(これは研究会での学びをまとめたものです。めっちゃ長いです。)今回の研究会では、先生の「弱さのジャンプ」についての分析を行った。
自分が読んでみて感じたことは、
ココにまとめてある。しかし、この度「分析する」という観点で読み解いていった時、自分が何の疑問も抱かずに読み飛ばしていた部分に「大きなメッセージ」が含まれていることに気づいた。こういう機会を与えられていることには、恵まれているなあとつくづく思う。
まず、サイモンが「合理的行動」に述べた中で、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」という二つの対立させて考えられている価値観について、掘り下げて考えた。
この「合理的人間観」とは何か。
合理的人間観とは、自己利益の追求が第一のため、他人を蹴落としたりする「機会主義的行動」を取る価値観のことを指す。完全な競争社会の中で勝ち抜こうとしたときに、しばしばこの価値観が前に出すぎて問題が発生することもある。他の例では、政治家の横領など権限の悪用。自分の利益追及が第一になってしまうと、権限を使って自分の都合のいいように行動してしまう。
話は逸れるが、この権限の悪用は、捕まらなかったら合理的選択になる。捕まらないのであれば、自分の利益追求のための最良の手段になる。しかし、捕まったら、それは合理的選択ではなくなるわけですね。それでは権限の悪用を合理的選択にしないようにするにはどうすればいいのか?
罰則を大きいものにして、悪用の抑止力にするという考え方もある。また、周りの人が監視をして、それを防止するという考え方もある。しかしそこで監査などを入れるとお金がかかってしまう。ではお金をかけずに権限の悪用を見守る役目をするものは何か?それが、マスコミである。マスコミが国民に代わってに監査をするわけですね。近頃各新聞などによる政治家汚職のすっぱ抜きや批判が多いのは、「自分たちが監査役として機能していますよ!」というアピールなのだと先生は指摘されていた。(研究会なので、ちょいちょい話題は逸れます。そこもまとめています。)
次に、「ボランティア的人間観」について。ボランティア人間観は、自分の利益追求ではない面で、人の役に立つ・進んで協力するといった価値観であるわけです。
この論文では、この「合理的人間観」と「ボランティア人間観」はそれぞれ矛盾する二つの価値観として書かれている。しかし、この二つの価値観とは本当に相反するものなのか、これを同じくして考えることはできないのか。ここがこの論文の一つのポイントである所だった。
これについては、いくつかの視点を持って考えられる。その一つとして「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」ということがある。それをエコ住宅の売買を例に考えてみた。
住宅を販売するA社がある。A社にとっての合理的選択は、「会社の利益を増大すること」であるから、いい家だろうと悪い家だろうと、会社の利益につながる売買であれば積極的に行う。
その中で、近年のエコの流れから、国が「エコ住宅」を推奨するようになった。
ここでA社に「エコ住宅はエコにとって必要なものだから、売りたいなあ」というボランティア的人間観が芽生えたとする。しかし、A社にとってまだ「合理的な選択」はできるだけコストを低いもので、高く販売することであり、建築コストのかかる「エコ住宅」は販売料金も高くなってしまうので、買い手はあまり買ってくれないだろう。であれば、エコ住宅を売買する必要はない。
そこで国は、「買い手がエコ住宅を買う際に、補助金を出して安く買わせてあげます」という法律を作ったとする。これがA社の「ボランティア人間観を合理的選択肢にする」ことにつながる。
つまり、A社はいい家でも悪い家でも高く売ることが合理的選択肢であったのが、「エコ住宅を買うことで売り手に補助金を与える」という法律が、例え販売額的には同じでも、「エコ住宅を売ることは必要なことだ」というA社の「ボランティア的人間観」によって、エコ住宅販売>普通の家販売という構造をもたらす。また買い手も「エコ住宅の方が、環境に優しいことをしていて気持ちいい」という考えにつながることになる。これによって、エコ住宅はどんどん広がっていくわけで、この「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」という考えを実行に移すには、この例の場合は、政府の補助金が必要であったということになる。
ここで大切なことは、前提として「プレイヤー(ここで言う企業)はボランティア人間観だけでは、行動はできない。それを受け入れる。」ということだ。ここでの解決策は、「ボランティア的人間観」を「合理的な選択肢にすればいい」という話であった。この論文では前提として「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」は矛盾して書かれているが、この矛盾を乗り越えるには、この「前提を受け入れた上で」、どういった解決策があるかを考えることが大切になる。
また、「ボランティア的人間観に基づく行為だけど、合理的選択が伴うものにした。」というケースもある。簡単に言うと、新しい市場を作ったというケースになる。
フローレンスという病児保育を引き受ける活動を行っているNPOがある。
