思考法: 2008年10月アーカイブ

(これは研究会での学びをまとめたものです。めっちゃ長いです。)


今回の研究会では、先生の「弱さのジャンプ」についての分析を行った。


自分が読んでみて感じたことは、ココにまとめてある。しかし、この度「分析する」という観点で読み解いていった時、自分が何の疑問も抱かずに読み飛ばしていた部分に「大きなメッセージ」が含まれていることに気づいた。こういう機会を与えられていることには、恵まれているなあとつくづく思う。


まず、サイモンが「合理的行動」に述べた中で、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」という二つの対立させて考えられている価値観について、掘り下げて考えた。


この「合理的人間観」とは何か。

合理的人間観とは、自己利益の追求が第一のため、他人を蹴落としたりする「機会主義的行動」を取る価値観のことを指す。完全な競争社会の中で勝ち抜こうとしたときに、しばしばこの価値観が前に出すぎて問題が発生することもある。他の例では、政治家の横領など権限の悪用。自分の利益追及が第一になってしまうと、権限を使って自分の都合のいいように行動してしまう。

話は逸れるが、この権限の悪用は、捕まらなかったら合理的選択になる。捕まらないのであれば、自分の利益追求のための最良の手段になる。しかし、捕まったら、それは合理的選択ではなくなるわけですね。それでは権限の悪用を合理的選択にしないようにするにはどうすればいいのか?

罰則を大きいものにして、悪用の抑止力にするという考え方もある。また、周りの人が監視をして、それを防止するという考え方もある。しかしそこで監査などを入れるとお金がかかってしまう。ではお金をかけずに権限の悪用を見守る役目をするものは何か?それが、マスコミである。マスコミが国民に代わってに監査をするわけですね。近頃各新聞などによる政治家汚職のすっぱ抜きや批判が多いのは、「自分たちが監査役として機能していますよ!」というアピールなのだと先生は指摘されていた。(研究会なので、ちょいちょい話題は逸れます。そこもまとめています。)


次に、「ボランティア的人間観」について。ボランティア人間観は、自分の利益追求ではない面で、人の役に立つ・進んで協力するといった価値観であるわけです。


この論文では、この「合理的人間観」と「ボランティア人間観」はそれぞれ矛盾する二つの価値観として書かれている。しかし、この二つの価値観とは本当に相反するものなのか、これを同じくして考えることはできないのか。ここがこの論文の一つのポイントである所だった。


これについては、いくつかの視点を持って考えられる。その一つとして「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」ということがある。それをエコ住宅の売買を例に考えてみた。

住宅を販売するA社がある。A社にとっての合理的選択は、「会社の利益を増大すること」であるから、いい家だろうと悪い家だろうと、会社の利益につながる売買であれば積極的に行う。


その中で、近年のエコの流れから、国が「エコ住宅」を推奨するようになった。

ここでA社に「エコ住宅はエコにとって必要なものだから、売りたいなあ」というボランティア的人間観が芽生えたとする。しかし、A社にとってまだ「合理的な選択」はできるだけコストを低いもので、高く販売することであり、建築コストのかかる「エコ住宅」は販売料金も高くなってしまうので、買い手はあまり買ってくれないだろう。であれば、エコ住宅を売買する必要はない。

そこで国は、「買い手がエコ住宅を買う際に、補助金を出して安く買わせてあげます」という法律を作ったとする。これがA社の「ボランティア人間観を合理的選択肢にする」ことにつながる。

つまり、A社はいい家でも悪い家でも高く売ることが合理的選択肢であったのが、「エコ住宅を買うことで売り手に補助金を与える」という法律が、例え販売額的には同じでも、「エコ住宅を売ることは必要なことだ」というA社の「ボランティア的人間観」によって、エコ住宅販売>普通の家販売という構造をもたらす。また買い手も「エコ住宅の方が、環境に優しいことをしていて気持ちいい」という考えにつながることになる。これによって、エコ住宅はどんどん広がっていくわけで、この「ボランティア人間観を、合理的選択肢にすればいい」という考えを実行に移すには、この例の場合は、政府の補助金が必要であったということになる。


ここで大切なことは、前提として「プレイヤー(ここで言う企業)はボランティア人間観だけでは、行動はできない。それを受け入れる。」ということだ。ここでの解決策は、「ボランティア的人間観」を「合理的な選択肢にすればいい」という話であった。この論文では前提として「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」は矛盾して書かれているが、この矛盾を乗り越えるには、この「前提を受け入れた上で」、どういった解決策があるかを考えることが大切になる。


