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9月14日(月)~23日(水)まで、東京都永田町から福島県会津美里町まで、電気自動車で旅することになっています。
このプロジェクトは、「主流が移りゆく時代の中で、若い力の真剣な取り組みがどれだけの影響を与えられるかを見てみよう」ということで電気自動車を3台お借りできることになったことがきっかけで始まりました。
9月は白馬村の民宿を再生するプロジェクトでも忙しくなりそうです。とりあえず今週末は、また会津に行ってきます。
今年も例年の如く、暑いですな。夏バテには気をつけて頑張ります。
このプロジェクトは、「主流が移りゆく時代の中で、若い力の真剣な取り組みがどれだけの影響を与えられるかを見てみよう」ということで電気自動車を3台お借りできることになったことがきっかけで始まりました。
9月は白馬村の民宿を再生するプロジェクトでも忙しくなりそうです。とりあえず今週末は、また会津に行ってきます。
今年も例年の如く、暑いですな。夏バテには気をつけて頑張ります。
まさか23歳の誕生日を、マンガ喫茶で迎えるとは笑
早いもので、もう23歳になりました。今年の4月18日は、会津で過ごすことになりました。
近頃一年生の後輩と話をしていると、熱弁する自分の話が「難しい」ことに気がつく。
これはいい面もあり、悪い面もあるということですな。
「難しい話を分かりやすく話せない人には、本以上の価値はない」
という言葉を、どこかで読みました。
理解が足りていないということですね。それは非常に感じる。
4月25~26日に、また会津ツアーを企画しています。
今度のツアーは、「作り手の想いに触れる」がコンセプト。
良い企画にします。
早いもので、もう23歳になりました。今年の4月18日は、会津で過ごすことになりました。
近頃一年生の後輩と話をしていると、熱弁する自分の話が「難しい」ことに気がつく。
これはいい面もあり、悪い面もあるということですな。
「難しい話を分かりやすく話せない人には、本以上の価値はない」
という言葉を、どこかで読みました。
理解が足りていないということですね。それは非常に感じる。
4月25~26日に、また会津ツアーを企画しています。
今度のツアーは、「作り手の想いに触れる」がコンセプト。
良い企画にします。
近頃会津に出入りすることが多い。それなのに会津の歴史を全く知らないのもおかしいし、そもそも僕は日本史に疎いので「せっかくなので勉強しよう」と思ってちらほら読んでみたりしてます。
今大河ドラマで「直江兼続」がやっていますね。直江兼続は今の鶴ヶ城を見て、「この場所では都合(攻められてきたときに弱い)が悪い」などして、戦術的に優れた場所に城を移そうとしたのだとか。徳川との関係から計画は流れたそうですが。
会津でツアーの打ち合わせをしていたとき、会津藩校日新館の仮名さんに「直江兼続流行ってますね~。会津もそこら中で『天地人』ですね」と話を振ってみると、「会津は領主が次々に変わった土地だった。兼続が仕えた上杉景勝もそうだったし、蒲生氏郷もいる。伊達正宗も少しの間そうだった。ただ、その中でも名君といえば、保科正之だろうね。」と言われた。何でも玉川上水の開削をしたり、江戸城が燃えた後に、江戸城を「作らせなかった」人なのだそうだ。
「すごい人なんだろうな」と思って話を聞いて、帰りに駅前の本屋に入ってみると、「保科正之」の本が目に止まった。縁だと思って買って読んでみたわけです。
→中村彰彦著『保科正之』/中公文庫(2006/5)
この保科正之という人は、二代目将軍徳川秀忠と世話人との間に生まれた人で、嫉妬深い大奥正室の目を逃れるようにして、武田信玄の娘に育てられ、高遠藩主保科正光の養子として預けられて育つという、稀有な経歴を持つ人。後年には三代目将軍家光から「徳川」姓、もしくは一門の姓である「松平」を名乗るよう言われるものの、養父正光への終生の義理立てから断り続けたという。その恩義に報いようとする姿勢や正直な人柄から、三代目将軍家光に信頼され、家光没後は幼かった四代目家綱の後見人になった。
彼は民に非常に目を向けた人であったそうで、「江戸の飲み水が足りない」という問題を解決するため、「江戸の堅牢性が下がる」とわめく幕臣達をしずめながら、玉川上水の開削を行った。また、「明暦の大火」といわれる大火事にて焼け落ちた江戸城も、立て直そうという幕臣に対し、「軍用に大きな利点があったということは聞かないし、ただ町を見下ろすものとして使うだけであるのなら、そこに大きな労力とお金を費やす必要はない。それよりも燃えてしまった町の復旧に力を入れるべきだろう」ということでその意見を退け、結局立て直さなかった。
また、会津藩の藩政においては、「会津藩家訓」を定めたり、「社倉」と呼ばれる「飢饉のときなどに貧民を救うための米貯蔵庫」を作ったりした。この社倉米は無利息で借り受けられたり、利息がついた場合でも2、3年は支払いを待ってもらえたりしたそう。天候に左右されてしまう農作物を扱う上で、こうした制度を作ってくれることは、農民にとっても有難いことだったと思う。
この時代の人について目を向けると、忠孝・恩義といったことにとても誠実だなということを、改めて感じる。今の時代とは大きく違う文化・習慣が、当然としてあった時代。もちろん読んでいて「美化されすぎだろ?」と思ったり、「この時代に生まれないでよかった」と思う点もあったけど、「こういうリーダーの下のこういう文化もいいなあ」と思う点もあった。
当たり前のことだけど、今僕らが当然のこととして考え、当然として親しむ文化も、昔から考えれば「異文化」だし、当然未来から考えても「異文化」になるわけだよなあ。そしたら未来を作っていくとは、すなわち「文化」を作っていくことになるわけで、「未来の担い手」とは「今の文化を過去の文化にできる人」を指すわけか。どんな文化にするかは、未来の担い手次第。
だったら、常に「対応」しているだけでなく、「創造」する側でいたいよなあ。
余談だけど、保科正之は「殉死」を禁止させる法律を早い段階で作った人らしい。殉死とは藩主が死んだらそれを追いかけて死ぬこと。当時はそれが普通に行われていた。
そうしたときって、「ああ、オレこいつのために死にたくないなあ」と思って死ぬ家臣はいたのだろうか。それとも皆、「いつ何時も、この方の供でいたいのだ!!」という気概で死んでいくのだろうか。そこを知りたい!!!って強く思った(笑)
今の時代に殉死を行えるぐらいの関係は、どれくらいあるだろうね。
今大河ドラマで「直江兼続」がやっていますね。直江兼続は今の鶴ヶ城を見て、「この場所では都合(攻められてきたときに弱い)が悪い」などして、戦術的に優れた場所に城を移そうとしたのだとか。徳川との関係から計画は流れたそうですが。
会津でツアーの打ち合わせをしていたとき、会津藩校日新館の仮名さんに「直江兼続流行ってますね~。会津もそこら中で『天地人』ですね」と話を振ってみると、「会津は領主が次々に変わった土地だった。兼続が仕えた上杉景勝もそうだったし、蒲生氏郷もいる。伊達正宗も少しの間そうだった。ただ、その中でも名君といえば、保科正之だろうね。」と言われた。何でも玉川上水の開削をしたり、江戸城が燃えた後に、江戸城を「作らせなかった」人なのだそうだ。
「すごい人なんだろうな」と思って話を聞いて、帰りに駅前の本屋に入ってみると、「保科正之」の本が目に止まった。縁だと思って買って読んでみたわけです。
→中村彰彦著『保科正之』/中公文庫(2006/5)
この保科正之という人は、二代目将軍徳川秀忠と世話人との間に生まれた人で、嫉妬深い大奥正室の目を逃れるようにして、武田信玄の娘に育てられ、高遠藩主保科正光の養子として預けられて育つという、稀有な経歴を持つ人。後年には三代目将軍家光から「徳川」姓、もしくは一門の姓である「松平」を名乗るよう言われるものの、養父正光への終生の義理立てから断り続けたという。その恩義に報いようとする姿勢や正直な人柄から、三代目将軍家光に信頼され、家光没後は幼かった四代目家綱の後見人になった。
彼は民に非常に目を向けた人であったそうで、「江戸の飲み水が足りない」という問題を解決するため、「江戸の堅牢性が下がる」とわめく幕臣達をしずめながら、玉川上水の開削を行った。また、「明暦の大火」といわれる大火事にて焼け落ちた江戸城も、立て直そうという幕臣に対し、「軍用に大きな利点があったということは聞かないし、ただ町を見下ろすものとして使うだけであるのなら、そこに大きな労力とお金を費やす必要はない。それよりも燃えてしまった町の復旧に力を入れるべきだろう」ということでその意見を退け、結局立て直さなかった。
