけれど美術は好きではなかった。
このイベントでは、とりあえず10分描いてみて、その後少し「描く」ということについて話し合ってみて、また描いてみた。(クロッキーというらしい。対象を描写すること。)
今回は講師の先生をクロッキーした。久しぶりにえんぴつと紙を持って描いてみたわけだが、妙に緊張した。特に何が分からなかったとか心配だったというわけではないのだが、とてもドキドキしていた。
クロッキーを終えると、座談会を行った。その場では自分が受けてきた「美術教育」を振り返り、何をどう感じたかを互いに言い合った。
僕は美術が好きではないと書いたが、よくよく考えてみると、中学までは好きだった。特に良いものを作れるわけではないが、何かを創作するということについて「自信を持って、楽しく」取り組んでいたことを思い出す。ただ、高校に入って嫌いになった。以後、美術はあまり好きでない。
なぜ高校で美術が嫌いになったかは分からない。また、特別大きなきっかけがあったわけではないが、一つ思い出すことがある。油絵の授業の時だった。花瓶や本を並べたものを描いていた。最初は普通に描いていたのだが、青い花瓶を描いたとき、「何か違うな」と感じた。どんどん青の色を塗り足して、陰になってるところ・光が当たっているところを再現しても、何か違う。それが何かを考えながら描いていると、先生が僕の絵を見て「kenji君には、まだ色が見えてないね。」と言った。僕は「色って何だ?」と思い、もっと濃淡をはっきりさせてみたり輪郭を描いてみたものの、まだ違う。するとまた先生が僕の絵の後ろに立って、「まだ見えてないね。よく見なさい。いろんな色が隠れているだろ?」と言う。まあ年頃の男の子だったので、かなりイラついた。全く見えなかったのを覚えている。その時ふと顔を上げると、目の前に油絵の絵が掲示されていることに気がついた。それは白い花瓶だったのだが、確かに、赤や黄色や緑で影の部分が描かれていた。「そういやゴッホの似顔絵の絵とかも、いろんな色で描いてあった!」と思いだし、すぐに持っている色全てを出して濃淡を描いた。すると、それっぽくなってきた。先生が見ると、「お、kenji君もようやく色が見えてきたね。」と言う。どんなもんだと思い、さらに描いた。提出した作品は高く評価され、成績も良かった。
これが別に美術嫌いの原因になっているかどうかはさておき、僕はこの授業で何を学んだのだろうとふと考えてみる。僕は最後まで「色」が見えるようにならなかった。というか、先生が言っていた「色」というのはどんなものなのかは、今も分からない。成績は良かったけれど、今となってはそんなものは関係ないし。
このイベントでは、美術教育の中に、特に「見る」という観察の力をつけるべきではないかという問題提起をしている。
眼は真実を映しているか?でも書いたが、物というのは「見えているようで、見えていない」ことが多いように思える。仮に眼が正しく映し出しているとしても、脳がそのとおりに認識しなければ、結局は間違って見えることになる。先ほどの油絵の話にしても、高校生の僕が「あの花瓶は青い。」と思い込んだ時点で、僕には青くしか見えないようになったのかもしれない。もしかしたら、先生にはもっと豊かな花瓶に見えており、それが歯がゆくて「kenji君には、まだ色が見えていないね。」と言ったのかもしれない。そう考えると、「物の見方」というのは見方を訓練すればより多彩に見ることができるようになるし、観察力もつくし、「思い込み」という存在にも気がつく。これは絵画や美術だけではなく、全ての分野に関連する。立派に教えるべき内容ではないか。
座談会の時に話を聞いていると、「美術が苦手だ」という人に限って、なぜかという理由を体験を交えて説明できていた。これが今の美術教育のやり方が悪いからだとか教員の質が低いからだとかに関係しているかは分からないが。
良い機会なので、もっとよく考えてみようと思った。少なくとも、絵を描く時に緊張するのだけは、なんとかしたいな。
→tatsuwat blog「おもちゃ論の覚え書き」
→こども環境学会学生部 コトナ
友達のtatsuwat君が代表を務める団体。
(tatsuwatのやってることについて書いた記事→スリルとリスクと創造性)
テーマは、『美術教育って何?』だった。これ、結構大切だと思う。