また、「ボランティア的人間観に基づく行為だけど、合理的選択が伴うものにした。」というケースもある。簡単に言うと、新しい市場を作ったというケースになる。

フローレンスという病児保育を引き受ける活動を行っているNPOがある。
NPOフローレンス

このNPOでは、今まで病児保育をボランティアとして引き受けていた人をまとめて、ただ「御願いします」ではなく、お金を払うモデルを作った。ただ「ボランティア的人間観」で行動をしていた人たちの選択肢に、「合理的選択」の要素を入れたわけだ。


上記二つのケースを見る限り、どちらのケースも「ボランティア的人間観であり、かつ合理的人間観で行動する」という、二つの価値観を超えるつながりを作りだしていることがうかがえる。この辺りを、ソーシャル・イノベーションだと呼ぶのだそう。そのきっかけを作る力は、エコ住宅では「国からの補助金」であり、フローレンスでは「新しい市場を作る」であったが、今仮に、「ボランティア人間観」だけで行動を起こしているモデルがあるとするならば、どうしたらそこに「合理的選択肢」を加えられるかを考える。

よく考え違いを起こしがちなのは、「合理的選択」だと思いながらも、その選択肢は「その人にとっては最善ではない選択」を迫ってしまっている状態。これは合理的選択の中にある種のボランティア的人間観が入ってきてしまっている状態とも言えるかもしれない。しかし人は自分の欲求に対し常に合理的な選択をするという仮定の上では、この行動は長続きしないし、何より人は自分にとって「合理的選択」をできているときが一番長続きがする。長期的に考える上でも、「合理的人間観」と「ボランティア的人間観」を重ね合わせるならば、「これをしたら自分にとって最善であり、かつ周りの人にとっても最善である」という仕組みを作らなければいけない。



ではその上で、二つのレベルの視点が出てきたらどうであろうか。

ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」は、プレイヤー1と2はそれぞれ、自分にとって合理的な選択をすると、結果として非合理な状態に陥ることを意味したものである。
→囚人のジレンマ

エコ住宅の例では、補助金を出して「個人」レベルにとって合理的な選択をすると、「社会」レベルでも合理的な選択になっていた。しかし、この場合では「個人」レベルで合理的選択をすると、「社会」レベルで合理的でなくなるところに特徴があり、そこがジレンマであるとされる。


ケネス・アローが言う民主社会の解決策では、解決方法は3つあるそうだ。
1つ目は法律を作って、罰則を作る ⇒ 権限による解決
2つ目は一番安くていいものを作る人が、勝ち残る ⇒ 市場による解決
3つ目はそれぞれが良くなるようなもの ⇒ コミュニティによる解決(自分だけ儲かるのではなくて、皆が儲かればいいでしょ。)

これはつまり、「民主社会は、民主的に決めるか、経済で決めるか、権力で決めるか。」があるということであるが、アローは「民主的解決では、社会の解決にはならない。」ということを証明したらしい。


例えばここに、プレイヤーが3人(いちろー、まつい、いわむら)いる。彼らはそれぞれA,B,Cの中から、自分は「何よりも何が好ましい」と主張し合っており、多数決で物事を決めようとしている。


いちろー
B<A ●
C<B ▲
C<A

まつい
C<B ▲
A<C ■
A<B

いわむら
A<C ■
B<A ●
B<C


彼らがこう主張したとき、多数決で選ぶならば、

B<A
A<C
C<B

という順序になり、多数決だけでは決まらないことが分かる。


「囚人のジレンマ」は現在の社会決定のモデルと言われるが、囚人のジレンマを見ても、上記の多数決の結果を見ても、個人がそれぞれ自分の「合理的選択」をしただけでの「民主的な決定」では、問題の解決には至らない。


その中で、既存のジレンマなり問題を乗り越える考え方として必要になってくるのが、「弱さ」であると先生は言われる。

今までの社会は「強さ」が問題解決の役割を担ってきた。「強さ」とはいわゆる既存の権力や高い地位を持つ存在で、それらによる「合理的選択」や「権力による意思決定」は正しいものとされ、彼らの「個人レベル」での問題解決が優先されてきた。しかし、その結果「社会レベル」で様々な問題が顕在化してきている。つまり、現代では強い力だけでは問題は解決しなくなってきた。