また、会津藩の藩政においては、「会津藩家訓」を定めたり、「社倉」と呼ばれる「飢饉のときなどに貧民を救うための米貯蔵庫」を作ったりした。この社倉米は無利息で借り受けられたり、利息がついた場合でも2、3年は支払いを待ってもらえたりしたそう。天候に左右されてしまう農作物を扱う上で、こうした制度を作ってくれることは、農民にとっても有難いことだったと思う。
この時代の人について目を向けると、忠孝・恩義といったことにとても誠実だなということを、改めて感じる。今の時代とは大きく違う文化・習慣が、当然としてあった時代。もちろん読んでいて「美化されすぎだろ?」と思ったり、「この時代に生まれないでよかった」と思う点もあったけど、「こういうリーダーの下のこういう文化もいいなあ」と思う点もあった。
当たり前のことだけど、今僕らが当然のこととして考え、当然として親しむ文化も、昔から考えれば「異文化」だし、当然未来から考えても「異文化」になるわけだよなあ。そしたら未来を作っていくとは、すなわち「文化」を作っていくことになるわけで、「未来の担い手」とは「今の文化を過去の文化にできる人」を指すわけか。どんな文化にするかは、未来の担い手次第。
だったら、常に「対応」しているだけでなく、「創造」する側でいたいよなあ。
余談だけど、保科正之は「殉死」を禁止させる法律を早い段階で作った人らしい。殉死とは藩主が死んだらそれを追いかけて死ぬこと。当時はそれが普通に行われていた。
そうしたときって、「ああ、オレこいつのために死にたくないなあ」と思って死ぬ家臣はいたのだろうか。それとも皆、「いつ何時も、この方の供でいたいのだ!!」という気概で死んでいくのだろうか。そこを知りたい!!!って強く思った(笑)
今の時代に殉死を行えるぐらいの関係は、どれくらいあるだろうね。
僕の2009年特大イベント第二弾(第一弾はドレイトン氏との対談)であった「Aizツアー09春」がひとまず終わった。素晴らしいものになった。同時に初めてのツアー企画を終えて、ホッとしている。
このツアーは2月27日から3月1日の2泊3日で会津を訪問するものであったが、僕と細田、浅見の3人は25日から会津に入っており、26日には会津若松の市長とお会いした。市長のブログにも掲載され、それを見た福島テレビが取材に来たりしてました。
→会津若松市長 かんけ一郎のブログ
今回のツアーは、首都圏の学生27人で、主に僕が雑誌「realiZe」を通して見つけた『会津の魅力』を訪問するというものだった。僕らが会津を訪問し、僕らが「東京の若者の代表」となって、僕らの視点で見て、良いと感じる会津の良さを組立てて、ツアーにしました。
僕から見た会津の魅力は、「人」と「土地」にあります。友人に「ゲニウス・ロキ」という概念を教えてもらったが、まさに会津には精霊とまでは言わないまでも、何かが間違いなくある土地だと思う。
「会津の土地は、人の心に刺激を与える。会津の人は、人の生き方に変化を与える。」
僕の会津の魅力とは、こんな感じのイメージでした。このツアーでは、「この感覚を参加者に感じてほしい。感じてくれたら成功だ。」と思い、準備をしてきました。
ツアーを終えた今、自信を持って言えることは、「ツアーは成功した」ということです。
何より嬉しい。自分の組んだ最初のツアーは、本当に意味のあるものになりました。
これで、「会津の魅力は、「人」と「土地」にあるんだ」と、自信を持って言えるようになりました。
現在、ツアーを振り返ってまとめを行っています。近々ホームページに写真やツアーの詳細をアップします。少し「やり切った感」による脱力症候群が発生していますが、気持ちを切り替えないと。
でもよくやった!!!!!!嬉しい!!
このツアーは2月27日から3月1日の2泊3日で会津を訪問するものであったが、僕と細田、浅見の3人は25日から会津に入っており、26日には会津若松の市長とお会いした。市長のブログにも掲載され、それを見た福島テレビが取材に来たりしてました。
→会津若松市長 かんけ一郎のブログ
今回のツアーは、首都圏の学生27人で、主に僕が雑誌「realiZe」を通して見つけた『会津の魅力』を訪問するというものだった。僕らが会津を訪問し、僕らが「東京の若者の代表」となって、僕らの視点で見て、良いと感じる会津の良さを組立てて、ツアーにしました。
僕から見た会津の魅力は、「人」と「土地」にあります。友人に「ゲニウス・ロキ」という概念を教えてもらったが、まさに会津には精霊とまでは言わないまでも、何かが間違いなくある土地だと思う。
「会津の土地は、人の心に刺激を与える。会津の人は、人の生き方に変化を与える。」
僕の会津の魅力とは、こんな感じのイメージでした。このツアーでは、「この感覚を参加者に感じてほしい。感じてくれたら成功だ。」と思い、準備をしてきました。
ツアーを終えた今、自信を持って言えることは、「ツアーは成功した」ということです。
何より嬉しい。自分の組んだ最初のツアーは、本当に意味のあるものになりました。
これで、「会津の魅力は、「人」と「土地」にあるんだ」と、自信を持って言えるようになりました。
現在、ツアーを振り返ってまとめを行っています。近々ホームページに写真やツアーの詳細をアップします。少し「やり切った感」による脱力症候群が発生していますが、気持ちを切り替えないと。
でもよくやった!!!!!!嬉しい!!
怒涛の日々が続く今日この頃。充実していて何よりです。
現在僕は、「DANNA project」なるプロジェクトに取り組んでいる。

⇒DANNA projectウェブサイト
昨年夏から会津に訪問する機会があったのだが、その訪問もそのプロジェクトの活動に基づくものだった。
DANNA projectの見ているものは、若者が自分の志に向かって活動できるよう、支援すること。
その支援してくれる人を「DANNA」と呼び、その支援してくれる人が集える場を用意するのが、DANNA projectの活動と言える。
と、まあ根底にあることはこのようなことだとして、僕もまだまだ若いし、自分がプレイヤーとしていられる時期ではあるので、自分が志に向かって挑戦する若者として色々取り組んでいきたい。
ちなみにこのプロジェクトの中で、会津の地域振興に取り組む機会があった。昨夏の活動がそれだった。そのアウトプットとして、地域振興紙を作りました。ヒマだったら見てみてください。
⇒会津地域振興紙「realiZe」(pdf)
その地域振興紙を配布したところ反響が良く、「会津に行きたい!」との声をたくさんいただいたので、会津ツアーを企画することにしました。初めてのツアー企画なもので、「旅行代理店の業務も大変なんだな~」と思いながら準備してます。少し焦燥感に追われてますが、楽しく乗り切りたいと思う。
現在僕は、「DANNA project」なるプロジェクトに取り組んでいる。

⇒DANNA projectウェブサイト
昨年夏から会津に訪問する機会があったのだが、その訪問もそのプロジェクトの活動に基づくものだった。
DANNA projectの見ているものは、若者が自分の志に向かって活動できるよう、支援すること。
その支援してくれる人を「DANNA」と呼び、その支援してくれる人が集える場を用意するのが、DANNA projectの活動と言える。
と、まあ根底にあることはこのようなことだとして、僕もまだまだ若いし、自分がプレイヤーとしていられる時期ではあるので、自分が志に向かって挑戦する若者として色々取り組んでいきたい。
ちなみにこのプロジェクトの中で、会津の地域振興に取り組む機会があった。昨夏の活動がそれだった。そのアウトプットとして、地域振興紙を作りました。ヒマだったら見てみてください。
⇒会津地域振興紙「realiZe」(pdf)
その地域振興紙を配布したところ反響が良く、「会津に行きたい!」との声をたくさんいただいたので、会津ツアーを企画することにしました。初めてのツアー企画なもので、「旅行代理店の業務も大変なんだな~」と思いながら準備してます。少し焦燥感に追われてますが、楽しく乗り切りたいと思う。
今日、大学でアショカのビル・ドレイトン氏とのインターネット対談を行った。
(このネット対談について書いた記事→「社会起業家の父と何話そうか。」)
自分にとって非常に意義深い対談であった。ドレイトン氏が大学のテレビに映った時には、非常に興奮した。
「こういう話がある」と先生方に持ってきていただいてから3か月。いろいろ大変なこともあったけれど、
2009年1月20日、アメリカと日本をインターネットでつないで、一つのテーマについて話し合うことができたことは、自分にとっても感慨深いことであるし、何より自信になった。
このネット対談の中で、僕はドレイトン氏にプレゼンテーションをする機会を得た。
そこで僕は、会津で行っている地域振興プロジェクトについて話をした。