僕は大学に入って、よく「見る」ことだとか目に見えないことを「感じる」ことだとかを学んだ。だけどそれまではそういったことは「よく分からない」で片づけていたし、美術の成績は良かったけれど美術は好きではなかった。
このイベントでは、とりあえず10分描いてみて、その後少し「描く」ということについて話し合ってみて、また描いてみた。(クロッキーというらしい。対象を描写すること。)
今回は講師の先生をクロッキーした。久しぶりにえんぴつと紙を持って描いてみたわけだが、妙に緊張した。特に何が分からなかったとか心配だったというわけではないのだが、とてもドキドキしていた。
クロッキーを終えると、座談会を行った。その場では自分が受けてきた「美術教育」を振り返り、何をどう感じたかを互いに言い合った。
僕は美術が好きではないと書いたが、よくよく考えてみると、中学までは好きだった。特に良いものを作れるわけではないが、何かを創作するということについて「自信を持って、楽しく」取り組んでいたことを思い出す。ただ、高校に入って嫌いになった。以後、美術はあまり好きでない。
なぜ高校で美術が嫌いになったかは分からない。また、特別大きなきっかけがあったわけではないが、一つ思い出すことがある。油絵の授業の時だった。花瓶や本を並べたものを描いていた。最初は普通に描いていたのだが、青い花瓶を描いたとき、「何か違うな」と感じた。どんどん青の色を塗り足して、陰になってるところ・光が当たっているところを再現しても、何か違う。それが何かを考えながら描いていると、先生が僕の絵を見て「kenji君には、まだ色が見えてないね。」と言った。僕は「色って何だ?」と思い、もっと濃淡をはっきりさせてみたり輪郭を描いてみたものの、まだ違う。するとまた先生が僕の絵の後ろに立って、「まだ見えてないね。よく見なさい。いろんな色が隠れているだろ?」と言う。まあ年頃の男の子だったので、かなりイラついた。全く見えなかったのを覚えている。その時ふと顔を上げると、目の前に油絵の絵が掲示されていることに気がついた。それは白い花瓶だったのだが、確かに、赤や黄色や緑で影の部分が描かれていた。「そういやゴッホの似顔絵の絵とかも、いろんな色で描いてあった!」と思いだし、すぐに持っている色全てを出して濃淡を描いた。すると、それっぽくなってきた。先生が見ると、「お、kenji君もようやく色が見えてきたね。」と言う。どんなもんだと思い、さらに描いた。提出した作品は高く評価され、成績も良かった。
これが別に美術嫌いの原因になっているかどうかはさておき、僕はこの授業で何を学んだのだろうとふと考えてみる。僕は最後まで「色」が見えるようにならなかった。というか、先生が言っていた「色」というのはどんなものなのかは、今も分からない。成績は良かったけれど、今となってはそんなものは関係ないし。
このイベントでは、美術教育の中に、特に「見る」という観察の力をつけるべきではないかという問題提起をしている。
眼は真実を映しているか?でも書いたが、物というのは「見えているようで、見えていない」ことが多いように思える。仮に眼が正しく映し出しているとしても、脳がそのとおりに認識しなければ、結局は間違って見えることになる。先ほどの油絵の話にしても、高校生の僕が「あの花瓶は青い。」と思い込んだ時点で、僕には青くしか見えないようになったのかもしれない。もしかしたら、先生にはもっと豊かな花瓶に見えており、それが歯がゆくて「kenji君には、まだ色が見えていないね。」と言ったのかもしれない。そう考えると、「物の見方」というのは見方を訓練すればより多彩に見ることができるようになるし、観察力もつくし、「思い込み」という存在にも気がつく。これは絵画や美術だけではなく、全ての分野に関連する。立派に教えるべき内容ではないか。
座談会の時に話を聞いていると、「美術が苦手だ」という人に限って、なぜかという理由を体験を交えて説明できていた。これが今の美術教育のやり方が悪いからだとか教員の質が低いからだとかに関係しているかは分からないが。
良い機会なので、もっとよく考えてみようと思った。少なくとも、絵を描く時に緊張するのだけは、なんとかしたいな。
→tatsuwat blog「おもちゃ論の覚え書き」
→こども環境学会学生部 コトナ