今後の社会には、「強さからの視点」では価値がないと思われていたことに対して、価値を見出せる「弱さからの視点」が必要になってくるのではないか。「弱さ」とは今までの社会構造の中では低い力でしかなかった存在であるが、今後の社会では「強さ」だけでは解決できなかった問題を、「弱さ」視点から捉えて物事に価値を見出し、問題解決に迫ることが必要とされるのではないか。つまり、価値観・考え方のパラダイムシフトを起こすということである。そうすれば、今まで低い地位でしかなかった存在が価値を持ち始めてくるわけだから、社会全体の価値が上がってくる。

そしてこの弱い存在からの自発的な力が、経済システム・合理性に関与するのが、社会起業・ソーシャルイノベーションだと言えるのではないか。これが、今回の話が言わんとしているところでした。


今までは弱いと思われていた存在から、社会に価値を生み出す。非合理的な選択だったことを合理的な選択にして、価値がなかったものから価値が生まれれば、社会が良くなる。というわけでした。



ノートまとめただけなんだけど、すごく疲れた・・・・。



金子先生の「理性」と「弱さ」のジャンプという論文を読んだ。この論文では前の記事で書いた「合理性」が、「最も大切になれない理由」と、今後の社会における「弱さの強さ」について書かれている。読んだ後には、「既存の枠組みを変える原動力」をこのブログも担っているんじゃないかと勝手に思っていた(笑)


ここで主に言われているのは、
・合理性に基づいた判断だけでは、結果として不利益を招く
→共有地のジレンマ
・それを乗り越えるには、進化的ゲームの理論
→合理的で最適化するプレーヤーから、学習し文化を継承することである種の望ましさを作りだすプレーヤーが、結果的には安定性と言う見地から最適になる
・ベイトソンの学習による変化についての階層モデル
→サイモンが定義した「合理性」を前提とするモデルの限界を示す
→固定化した選択肢の中での行動から、枠を変更し、新しい関係性を形成し、選択肢を創造していくという行動
・弱さの思想
→社会が「弱さの強さ」を必要としている

ということだった。良かったら読んでみてください。
『共に生きる』(岩波新・哲学講義6)


研究会の授業では、考えることの基礎として「合理的思考」を教わった。しかし、それだけではいけないと先生は述べていたが、その理由は「合理的選択に突き進んでいると、最後には不利益な結果を招く」ということがあるからだとこれを読んでわかった。

サイモンの合理的行動によると、大切なのは「選択肢の集合があって、それを選択する基準が設けられていて、基準に沿って最も望ましい選択肢を選ぶ」というものであった。しかし、「それだけでは悲劇・ジレンマに陥ってしまうよ」というのが今回の話。


ここで例として挙げられていたのは「共有地の悲劇」という話。1968年にギャレット・ハーディンが雑誌「サイエンス」で提示したものだそう。これ結構面白い。引用。

中世のある村では、牧草地が入会地として村人全員で共有され、全員に解放されていた。そのために、羊飼いの中には、自分の羊を何匹もそこに連れてきて牧草を食べさせようとするものが出てくるかもしれない。そのような不心得者が一人出てくると、他の羊飼いも競って自分の羊をたくさん連れてきてそこで牧草をたらふく食べさせるようになり、結果として、みなの財産である共有地は丸坊主になり、荒れ果ててしまうことになる。

これが合理的選択が行きすぎたところによる悲劇であるわけです。ここでの選択肢の集合とは「何匹羊を連れてくるか」ということであったが、「一番自分にメリットがある」という基準で選択すると、「自分が持っている全ての羊を連れてくる」という選択が最も望ましいものになる。しかし、皆が皆合理的な選択をした結果、共有地が丸坊主になって、そしたら食べ物が無くなった羊はたぶん死んでしまうので、皆大損する羽目になる。これではいけない。


この悲劇を乗り越える上で大事になってくるのが、「進化的ゲーム」なる考え方だそうだ。詳細はいろいろ調べてもらうとして、この考え方のポイントは、「無限に続くんですよ」ということを学習すること。