その中でテーマとして掲げたのは、「自分に志を持つ」ということ。
僕は会津という地域の振興プロジェクトに携わって、「自分の志を持つということの重要性」に気づいた。そこでは、志を持つことが自分の人生を豊かにすることだと気づかされた。「自分が何のために生きているのか」なんて問いには、結局自分の決断以外は答えられないということなんですね。
その中でとても面白いことが起きた。僕がドレイトン氏に話をしたのは、「昔の武士は、15才で志を立てることを求められていた。今の日本人にも、志を立てるということは求められることだと思う。」ということだった。
(志に関して書いた記事→「志を立てるということ(会津の教え四)」)
この意見に対して、ドレイトン氏は「私もそう思う。」と同意をした上で、「15歳という年齢で志を立てるということは非常に重要で、武士はとても良い習慣を持っていた」と話されていた。
ドレイトン氏が「自分の志」として世界中に広めようとしていることが、「チェンジメーカー」という生き方である。これは、「現在社会が抱える問題を変えていく行動を起こす人になる生き方」である。これは何も「社会を変えるために起業したり、NPOに参加したりしなければならない」ということではなく、「自分の日々の生活を振り返り、その生活の一部と社会のどれかの問題をつなぎ合わせて、その問題を解決に導くような行動を起こしていこう」というもの。このチェンジメーカーという言葉は世界に広がってきているし、今日の対談でも何度もドレイトン氏から「チェンジメーカー」という言葉を聞いたが、この「チェンジメーカー」になるには、「志」が必要であり、人に志を持たせるには、「15歳」という年齢が重要であるそうだ。
その後対談が続き、ディスカッションなどが続く中でも、「15歳という年齢の時に、人生についてを考えさせたり、志について考えさせることは非常に重要」ということを何度も言われた。
「15歳で志を立てさせる」という「立志式」は、世界や時代を超えても、支持されるものなのかと驚いた。この立志式という文化はいつ始まったのかは知らないが、文化として引き継がれ、後世に残されていくものは、途中で淘汰されるプロセスを経て残るのだから、無駄なモノはないのかもなあと思った。そう考えると、「文化から学ぶこと」もまた、大きな意味を持つことになるのだろうな。
ドレイトン氏とのセッションは、映像で録画しました。編集してアップしたいと思っていますので、その時にはまた、記したいと思う。
追記
チームドレイトンの事実上のリーダー、チャックが、ブログにセッション当日の様子をアップしてくれました!→1月20日 ドレイトンさんとのセッション当日
▼LINK-----
ドレイトン氏とネット対談するプロジェクトの中心チーム、「チームドレイトン」のblogです。このblogで、ミーティングで話し合ってきた議論や今後のプロジェクトの最新情報をアップしていきます。
→Everyone A Changemaker
アショカの公式ウェブサイトです。
→ASHOKA Innovators for the Public
(このネット対談について書いた記事→「社会起業家の父と何話そうか。」)
自分にとって非常に意義深い対談であった。ドレイトン氏が大学のテレビに映った時には、非常に興奮した。
「こういう話がある」と先生方に持ってきていただいてから3か月。いろいろ大変なこともあったけれど、
2009年1月20日、アメリカと日本をインターネットでつないで、一つのテーマについて話し合うことができたことは、自分にとっても感慨深いことであるし、何より自信になった。
このネット対談の中で、僕はドレイトン氏にプレゼンテーションをする機会を得た。
そこで僕は、会津で行っている地域振興プロジェクトについて話をした。
その中でテーマとして掲げたのは、「自分に志を持つ」ということ。
僕は会津という地域の振興プロジェクトに携わって、「自分の志を持つということの重要性」に気づいた。そこでは、志を持つことが自分の人生を豊かにすることだと気づかされた。「自分が何のために生きているのか」なんて問いには、結局自分の決断以外は答えられないということなんですね。
その中でとても面白いことが起きた。僕がドレイトン氏に話をしたのは、「昔の武士は、15才で志を立てることを求められていた。今の日本人にも、志を立てるということは求められることだと思う。」ということだった。
(志に関して書いた記事→「志を立てるということ(会津の教え四)」)
この意見に対して、ドレイトン氏は「私もそう思う。」と同意をした上で、「15歳という年齢で志を立てるということは非常に重要で、武士はとても良い習慣を持っていた」と話されていた。
ドレイトン氏が「自分の志」として世界中に広めようとしていることが、「チェンジメーカー」という生き方である。これは、「現在社会が抱える問題を変えていく行動を起こす人になる生き方」である。これは何も「社会を変えるために起業したり、NPOに参加したりしなければならない」ということではなく、「自分の日々の生活を振り返り、その生活の一部と社会のどれかの問題をつなぎ合わせて、その問題を解決に導くような行動を起こしていこう」というもの。このチェンジメーカーという言葉は世界に広がってきているし、今日の対談でも何度もドレイトン氏から「チェンジメーカー」という言葉を聞いたが、この「チェンジメーカー」になるには、「志」が必要であり、人に志を持たせるには、「15歳」という年齢が重要であるそうだ。
その後対談が続き、ディスカッションなどが続く中でも、「15歳という年齢の時に、人生についてを考えさせたり、志について考えさせることは非常に重要」ということを何度も言われた。
「15歳で志を立てさせる」という「立志式」は、世界や時代を超えても、支持されるものなのかと驚いた。この立志式という文化はいつ始まったのかは知らないが、文化として引き継がれ、後世に残されていくものは、途中で淘汰されるプロセスを経て残るのだから、無駄なモノはないのかもなあと思った。そう考えると、「文化から学ぶこと」もまた、大きな意味を持つことになるのだろうな。
ドレイトン氏とのセッションは、映像で録画しました。編集してアップしたいと思っていますので、その時にはまた、記したいと思う。
追記
チームドレイトンの事実上のリーダー、チャックが、ブログにセッション当日の様子をアップしてくれました!→1月20日 ドレイトンさんとのセッション当日
▼LINK-----
ドレイトン氏とネット対談するプロジェクトの中心チーム、「チームドレイトン」のblogです。このblogで、ミーティングで話し合ってきた議論や今後のプロジェクトの最新情報をアップしていきます。
→Everyone A Changemaker
アショカの公式ウェブサイトです。
→ASHOKA Innovators for the Public

夏から携わらせてもらっている会津若松のプロジェクトも、いよいよ大詰めに差し掛かっている。
そんな中、本当に感動するニュースがあった。
以前、志を立てるということ(会津の教え四)という記事に書いた米農家の新田義則さんが、静岡県で毎年開催される「お米日本一コンテスト2008」で優秀賞に選ばれたそう。(この大会は最終審査をトーナメントで行うので、優秀賞は「第二位」を意味します。)えり子さんという方のブログに、結果が載っていました。 →誘惑に弱いリポーター通信:お米日本一コンテスト2008結果
記事では詳しく取り上げなかったが、新田さんは「日本のお米は、世界を救う」という志を持って、その志を実現するためには何が必要かを考えて、本当に行動しちゃっている米農家。その一つとして開発しているものが「米粉(ライスパウダー)」。米を粉にしたもので、元々団子など和菓子作りに使われるものらしいが、近年では小麦粉の代用品として期待されている。
新田さんが考えているのは、米粉でパンなどを作ろうというもの。そして、それを「食糧支援」として発展途上国への支援に使えないかと考えている。そうすれば本当に食料を必要としている人にたくさんの栄養素を含む米を届けられるし、減反政策でダメになった日本農業の活性化にもつながる。この考えの背景には日本のODA政策に対する疑問や、米農家として何ができるかという新田さんの視点と気づきがある。
米粉でパンやピザを作ることは様々なところで試されているらしいが、現在の技術では米だけでは小麦粉の代用ができないので、米に様々な添加物を加えて米粉が作られている。その結果、米粉の中での米の配合率は、40%ほどにしかなっていないらしい。しかし新田さんは、研究の末、添加物に対して米の配合率を 70%にもした米粉を開発した。これを少しずつ市場に出していきたいと話していた。そんな中、新田さんは初めて出したコンテストでこの賞を受賞した。味に高い評価をもらったということになるが、僕は何より志を立てて全ての物事に真摯に取り組む新田さんの人柄が出た結果だなあと、思った。