→
NPOフローレンスこのNPOでは、今まで病児保育をボランティアとして引き受けていた人をまとめて、ただ「御願いします」ではなく、お金を払うモデルを作った。ただ「ボランティア的人間観」で行動をしていた人たちの選択肢に、「合理的選択」の要素を入れたわけだ。
上記二つのケースを見る限り、どちらのケースも「ボランティア的人間観であり、かつ合理的人間観で行動する」という、二つの価値観を超えるつながりを作りだしていることがうかがえる。この辺りを、ソーシャル・イノベーションだと呼ぶのだそう。そのきっかけを作る力は、エコ住宅では「国からの補助金」であり、フローレンスでは「新しい市場を作る」であったが、今仮に、「ボランティア人間観」だけで行動を起こしているモデルがあるとするならば、どうしたらそこに「合理的選択肢」を加えられるかを考える。
よく考え違いを起こしがちなのは、「合理的選択」だと思いながらも、その選択肢は「その人にとっては最善ではない選択」を迫ってしまっている状態。これは合理的選択の中にある種のボランティア的人間観が入ってきてしまっている状態とも言えるかもしれない。しかし人は自分の欲求に対し常に合理的な選択をするという仮定の上では、この行動は長続きしないし、何より人は自分にとって「合理的選択」をできているときが一番長続きがする。長期的に考える上でも、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」を重ね合わせるならば、「これをしたら自分にとって最善であり、かつ周りの人にとっても最善である」という仕組みを作らなければいけない。
ではその上で、二つのレベルの視点が出てきたらどうであろうか。
ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」は、プレイヤー1と2はそれぞれ、自分にとって合理的な選択をすると、結果として非合理な状態に陥ることを意味したものである。
→囚人のジレンマ
エコ住宅の例では、補助金を出して「個人」レベルにとって合理的な選択をすると、「社会」レベルでも合理的な選択になっていた。しかし、この場合では「個人」レベルで合理的選択をすると、「社会」レベルで合理的でなくなるところに特徴があり、そこがジレンマであるとされる。
ケネス・アローが言う民主社会の解決策では、解決方法は3つあるそうだ。
1つ目は法律を作って、罰則を作る ⇒ 権限による解決
2つ目は一番安くていいものを作る人が、勝ち残る ⇒ 市場による解決
3つ目はそれぞれが良くなるようなもの ⇒ コミュニティによる解決(自分だけ儲かるのではなくて、皆が儲かればいいでしょ。)
これはつまり、「民主社会は、民主的に決めるか、経済で決めるか、権力で決めるか。」があるということであるが、アローは「民主的解決では、社会の解決にはならない。」ということを証明したらしい。
例えばここに、プレイヤーが3人(いちろー、まつい、いわむら)いる。彼らはそれぞれA,B,Cの中から、自分は「何よりも何が好ましい」と主張し合っており、多数決で物事を決めようとしている。
いちろー
B<A ●
C<B ▲
C<A
まつい
C<B ▲
A<C ■
A<B
いわむら
A<C ■
B<A ●
B<C
彼らがこう主張したとき、多数決で選ぶならば、
B<A
A<C
C<B
という順序になり、多数決だけでは決まらないことが分かる。
「囚人のジレンマ」は現在の社会決定のモデルと言われるが、囚人のジレンマを見ても、上記の多数決の結果を見ても、個人がそれぞれ自分の「合理的選択」をしただけでの「民主的な決定」では、問題の解決には至らない。
その中で、既存のジレンマなり問題を乗り越える考え方として必要になってくるのが、「弱さ」であると先生は言われる。
今までの社会は「強さ」が問題解決の役割を担ってきた。「強さ」とはいわゆる既存の権力や高い地位を持つ存在で、それらによる「合理的選択」や「権力による意思決定」は正しいものとされ、彼らの「個人レベル」での問題解決が優先されてきた。しかし、その結果「社会レベル」で様々な問題が顕在化してきている。つまり、現代では強い力だけでは問題は解決しなくなってきた。
今後の社会には、「強さからの視点」では価値がないと思われていたことに対して、価値を見出せる「弱さからの視点」が必要になってくるのではないか。「弱さ」とは今までの社会構造の中では低い力でしかなかった存在であるが、今後の社会では「強さ」だけでは解決できなかった問題を、「弱さ」視点から捉えて物事に価値を見出し、問題解決に迫ることが必要とされるのではないか。つまり、価値観・考え方のパラダイムシフトを起こすということである。そうすれば、今まで低い地位でしかなかった存在が価値を持ち始めてくるわけだから、社会全体の価値が上がってくる。
そしてこの弱い存在からの自発的な力が、経済システム・合理性に関与するのが、社会起業・ソーシャルイノベーションだと言えるのではないか。これが、今回の話が言わんとしているところでした。
今までは弱いと思われていた存在から、社会に価値を生み出す。非合理的な選択だったことを合理的な選択にして、価値がなかったものから価値が生まれれば、社会が良くなる。というわけでした。
ノートまとめただけなんだけど、すごく疲れた・・・・。