つまり、「共有地に羊を何匹連れてくるか」という選択肢を持った時、基準が「一番"自分"にメリットがある」ということでは、他人に劣らないようにとせっせと羊を連れてくることになる。しかし、この基準を「"無限に"一番自分にメリットがある」という風にすると、ただ羊をせっせと連れてくるだけではダメになる。共有地が丸坊主になってしまうから。ここを大切にすると、ただ自分の利益のみを確保するのではなく、「みんなで一番になりましょうね」という「(自分にメリットが続くために共有地を丸坊主にしないための)協力関係」が生まれる。この「協力」は時に合理的ではない選択をさせることになる。また、共有地の状態や村人の状態が変わるごとに、選択肢の集合や基準が変わるかもしれない。それを学習しながら様々な変化を受け入れて選択していけてこそ、合理性を超えることができるようになるのだそうだ。


現実の話としても、昔のようにただ「経済成長」を目標に行動している社会では、選択肢の集合など、枠組みを変えることは考えなくてよかった。共有地が丸坊主になってしまうのであれば、別の共有地を見つければよかった。しかし様々な問題が顕在化している今の社会(共有地が無くなってしまった社会)では、柔軟な枠組みや関係性の変更などが求められる。その中で、現実的にそういった既存の枠組みを変える力を持っているものが、「弱さ」であると金子先生は言われている。


ここで言う「弱さ」とは何か?これは文字通り、既存の枠組みの中で「価値がない」と思われているものや「下の地位」にいるものである。しかし、「絶対的に価値が低い」というものではない。

僕もまだあまり理解できていないかもしれないが、このブログを書いている僕などは「弱さ」に当たるんじゃないかと思う。ここでは、全く専門家でも何でもない一学生が、「合理的行動」やら何やらを書いている。情報というのは他人に見られ、意見を言ってもらって初めて価値を得るものになるそうだが、かといって情報をせっせと出すと批判を受けたり、文句を言われたり、責任を取らされたりするという弱い状況に立たされる可能性が出てくる。僕の場合、もっと良く理解した人に比べたら、間違ったことを述べているかもしれない。じゃあ弱い状況でいないためにはどうすればいいかというと、一生懸命勉強して物事を完璧に理解して、他人からの意見にも対応できる「強い状況」を持ってから、情報を発信すればいい。既存の社会ではこのような「強さ」と「強さ」の競争が基本であった。しかし、それではいけないし、今後の社会はそういうものでもない。


どういうことかというと、「弱い立場からの主張でいいのである」。これはなぜか?「無限に続く中では」、枠組みや選択肢の集合や基準が変わっていくからである。つまり、弱いところからの主張が、強くなる大転換が起こるかもしれない、ここでいう知識がほとんどない僕の主張が、意外なところで意外な発見や価値を見出すかもしれないからである。

また先生は「関係を変更し、従来の問題の捉え方の枠組みを変えようとするとき、その試みはいつでも必然的に、「弱い」のである。」とも言っている。既存の枠組みに入っていない何かを主張するときには、必ず弱い立場から始まる。でも、それが当たり前なのである。


論文の中で例としてすごい話が挙げられていた。ライフケアシステムという会員制の在宅ケア支援システムの会員の末期がん患者の話なのだが、この患者は末期がんの痛みを和らげる方法として、痛みだすと「タバコを一服してリラックスし、妻に入れてもらったコーヒーをすすってしのぐ」という方法を編み出したのだそうだ。彼は医者からもらった鎮痛剤を使わずに、この方法だけで乗り切った。僕は叔父をがんで亡くしたが、末期がんの痛みは相当なものだと聞いている。それを、医者からは絶対に勧めることはできない方法で、乗り切った。

この場合の「強いもの」は医者で、「弱いもの」は患者だということはすぐに分かる。そして問題解決をするのは、通常は「強いもの」と考えられがちである。しかし、この患者は「弱い立場」から、問題解決の方法を提示した。彼にとってこの方法は、医者の勧める鎮痛剤より効果があったのだろう。この例は「弱い立場」からでも、その視点から問題解決の方法が提示できることを示している。


「弱い立場」にいる人は、その既存の構造の中では弱くても、その主張によって新しい構造を作り上げる可能性を持っている。つまり、社会変革の可能性を持っているということ。また僕が思うのは、個人個人の経験知というのは、その人の人生背景でしか培えないものであるから、その視点からの主張というのは全て独特で、新しいもののはず。だから例え自分が「弱い立場」にいても(もちろん「強い立場」にいても)、自分視点からの主張や発信を自発的に行うことは決して間違いにはなり得ないし、むしろ新しい発見や価値を生み出す可能性がある。また主張に対して他人がまたその人の自分視点から意見をくれたときに、その捉え方の違いに気づき、より多様な視点から問題が捉えられ、一つ広範の価値が生まれるんじゃないかと思う。