知り合いのところに米を送ってくれたそうです。食べに行かなくては。

以前訪問したとき、「新田米粉」で作ったピザを食べさせてもらいました。完全に小麦粉の代わりというわけではなく、ちょっとモチモチしたピザでした。ただ生地に米の甘みもあり、おいしい。生地だけでいけます。今思い返せば、日本二位の味でした(笑)

9月14日から15日にかけて、会津若松を訪問してきた。今回の旅は「会津のアツい大人」をインタビューすること。僕たちはこの「アツい大人」という言葉の定義を、「自身の人生背景から社会・個人の問題点を見出し、その解決に向けて人生をかけて活動している人」としている。前回インタビューさせていただいた人も、みな「アツい大人」としてインタビューのお願いをさせていただき、話を伺ったわけです。
今回最初にインタビューをさせていただいたのは、アルテマイスターという仏壇を取り扱う会社の執行役員である飯束時雄さん。飯束さんも、これまた腰の低い人であった。「自慢・高慢、バカのうち」なのだな。凄い人には「謙虚さ」が必要ということは、会津で学んだ良いこと。 →アルテマイスター公式HP
このアルテマイスターは創業1900年(明治33年)という長い歴史を持つ会社。昔ながら仏壇の製造から塗り、販売までをやっている会社であり、今ではそれは国内唯一のメーカーになってしまったそうだ。さらに、近年では「変わらぬ祈りの新しいかたち」をテーマに、インテリアデザイナーの内田繁氏による「新しい仏壇」や「新しい位牌」が発表され、展開されている。
このインタビューではいろいろ聞きたいことがあった。一番単純に疑問に思っていたことは、「そもそも、仏壇って形を変えていいの?」ということだった。
仏壇の形を変えるのには、もちろん理由がある。それは、「現代のライフスタイルに合わない」こと。東京の様にマンション・アパートの中に仏壇を置くことは難しいし、核家族化が進んだ中では、家に仏壇がないことはめずらしくない。(我が家にもない)その中で、「新しい時代・ライフスタイルに合った形の仏壇・位牌が必要だ」と考えられたそうだ。
僕は最初、これに抵抗を感じた。というのも、仏壇とは「あの形だから、意味があるのではないか」と感じていたからだ。つまり、あの形であるからこそ、亡くなった先祖が住み、お祈りを捧げる対象になるのではないか?それがいくら有名デザイナーの作品とはいえ、なんでもかんでもモダン化してしまっては、ましてや位牌までモダンな形になってしまっては、「仏壇である必要性」が無くなってしまうのではないか?、と感じたわけです。
とはいっても、今の仏壇は大きすぎて、現代のライフスタイルに合わないというのは事実。「やっぱり企業生き残りのためにはそういう展開の仕方は必要だよな」と思っていたところ・・・・・・アルテマイスターの考えは、向けている対象が違うことに気がついた。
彼らが対象にしているのは、仏壇うんぬんではなく、「そこに祈りがあるかどうか」。
祈りとは、僕みたいに都会生まれ都会育ちの人間には、バカに聞こえることかもしれない。それは目に見えず、効果があるのかないのか分からない非合理な行為で、ある種宗教的な響きが強い言葉である。ではその祈りとは何なのか?何の意味があるのか?飯束さんは、「祈りは大きなつながりを意識する行為であり、感謝の気持ちを持つ行為である」と言う。そして仏壇は、その祈りを行う場なのだそうだ。
昔の仏壇とは、「祈る場」という役割を持ってそれぞれの家に存在していたらしい。その祈る目的とは、様々なものへの「感謝」。「この世に生を受けたことに対する感謝」や、「一日を始めさせてくれ、その日一日を無事に過ごせたことに感謝」、「親や友人、先祖や子孫にまで対する感謝」などであった。ちょっと宗教的な言い回しにはなるかもしれないが、「自分は大きなつながりの中で生かされているんだな」という意識を日々確認させるということを、「祈る」という行為をさせる場所として存在することで、仏壇は行っていたそうなのだ。
しかし、江戸時代の「寺請制度(檀家制度)」が制定されたことで、「全ての人はどこかの寺の檀家になること」という法律が定まる。これにより寺院は経営を安定させるが、同時に寺院の堕落が進み、制度制定前は一周忌から三回忌くらいまでの追善供養が一般的だったのに対し、制定後は三十三回忌まで増える。こんなに追善供養が必要なのかと言う人々の批判が"葬式仏教"(葬式のときにしか必要とされない仏教。日本の仏教を揶揄して呼ぶ)として認知されるようになったそうだ。さらに今では日本は仏教国ではないため、葬式時の形式として仏壇が残り、「葬式のときに必要なもの」として認知されるようになった。
つまり、本来の仏壇のあるべき姿は、今の日本で認知されている仏壇のものとは大きく異なったものであるのだ。
もちろんもはや仏教国ではない現代日本において、仏壇を敬遠する方もおられるかもしれない。それはそれでもちろんいいのだが、それでも、飯束さんは「今の人々には仏壇、もしくはそれに代わるものが必要だ」と言う。なぜなら現代社会、特に東京などの大都市において、「祈りと感謝の欠如」は広く見られるからである。ではなぜ、「祈りと感謝」は欠如したのか。答えはいろいろあるだろうが、今の僕としては、「命と命のコミュニケーションから、大きな力を感じることが無くなったから」のように感じる。
昔の日本は農業大国であった。その中で、農業とは紛れもなく「命と命のコミュニケーション」であった。間違いなく同じに田植えをし、稲を見守って育てても、「今年は豊作、来年は凶作」となってしまっていた。その中で、自分では影響を及ぼせないプロセスとそれを働かせていると思われる"大きな力"に対して、「豊作をお願いします!」という祈りと、「(豊作で)ありがとうございます!来年もよろしくお願い致します」という感謝の気持ちは生まれたんじゃないかと思っている。また、ご飯を食べるときに「いただきます」、食べ終わったときに「御馳走様でした」という言葉が出ることも、「頂く」ということに対する感謝、「料理を作る際に走り回ってくださったこと」への感謝というのが根付いていたのだと思う。
しかし現代農法は、「安定供給・大量生産」のために農薬や化学肥料によって農作物を「コントロールする」。この改善によって、現代農法では毎年安定した量の作物を収穫するに至っており、今の僕たちの食生活を支えてくれるようになったが、この間に「命と命のコミュニケーション」のプロセスは消え、"大きな力"に対する祈りや感謝も消えてしまったんじゃないかと思う。
その中で、仏壇を「祈る場所」として認識した上で家に置いてあれば、「祈り」をする習慣が生まれる。ただ毎日祈ることを繰り返すだけでも、何かに対して「感謝」の気持ちが芽生えてくる。それでいいのだそうだ。
「別に仏壇でなくてもいいのです。家のどこかにでも、「祈りの場」があればそれでいい。今欠如してしまっている祈るという習慣。これが広がれば、日本社会に様々なものに対する「感謝の気持ち」が再び芽生えてくる。そうすれば、近頃起こっている怖い事件もなくなり、いい社会になるのではないかと思うのです。」と飯束さんは言う。
僕自身、「祈る」ということをしっかりと考えたことがなかった。僕は日頃から熱心に祈ったりはしない。でも、今回のインタビューを通して、自分が大きなつながりの中にいるんだということに、改めて気づいた。そのつながりを意識すると、先祖に「ありがとう」という気持ちも生まれてくるし、こうしてパソコンを開いていていられることに「電気を作ってくれてありがとう。このパソコン作ってくれた人ありがとう。」という気持ちにもなる。生活のあらゆる場面で僕が使うものを通して、「生かされてるんだな」と感じることができ、それにも「ありがとう」と思えるようになる。そう考えてみると、「祈る」というのは意識的なもので、非常に身近にある行為なのかなとも思えてきた。
正直分かったような、分かってないような。「コレが祈りだ!!!」と言えないからなんだろうけど。それでも、仏教徒でない僕にとっての「仏壇の必要性」が腑に落ちたことというのは、非常に良かったなと思います。
今日、アーティストの鉾山亘(ほこやま わたる)さんにインタビューをさせていただいた。
→Wataru Hokoyama Web site
ワタルさんは、アメリカ在住のアーティストで主に映画音楽やコンサートで演奏されるクラシック音楽などを製作される。近年ではPS3専用ゲームソフト「アフリカ」で音楽の監修を担当した。その際には、ハリウッドのスタジオでオーケストラ総勢104名による演奏でBGMを収録するという前代未聞の挑戦を見事成功させた。
それが下記の動画。圧巻です。
いや、これはすごい。これがゲームソフトのBGMになるわけですか。スケール感が半端ではないですね。僕にはこのすごさは説明できない。圧巻の一言。
ワタルさんは他にも2001年のカンヌ国際映画祭で短編映画部門のグランプリを獲得した『Bean Cake(おはぎ)』や、2003年のサンダンス映画祭でオンライン・オーディエンス賞を獲得した『one』の音楽などを担当されている。まだ34歳というのがすごい。
ワタルさんは僕が参加している会津のプロジェクトのプロデューサーの方と幼馴染であり、今回はその関係でインタビューをさせていただくに至った。
ワタルさんの第一印象は、爽やかで本当に腰が低い人。宗像さんもそうだが、すごい方は本当に腰が低いのだなとつくづく感じる。「すごい人間すごくない人間」の判断軸には、やはり「謙虚さ」を入れるべきだ。
(後で聞いたところによると、ワタルさんはいつもおじいちゃんに、「自慢・高慢、バカのうち」と何度も何度も言われ続けたそうだ。「そりゃ友達の間では、たまに自慢はしますよ(笑) でも謙虚さは忘れない。それを忘れた時点で「バカ」なんですよ。」と、爽やかな笑顔で語ってくれた。)
ワタルさんは小学生の時から、音楽好きの両親の影響もあって音楽には触れていたそうだ。そんな折、ワタルさんが小学生の頃に「E.T.」という映画が、福島県郡山市の映画館にやってきた。会津出身のワタルさんは両親とその映画を見に行き、そこで映画音楽に興味を持つようになる。時は過ぎ、高校2年生の時に、たまたまテレビをつけたらやっていたオーケストラが演奏するE.T.のテーマ曲に頭を雷で貫かれた気持ちになり、「これがオレのやるべきことか。」と思い、主に映画音楽を担当する作曲家になることを決められたそう。
話が進んでいく中で、「今、ワタルさんが音で表現していること」についての質問になった。するとワタルさんは、「今の世界についてです。というか、今の世界はエネルギーがどんどん下がってきているのを感じる。特に東京ですよ。ここでは誰からも・どこからも「希望」を感じない。ここの土地は完全にエネルギーを失っている。」と言われた。
これを言われたときは、非常に驚いた。でも、なんとなく理解できる。日本は変わってきていますよね。気象とかは具体的だから分かりやすい。「ゲリラ豪雨」なんて素敵な名前の雨が最近よく降りますが、あれは「スコール」ですよね。また、なんと言っても雷がすごい。さらに、松食い虫のいたるところで大量発生をしており、木がどんどん死んでいるとも聞く。そういう以外にも、エネルギーというか元気さというか、そういうものは無くなってきているのではないか。自殺数年間3万人、引きこもり、親殺し、無差別殺人などなど。それは環境問題だとか社会問題だとかいうレベルの話ではなくて、なんとなく「今までの日本が持っていたもの、それによって守られていたもの」がなくなってきている気はする。
また、ワタルさんの地元の福島県会津若松でも、土地のエネルギーが弱まっているのを感じるそうだ。よく遊びに行ったり作曲しに行ったりした場所でも、エネルギーを感じず、インスピレーションが降りてこない。「自分が感覚で受取り、音にしていたものが、いなくなってしまったイメージ」だという。
その中でワタルさんは、「その事態に目を向け、「自分なりにできること」なんていう意識ではなくて、「自分ができる限りこと」に取り組んでいく必要があるのではないか」と言われた。
確かになあと思います。僕が捉えるニュアンスとしては、「自分なりにできること」だと、テレビがよく騒いでいるようにゴミを分別したり、ビニール袋を断ったりと、いわゆる受け身な形でしか物事に取り組まない。しかし、「自分ができる限りのこと」に取り組もうとすると、自分が何をすべきかを考えなければいけないし、自分のやっている仕事や活動を通して、どんなところで貢献できるかも模索するようになる。この違いは非常に大きい。
話の終わりにワタルさんは、「そういった社会が目の前にあって、僕はこれからもっと悪い方向へ進んでいくと感じている。僕は専門外だから、「社会がなんでこういう方向に進んでいってしまっているか。それにどう対処すればいいのか」というのは説明できないけど、僕の音楽を通じて、「なんか今の社会っておかしいよね。なんとかしなくちゃね」という風に、動き始めるきっかけになってくれたらうれしい。」と話してくれた。ワタルさんは、ワタルさんの「できる限り」に取り組むつもりだと感じた。僕の「できる限り」はなんだろう??
ちなみにワタルさんへのインタビュー記事は別のアウトプットで出す予定。そこではワタルさんが作曲家になられた背景を中心に音楽というものやインスピレーションの受け方・発信の仕方についても話をしています。今回は一部を切り取って書きました。インタビューについては別記事で報告しようと思います。
8月23日から24日にかけて、また会津を訪問した。今回の訪問では、「東京に必要な会津の精神性」をキーワードに、何かに「懸命な人」にインタビューをしてきた。ここでもまた、本当に素敵な考え方、ものの見方をいただくことができた。
今回は二日で5人の方々にインタビューをさせていただいた。その中の一人で、今回唯一の農家さんであったのが、米農家をやられている新田義則さん。 → 新田さんについて
新田さんは、「日本のコメが、日本を救う。世界を救う。」と主張する。これだけを聞くと、「まあ、米農家だからね。そういう意気込みで作るよね。」とか思わ れるだろう。僕もそう思った。ところがどっこい。新田さんのすごいところは、「なぜ」を探求し、その解決策を思案し、実行に移す農家さんであるというこ と。
新田さんが「日本のコメが世界を救う。」という観点から取り組まれていることについてはひとまずは置いておいて、新田さんのインタビューの中から、特に僕が感動し、「やばい!オレどうしよう!!!」と思ったことを一つ紹介。
それは、「志を立てる」ということ。
論語の中に、「我、十有五にして学に志す」という言葉があるそうです。孔子は15歳の時に、学問で生きていこうと決心したということらしい。その中で、孔子 の教えを藩校で教えていた会津藩は、子供が15歳になった時に、自分の今後の人生を決めるという意味合いで「志を立たせる」ということで、「立志式」を行った。(その式の名前を「元服」という。)子供には立志式を行う前までに、「自分は何のために生まれ、今後の人生で何をなすべきか」を繰り返し自問し、一つの答えを導き出すことが求められていた。昔は世襲制だったので仕事は決まっていた。そのため、その仕事には一生関わっていかなければならないので、その仕事を通して何をなすべきかという ことは、非常に大切なことだったのだろう。それは今でも変わらないのではないか。
そしてその志を一度立てると、後はそれを懸命に貫き通すことが大切であった。新田さん曰く、以前の記事に書いた会津の「什の教え」の中の「ならぬものはならぬ」という言葉の中には、「一度決めたことを覆すこと」は「ならぬ」という意味も含まれていたという。「自分で掲げた志を覆すことは絶対にならぬ。ならぬものは、ならぬことだ。」という、否定を否定する肯定的な意味も含んでいたのだそうだ。
もちろん現代社会は世襲制ではないので、自分がすることを一度決めたら覆してはいけないなんてことは、どだい無理な考えだと思う。今の時代にとって様々な経験を通して、自分に必要なことや大事に思うことを模索することは、とても重要なことだ。しかし、この話を通して僕が「やばい!」と思ったの は、昔と同じだけの「自問自答を行えているか」ということである。
当時の会津の人は(他の藩の人は知らない。ここで「武士は」と言わないところがミソ。これについては別記事で。)、それだけ自分の人生について、一生懸命考えていた。孔子が15歳で人生を決めてしまったとばっちりを受けてか、会津の子供たちも自分の人生の大筋を15歳までに決めなくてはならないことになった。しかし、それまでに一生懸命自分にとって大切なことを考える。人であるために大切なことを考えた上で、それでは自分が何をなせるかを考えた。では今の時代の、15よりも7つも上の僕は、「自分の人生の今後」について 一生懸命に考えられているだろうか。
今の社会は変化が光速だし、志を明確にしてしまうには選択肢や考えるべき立場がたくさんあるし、自分のやりたいことや達成したい目標なんてのは二転三転するし、、、などと色々な当時との違いが思いつくが、大切なのは「その考えるプロセスから逃げないこと」であると思う。色々な検討材料はあるけれども、とりあえず自分が生まれた理由は何か。自分が成し遂げたいことは何か。それを考える。また、人間 にとって大切なことは何か。自分にとって大切で、他人にとって大切なことは何か。そういったことも少しずつ含めながら、考える。それを考えていく上で考慮 しなければならないことに出会ったら、それを含めた上でまた考え直す。そのプロセスをふむ重要性は、昔も今も変わらないと思う。