色々考えることはあったけど、一学生がブログに一生懸命自分を反映させることもまた、弱い立場から社会の枠組みを変える一手を担っているのかなと思った。ふー、頑張って書いたわ~。


2008/10/25
「理性」と「弱さ」のジャンプを研究会で輪読・分析しました →それに関して書いた記事はこちら



今期から、金子郁容という先生の研究会に入った。


研究会での、自分を含めた新規履修生の最初のテーマは、「合理的に考える・伝えること」。

「別に合理的に考えることが人生において最も大切なことはではない」と金子先生は言う。僕もそう思う。しかし、相手に何かを伝えるという点においては、「合理的に考え、合理的に伝える」ということは非常に重要な意味を持つ。なぜなら相手に「自分の思考と同じ経路をたどらせることができるから」であり、それは相手が「分かる伝え方」をすることにつながるからである。(相手を説得するということではないですね。むしろ相手が反論しやすくなる。自分がどういう風に考えてこういう結論を出したということが分かるから。)


研究会で行ったのは、ハーバート・サイモン提唱による「合理的行動」を理解すること。
ハーバート・サイモン

合理的行動とはすなわち

①その中から一つを選ぶ選択肢の集合が与えられている
②選択の基準が与えられている(一番利潤が高いもの、一番社会的なもの、サイコロ振って決めるなどなど)
③②で決めた基準にそって最も望ましい選択肢を選ぶ

という順序で行われる行動のことを指す。

最初は「なるほど。このステップを踏んで説明すれば、合理的に伝えられるのね。」と軽く考えていた。ただ、ステップを踏んでみて驚いた。自分の日常の思考がいかに(サイモンの言うところでの)合理的でないかを知ることになった。


まず①の「選択肢の集合」というものが難しい。この選択肢とは、「同じレベルのものでなければいけない」というルールが必要になるからだ。

この同じレベルとは、それぞれの選択肢が位置する「階層」とも言えるかもしれない。昨日は社会の話だったので、社会について例を挙げるとすると、

国・地方自治体・民間企業・NPO法人・財団法人・hayashi kenji

という選択肢があったとすると、これらは同じレベルに入るだろうか?という話。

これは入らない。なぜなら、

一人一人が決めることと、組織が決めることは違う
民間が決めることと、国が決めることは違う
国が決めることと、世界が決めることは違う

などなど、それぞれの選択肢が行えることや発することができる影響力が違うので、同じ土俵(レベル)で比較してしまっては混同してしまうからである。

この場合では、

国>民間>NPO>個人

と、選択肢は違うレベルにあることを理解しておく必要があるとのこと。


研究会には日本の高校生を対象に研究を行っている学生がいるが、彼女の研究の場合、合理的に自分の研究対象を説明するには、選択肢の集合は、

Ⅰ北海道から沖縄まで、全ての高校生を対象にする

Ⅱその中で、東京都の公立・私立の高校生を対象にする

Ⅲその中で、私立の高校の男子校・女子校・共学を対象にする

Ⅳその中で、男子校を対象にする

というように①から④まで選択肢の集合のレベルを下げていくことができる。このようにすれば、彼女が「東京都の私立の高校生の男子を対象にした研究」を行っていることが分かりやすい。


さて、ここからが一番難しいところになる。合理的な行動を行うためには、「②選択の基準が与えられている」必要があるのだそうだ。つまり上記の例の場合、

Ⅱでは、1都1道2府43県がある中で、なぜ東京都を選んだのか。選択の基準は?
Ⅲでは、東京都の公立・私立の中で、なぜ私立を選んだのか。選択の基準は?
Ⅳでは、男子校・女子校・共学がある中で、なぜ男子校を選んだのか。選択の基準は?