じゃあなぜ志を立てることの意味は何か。自分なりに考えてみた。
今の僕の答えは、志を立てるにあたり、自問して考えるプロセスを踏むことで、「自分だけの目標」を見出すことができる。目標が見いだせれば、人生に意味が生まれ、日々が楽しくなる。だから、志を立てる。これです。
「志」 という言葉は知っていたけど、それを立てることがこんなに大切なことであったとは、初めて知った。僕の場合、「自分を幸せにするために、他人を幸せにする」と言うけれど、それは具体的にどんなことをイメージしているのか、何をしたらそれが達成できると思っているのか。それを通した社会を、僕はどう想像し ているのか。色々考えることあるな~。
少しずつ答えを磨いていこう。とりあえず今は、寝よかな。
今回は二日で5人の方々にインタビューをさせていただいた。その中の一人で、今回唯一の農家さんであったのが、米農家をやられている新田義則さん。 → 新田さんについて
新田さんは、「日本のコメが、日本を救う。世界を救う。」と主張する。これだけを聞くと、「まあ、米農家だからね。そういう意気込みで作るよね。」とか思わ れるだろう。僕もそう思った。ところがどっこい。新田さんのすごいところは、「なぜ」を探求し、その解決策を思案し、実行に移す農家さんであるというこ と。
新田さんが「日本のコメが世界を救う。」という観点から取り組まれていることについてはひとまずは置いておいて、新田さんのインタビューの中から、特に僕が感動し、「やばい!オレどうしよう!!!」と思ったことを一つ紹介。
それは、「志を立てる」ということ。
論語の中に、「我、十有五にして学に志す」という言葉があるそうです。孔子は15歳の時に、学問で生きていこうと決心したということらしい。その中で、孔子 の教えを藩校で教えていた会津藩は、子供が15歳になった時に、自分の今後の人生を決めるという意味合いで「志を立たせる」ということで、「立志式」を行った。(その式の名前を「元服」という。)子供には立志式を行う前までに、「自分は何のために生まれ、今後の人生で何をなすべきか」を繰り返し自問し、一つの答えを導き出すことが求められていた。昔は世襲制だったので仕事は決まっていた。そのため、その仕事には一生関わっていかなければならないので、その仕事を通して何をなすべきかという ことは、非常に大切なことだったのだろう。それは今でも変わらないのではないか。
そしてその志を一度立てると、後はそれを懸命に貫き通すことが大切であった。新田さん曰く、以前の記事に書いた会津の「什の教え」の中の「ならぬものはならぬ」という言葉の中には、「一度決めたことを覆すこと」は「ならぬ」という意味も含まれていたという。「自分で掲げた志を覆すことは絶対にならぬ。ならぬものは、ならぬことだ。」という、否定を否定する肯定的な意味も含んでいたのだそうだ。
もちろん現代社会は世襲制ではないので、自分がすることを一度決めたら覆してはいけないなんてことは、どだい無理な考えだと思う。今の時代にとって様々な経験を通して、自分に必要なことや大事に思うことを模索することは、とても重要なことだ。しかし、この話を通して僕が「やばい!」と思ったの は、昔と同じだけの「自問自答を行えているか」ということである。
当時の会津の人は(他の藩の人は知らない。ここで「武士は」と言わないところがミソ。これについては別記事で。)、それだけ自分の人生について、一生懸命考えていた。孔子が15歳で人生を決めてしまったとばっちりを受けてか、会津の子供たちも自分の人生の大筋を15歳までに決めなくてはならないことになった。しかし、それまでに一生懸命自分にとって大切なことを考える。人であるために大切なことを考えた上で、それでは自分が何をなせるかを考えた。では今の時代の、15よりも7つも上の僕は、「自分の人生の今後」について 一生懸命に考えられているだろうか。
今の社会は変化が光速だし、志を明確にしてしまうには選択肢や考えるべき立場がたくさんあるし、自分のやりたいことや達成したい目標なんてのは二転三転するし、、、などと色々な当時との違いが思いつくが、大切なのは「その考えるプロセスから逃げないこと」であると思う。色々な検討材料はあるけれども、とりあえず自分が生まれた理由は何か。自分が成し遂げたいことは何か。それを考える。また、人間 にとって大切なことは何か。自分にとって大切で、他人にとって大切なことは何か。そういったことも少しずつ含めながら、考える。それを考えていく上で考慮 しなければならないことに出会ったら、それを含めた上でまた考え直す。そのプロセスをふむ重要性は、昔も今も変わらないと思う。
じゃあなぜ志を立てることの意味は何か。自分なりに考えてみた。
今の僕の答えは、志を立てるにあたり、自問して考えるプロセスを踏むことで、「自分だけの目標」を見出すことができる。目標が見いだせれば、人生に意味が生まれ、日々が楽しくなる。だから、志を立てる。これです。
「志」 という言葉は知っていたけど、それを立てることがこんなに大切なことであったとは、初めて知った。僕の場合、「自分を幸せにするために、他人を幸せにする」と言うけれど、それは具体的にどんなことをイメージしているのか、何をしたらそれが達成できると思っているのか。それを通した社会を、僕はどう想像し ているのか。色々考えることあるな~。
少しずつ答えを磨いていこう。とりあえず今は、寝よかな。
会津藩の教えの中に、「ならぬものは、ならぬ」という精神がある。
これは、田中玄宰の「天明の改革」以降に6歳~10歳までの会津藩の子供に教え込まれた会津藩士の心得の一つである。会津藩には、会津藩家老田中玄宰の進言で作られた有名な藩校「日新館」があり、そこには10歳から入学することが義務付けられている。その入学の前段階で、近所の子供たちがグループになり(このグループのことを「什(じゅう)」と呼ぶ)、グループの中で会津藩士として大切な心得を学ぶ。これが、藤原正彦氏が著書『国家の品格』の中で触れたことで有名な「什(じゅう)の教え」である。以下。
一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
これが現在「什の教え」として知られているものだが、聞くところによると「什の教え」というのに決まったルールはなく、その子供のグループ(什)ごとで教えが違ったそうだ。グループで心得を学ぶこと自体は義務付けたらしいが、その内容設定にはある程度グループで考えさせて、決めさせたらしい。やっぱり自分たちで決めたルールなら、守らざるを得ないもんね。その辺り、良く決めましたね。(それにより各グループ(什)で心得の理解の仕方に差が出たのかは不明。出る気はするが。)
日新館に入ると、様々な学問を学ぶことになるが、この「什の教え」を理解していることは前提となる。それを示すのが、「人でない」「鳥獣以下」という言葉。
「戸外で物を食べてはいけない。」
「なんでですか?別に食べたっていいじゃないですか!」
「ならぬものは、ならん。」
「おかしいでしょう!食べてはいけない理由を説明していない!」
「お前は、鳥獣以下だ。」
こうなります。すごいですよね。少し押しつけてる観もあります。
しかし、この「ならぬものは、ならぬ」の理由を聞いて、僕は非常に感心しました。すげーですよ。
「ならぬものは、ならぬ」。なぜか。『そう簡単に、理解できるものではないから。』、だそうです。
どういうことか。
この教えは、6歳から10歳までの子供に教えられる。しかし、この段階で物事の何を理解できるか。
「なぜ、年長者の言うことに背いてはならないか。」「なぜ、虚言を言ってはいけないか。」ということは、他人から言葉で説明されても、簡単に理解できるものではない。「年長者だからって人は人だろう!基本的人権を尊重すべきだ!年齢間の差別だ!」とかなんとか論理だった主張ができるのかもしれないが、それでも、年長者の言うことには背いてはならない。こればかりは、「自分で将来的に理解すること」になり、その時までは「ならぬものは、ならぬ」として理解させておかなければならない。いつか必ず、「なぜ、ならぬものはならぬとして、教わったか」ということが分かる時が来る。そういう理念の下、それまでは「什の教え」は「ならぬものは、ならぬ」という形で押しつけ、それに逆らうものは「人でない」としてまで、教えを理解させ、守らせる。
もちろん今の時代には、受け入れられない教えがありますよね。「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。」とか、言語道断です。「年長者の言うことにそむいてはなりませぬ。」というのも、年長者が正しいということが前提になるんで、こんだけ時代の変化が激しかったり、国際化が進んでいたりすると、日本国内だけで培った考え方や人生観、生活観だけが、正しいかどうかも疑問ですし。
しかし、「子供に自分で気づかせるまでは、あえて押しつけておく」ということは、これは今の時代にも参考にできるものではないかと思います。その理由の一つは、子供が疑問に思うことの答えを言葉で伝えたとしても、それもまた大人の偏見による教えであるということ。もう一つの理由としては、子供がその教えを本当に理解できるとは思えないということがあります。
僕の個人的な経験でも、昔、先生に長々と説教されことが、当時は理不尽に思えたことでも今になると「そういう意味だったのか~。そういうことを伝えたかったんだな。」と思うことが多々あります。それは僕が成長する過程で得た経験などから、自分の言葉や考え方で、その内容を理解できるようになってきたからではないかなと思います。もちろんそれは、間違った理解の仕方かもしれず、先生も「そんなつもりで言ったんじゃない!」と思っておられるかもしれませんが(笑)、先生の教えが絶対的に正しいとも言えませんし、僕の理解の仕方も答えの一面であるとも言えます。
絶対的な正解のある物事というのは、そんなにはないと思います。その中で、何が正しいのかを「自分で」理解できるようになるまでは、子供に対しては「模範的な正解」を押しつけておく。そういったことは、必要なのではないかと思うようになりました。
これと同じ内容を、以前東京大学教授で哲学者の野矢茂樹氏にインタビューをしたときに、氏は「紋切型」という言葉で表現されていたことを思い出しました。改めてインタビューしたものを読んでみると、すげー気づきがありました。当時もまだ、氏の言葉を本当には理解できていなかったんだな。今もまだ理解できていないのかな。いや、今後はきっと、違う見方で氏の言葉を理解できるようになるのかもしれないですね。よければ、読んでみてください。
哲学者野矢茂樹氏インタビュー テーマ:思い込み
これは、田中玄宰の「天明の改革」以降に6歳~10歳までの会津藩の子供に教え込まれた会津藩士の心得の一つである。会津藩には、会津藩家老田中玄宰の進言で作られた有名な藩校「日新館」があり、そこには10歳から入学することが義務付けられている。その入学の前段階で、近所の子供たちがグループになり(このグループのことを「什(じゅう)」と呼ぶ)、グループの中で会津藩士として大切な心得を学ぶ。これが、藤原正彦氏が著書『国家の品格』の中で触れたことで有名な「什(じゅう)の教え」である。以下。
一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
これが現在「什の教え」として知られているものだが、聞くところによると「什の教え」というのに決まったルールはなく、その子供のグループ(什)ごとで教えが違ったそうだ。グループで心得を学ぶこと自体は義務付けたらしいが、その内容設定にはある程度グループで考えさせて、決めさせたらしい。やっぱり自分たちで決めたルールなら、守らざるを得ないもんね。その辺り、良く決めましたね。(それにより各グループ(什)で心得の理解の仕方に差が出たのかは不明。出る気はするが。)
日新館に入ると、様々な学問を学ぶことになるが、この「什の教え」を理解していることは前提となる。それを示すのが、「人でない」「鳥獣以下」という言葉。
「戸外で物を食べてはいけない。」
「なんでですか?別に食べたっていいじゃないですか!」
「ならぬものは、ならん。」
「おかしいでしょう!食べてはいけない理由を説明していない!」
「お前は、鳥獣以下だ。」
こうなります。すごいですよね。少し押しつけてる観もあります。
しかし、この「ならぬものは、ならぬ」の理由を聞いて、僕は非常に感心しました。すげーですよ。
「ならぬものは、ならぬ」。なぜか。『そう簡単に、理解できるものではないから。』、だそうです。
どういうことか。
この教えは、6歳から10歳までの子供に教えられる。しかし、この段階で物事の何を理解できるか。
「なぜ、年長者の言うことに背いてはならないか。」「なぜ、虚言を言ってはいけないか。」ということは、他人から言葉で説明されても、簡単に理解できるものではない。「年長者だからって人は人だろう!基本的人権を尊重すべきだ!年齢間の差別だ!」とかなんとか論理だった主張ができるのかもしれないが、それでも、年長者の言うことには背いてはならない。こればかりは、「自分で将来的に理解すること」になり、その時までは「ならぬものは、ならぬ」として理解させておかなければならない。いつか必ず、「なぜ、ならぬものはならぬとして、教わったか」ということが分かる時が来る。そういう理念の下、それまでは「什の教え」は「ならぬものは、ならぬ」という形で押しつけ、それに逆らうものは「人でない」としてまで、教えを理解させ、守らせる。
もちろん今の時代には、受け入れられない教えがありますよね。「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。」とか、言語道断です。「年長者の言うことにそむいてはなりませぬ。」というのも、年長者が正しいということが前提になるんで、こんだけ時代の変化が激しかったり、国際化が進んでいたりすると、日本国内だけで培った考え方や人生観、生活観だけが、正しいかどうかも疑問ですし。
しかし、「子供に自分で気づかせるまでは、あえて押しつけておく」ということは、これは今の時代にも参考にできるものではないかと思います。その理由の一つは、子供が疑問に思うことの答えを言葉で伝えたとしても、それもまた大人の偏見による教えであるということ。もう一つの理由としては、子供がその教えを本当に理解できるとは思えないということがあります。
僕の個人的な経験でも、昔、先生に長々と説教されことが、当時は理不尽に思えたことでも今になると「そういう意味だったのか~。そういうことを伝えたかったんだな。」と思うことが多々あります。それは僕が成長する過程で得た経験などから、自分の言葉や考え方で、その内容を理解できるようになってきたからではないかなと思います。もちろんそれは、間違った理解の仕方かもしれず、先生も「そんなつもりで言ったんじゃない!」と思っておられるかもしれませんが(笑)、先生の教えが絶対的に正しいとも言えませんし、僕の理解の仕方も答えの一面であるとも言えます。
絶対的な正解のある物事というのは、そんなにはないと思います。その中で、何が正しいのかを「自分で」理解できるようになるまでは、子供に対しては「模範的な正解」を押しつけておく。そういったことは、必要なのではないかと思うようになりました。
これと同じ内容を、以前東京大学教授で哲学者の野矢茂樹氏にインタビューをしたときに、氏は「紋切型」という言葉で表現されていたことを思い出しました。改めてインタビューしたものを読んでみると、すげー気づきがありました。当時もまだ、氏の言葉を本当には理解できていなかったんだな。今もまだ理解できていないのかな。いや、今後はきっと、違う見方で氏の言葉を理解できるようになるのかもしれないですね。よければ、読んでみてください。
哲学者野矢茂樹氏インタビュー テーマ:思い込み
会津の食は本当に美味しい。
僕が農業体験をさせていただいたIさんの家ではほぼ自給生活をしているため、新鮮な野菜、というか食べる直前に取ってきた野菜を使って料理をする。そのため、苦労して栄養分をかき集めた力強い野菜の、素材の味が出ており、逆に調味料を使うと味が変に感じるような、そういった野菜料理を出していただいた。
しかし、会津の食の魅力は、新鮮野菜だけではない。定番メニューも、流石の味だった。
僕らは7月30日の夜行バスで会津に向かった。会津若松の駅に着いたのは5時30分。到着時刻を今回のプロジェクトを会津でまとめている人に伝えると、「町を案内するには早い時間だから、『朝ラー』食ってきなよ。」と言う。
『朝ラー』とは、朝ラーメンのことである。会津には朝、ラーメンを食う習慣があるらしい。東京だと、仕事帰りにお酒を飲んで、「ちょっとラーメン食べて帰ろうかな。」となるところが、会津だと、仕事帰り(農作業帰り?)にお酒を飲んで、朝、「仕事前にラーメン食べようかな。」となるらしい(笑)
とりあえず、朝ラーメンとはどんなものかを食べに行った。行先はラーメンで有名な「喜多方」。元々は「蔵の町」として観光客を集めていたが、地元民が好きだったラーメンを観光客にふるまい始めると、あっという間にラーメンの方が有名になってしまったとか。