となっていく。ここで選択の基準が明確であれば、一番基準に沿って好ましいものが選ばれていた場合はそれが「合理的な行動」であることが分かるし、基準に沿って好ましいものでない場合は、それは「合理的でない行動」であることが分かる。


この考え方を、良く世間で行われている行動を観察することに用いてみる。例えば、「貧困をなくそう!」とすること。この方法として、「食糧を送る」という選択肢があるとする。しかし、この行動には数多くのレベルがあることが分かるだろうか。

食料を送る → 「政府」が、政府に送る
食料を送る → 「NPO団体」が、NPO団体に送る
食料を送る → 「個人」が、NGOに送る

などなど。つまり「貧困をなくそう!」と思った時に、「食糧を送る」という選択肢があったとしても、合理的行動に起こすには「どのレベルが、どのレベルに送るか」ということを考える必要があるということになる。またその中で、レベルを決めたなら「食料を送る」という選択肢の他にどんな選択肢が、そのレベルにはあるかを考える。様々な選択肢を用意したなら、ある「基準」を設けた上でその選択肢を観察し、その基準を最も満たす最善なものを選ぶ。そうすると、それは「合理的な判断に基づく行動」になるわけですね。


これを書いている現在、正直よくわかったようなわからないようなです。この考えをいかに応用して物事を観察して捉えていくか。それが大事になるようなのだが、今はまだ何とも言えない。また、認識の間違いがあったら、ご教授いただければ幸いです。


ちなみに金子先生曰く、ソーシャルイノベーションとは、「先ほどの「貧困をなくそう」の中の選択肢に、「今はない仕事を作ろう!」などと、普通には出てこない選択肢を用意すること」だそう。イノベーションには自由な発想がつきものであるし、枠を取っ払った考え方が必要になる。それではまず、枠を作って考えてみる。そういったアプローチの仕方も、イノベーションを起こす上では必要だということでした。



先日のSIJイベントの席で、デザインジャーナリストの兼松佳宏氏のお話を伺った。

兼松さんは、日本一エコスゴイサイト「Greenz.jp」を運営されている傍ら、自身でもデザイナーとして活動されている方。
whynotnotice inc.
greenz.jp


兼松さんの考え方で「これ、自分に取り入れよう!」と思った考え方がある。
「一石n鳥」を軸に考える考え方。ここでは「一石n鳥思考」と呼ぼう。

一石n鳥思考は、一石二鳥のごとく、一つの行動がどれだけの連鎖を生み出すかを考える考え方。兼松さんはとても魅力的なイノベーションを起こした活動をこの考え方で紹介してくれたが、魅力的なイノベーションほど一石五鳥にも六鳥にもなっていることがよく分かる。


例えば、Play Pumpという南アフリカにある遊び道具。これは子供が遊ぶエネルギーを、労働力にできないかという発想から生まれたユニークな発明品であるが、このPlay Pumpの存在はこれだけでなんと六つの利益を生み出している、つまり一石六鳥にもなる道具だという。



下記、greenz.jpの中で述べているPlay Pumpの有益な点である。
プレイ・ポンプを設置するメリットは次のようなことが考えられる。
- 水がきれいなため病気になる人が減る
- 水運びに時間をかけずに済むため、女の子も労働から解放され男の子と同じ時間学校に通える
- 比較的低コスト(75万円程度)で2500人規模のコミュニティーに水を提供できる
- 水をためるタンクにはエイズ防止のメッセージが掲げられ、子どもたちにとって教育になる
- ポンプを設置・維持するのは訓練を受けた地元住民。地元の雇用機会が増える
- コミュニティーの中心や学校の近くに設置されるので、学校帰りの子どもが遊ぶ機会が多い。そして何よりも子どもたちが楽しそうだ!
(greenz.jpより抜粋→掲載記事へ)

兼松さんは何かプロジェクトを始めるとき、「これは一石n鳥になっているか」と考えるそうだ。もし自分の活動が「n石一鳥」になってしまっていたら、それはどこか効率が悪い状態で続けているか、意味のないことを行ってしまっている可能性がある。「だったら辞めよう」という判断軸にもなると言う。


何かを行うことというのは、大体は一つの目的を達成するために、それに向かって行われる。もちろんそこから外れることになってしまっては本末転倒ではあるが、その目的に向かいつつ、付属的に何か他のいい影響や結果が生まれないかと考えること。これが「一石n鳥」の考え方になる。目標を見失わずにその他を考えられるということは、それは広い視野で物事を捉えられているということになる。

僕なんかは目標達成のために、とても非効率に動いてしまう人間である。その中でこの「一石n鳥の視野」で物事を見るということは、それだけで僕のヒントになりそうだ。参考にして行動してみよう。(greenzのサイトにはいろいろな一石n鳥思考の参考になる情報がある。興味があれば、ぜひ見てみてください。)



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/KO大学4年
  • theme/自分のために、他人を幸せにする
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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