これがこの日食べた朝ラー。「典型的な朝ラーください。」と頼むと、「朝、ラーメン食べることが朝ラーだから、全部そうだよ。」と言われる(笑) 「朝食べれば、朝ラーなの??」と違和感を隠しきれなかったが、間違いなくちじれ太麺に濃厚なスープととろけるチャーシューは美味。「朝、ラーメン食べるのも悪くない!」と思わせてもらった。(ただ、朝こってりしたものを食べることに慣れていなく、夜行バスであまり寝れなかった僕は、その後ちょっと眠くなった。)
その後、町を案内してもらった。昼時になると、「最近名物になってきた『ソースかつ』を食べよう。地元民の間では有名なお店に連れてくよ。」と、なんともうれしいことを言ってくれた。
案内をしてくれていた方は、「ソースかつは会津の名物か?」という問いに対しては「最近だね。」と言っていた。wikipediaで調べてみると、ソースかつ丼の起源説は到る所にあるようで、どこが発祥の地とは言えないらしいが、少なくとも会津じゃなさそう。しかし、地元では地元名物として親しまれている。
で、これが『ソースかつ』。でらウマです。
これ大盛りなんですけどね、この重量感!!びっくりしました。また、この甘辛のタレと歯がいらないくらいふわふわサクサクの豚が絶品なんですよ~~。なんでも会津は味噌が美味しいそうで、味噌汁もこっちのとはちょっと違う感じだったのですが、ソースかつの印象が強すぎて、良く覚えていません。とにかく、豚肉をかんだ時に口いっぱいに広がるこの甘辛のタレが、最高でした。しかし、この甘さがおなかいっぱいになってくると大きく響きまして、残り3切れとかそういう状態の時に、少し憎らしくも思えてきたのを覚えていますが、今写真見るとまた食べたくなる。
今回感じたことは、美味いものがあることを羨ましいと同時に、自分の地元には全然目を向けてこなかったなーいうこと。都会にいると、どうしてもチェーンのお店やフランチャイズのお店が多くなり、外食する時もそういったお店を利用しがちになる。安いし、便利だし、味が保障されているし。しかし、自分の地元にも感動するような味を提供する店があるはず。そういった味には触れずに、全国どこでも一緒の味に日常から触れてしまうのは、もったいない気がする。
どうせだったらこれを機に、色んな地元の味に目を向けて、生活に食を楽しむ要素を取り入れてみような。
僕が農業体験をさせていただいたIさんの家ではほぼ自給生活をしているため、新鮮な野菜、というか食べる直前に取ってきた野菜を使って料理をする。そのため、苦労して栄養分をかき集めた力強い野菜の、素材の味が出ており、逆に調味料を使うと味が変に感じるような、そういった野菜料理を出していただいた。
しかし、会津の食の魅力は、新鮮野菜だけではない。定番メニューも、流石の味だった。
僕らは7月30日の夜行バスで会津に向かった。会津若松の駅に着いたのは5時30分。到着時刻を今回のプロジェクトを会津でまとめている人に伝えると、「町を案内するには早い時間だから、『朝ラー』食ってきなよ。」と言う。
『朝ラー』とは、朝ラーメンのことである。会津には朝、ラーメンを食う習慣があるらしい。東京だと、仕事帰りにお酒を飲んで、「ちょっとラーメン食べて帰ろうかな。」となるところが、会津だと、仕事帰り(農作業帰り?)にお酒を飲んで、朝、「仕事前にラーメン食べようかな。」となるらしい(笑)
とりあえず、朝ラーメンとはどんなものかを食べに行った。行先はラーメンで有名な「喜多方」。元々は「蔵の町」として観光客を集めていたが、地元民が好きだったラーメンを観光客にふるまい始めると、あっという間にラーメンの方が有名になってしまったとか。
喜多方駅で待ち合わせをし、地元のプロジェクト関係者の方に迎えに来てもらった。これから農作業ということで、作業着を着て登場。朝ラーで有名なお店に連れて行ってもらった。
その後、町を案内してもらった。昼時になると、「最近名物になってきた『ソースかつ』を食べよう。地元民の間では有名なお店に連れてくよ。」と、なんともうれしいことを言ってくれた。
案内をしてくれていた方は、「ソースかつは会津の名物か?」という問いに対しては「最近だね。」と言っていた。wikipediaで調べてみると、ソースかつ丼の起源説は到る所にあるようで、どこが発祥の地とは言えないらしいが、少なくとも会津じゃなさそう。しかし、地元では地元名物として親しまれている。
で、これが『ソースかつ』。でらウマです。
今回感じたことは、美味いものがあることを羨ましいと同時に、自分の地元には全然目を向けてこなかったなーいうこと。都会にいると、どうしてもチェーンのお店やフランチャイズのお店が多くなり、外食する時もそういったお店を利用しがちになる。安いし、便利だし、味が保障されているし。しかし、自分の地元にも感動するような味を提供する店があるはず。そういった味には触れずに、全国どこでも一緒の味に日常から触れてしまうのは、もったいない気がする。
どうせだったらこれを機に、色んな地元の味に目を向けて、生活に食を楽しむ要素を取り入れてみような。
30日の夜から1日にかけて、福島県の会津に行ってきた。ここには、あるプロジェクトの一次の調査という位置づけで行ってきた。このプロジェクトに関しては追々書こうと思う。
今回、会津で経験できたことは、特に今の自分にとって、非常に意味のある知見と考え方をもたらした。その中で、今回得たものを要素に分けて、記しておく。
近年高い食の安全性が求められている。その中で、現在人気沸騰中の「有機野菜」を育てている農家のIさん宅に泊めさせてもらい、その生産過程の一部を見させていただいた。
会 津は非常に肥沃な土地らしい。会津という土地は盆地のため、昔大雨が降った時には、山から高い栄養分を含む粘土が流れてきて、ここに堆積したのだそうだ。 このため会津は豊作と凶作にほとんど差がないことで知られており、1993年の冷夏の時も、会津を残した福島全域は大きな被害を受けたのに対し、会津では 逆に豊作であったそうだ。さらに、会津は災害の少ない地域で、南方にある日本アルプスのおかげで、台風が来ない。そのため水害も少なく、農業を営むには最 適の土地だと言う。(この辺りは良く分からないので、調べて追記しておこう。)
今回僕らが行ったのは、トマトの収穫と、じゃがいもの選別だった。
Iさんは、農薬を一切使わない有機農法で 野菜を作っている。Iさんは、「有機農法と化学肥料を使った農法とどう違うのか。その違いは一点だけ。『野菜に苦労をさせるか否か。』だけ。」と言う。化 学肥料は人工的に作られた肥料だが、この肥料の長所でもあり短所でもあるところは、野菜に栄養素を送ってあげることなんだとか。そのため、野菜は根をそこ まで張らずとも栄養をたっぷり吸い取ることができきる。この野菜はある程度大きく育つは育つが、味もある程度までしか育たない。「それに「加えて」、健康 に良くないとかそういう話なんだよね。」とIさんは言っていた。しかし、有機農法で用いる肥料では、野菜にとって必要な栄養素が簡単には吸収できない。野 菜は受け身では栄養を吸収できないため、根を張って吸収できる面を広げながら、自ら栄養素を吸収していかなくてはならない。それには自然の成り行きだけで は難しく、途中でダウンして死んでしまう野菜もあるので管理をしっかりしなければならないが、その末大きくなった野菜の味は、化学肥料のものとは比べ物にならないそうだ。
「こっちの方がウマい。だから僕はこっちのやり方で野菜を育てる。化学肥料を使うと健康に良くないとかなんとか言われてるけど、この味を知ってしまったら、まず化学肥料は使えないんだよね。」
I さんの野菜は、どれも新鮮な、かつ食欲のそそる匂いをガンガン放っている。その匂いに誘われてくる虫は後を絶たない。その虫とうまく付き合っていきなが ら、必要な分を収穫し、出荷したり地元の人たちに持って行ったりする。地元の人はお返しにと、Iさんに収穫物やらもらったものやら、少し多めに買ったもの など、様々なものを持ってくる。その話をしているIさんは非常に楽しそうだった。
ここまではいい話。Iさんの野菜は本当に美味しい。本当に。みな、食べたくなるだろう。では、そのプロセスはどうか。
Iさんに連れられてトマトを育てているビニールハウスに行った。Iさんは様々な野菜を、必要な分だけ育てているので、ビニールハウス自体はそこまで大きくなかった。しかし、そこの暑さと○○の多さが半端じゃない。
ト マトが広がる。顔を赤らめこっちを見てるやつから、青白い顔して興味なさそうにしたを向いているやつがいる。Iさんは完熟したトマトを出荷しているので、 うっすら顔を赤らめているやつではダメ。日焼けして顔を真っ赤にしているやつでもダメ。大恥かいて、顔から火が出そうなやつ。こいつを収穫する。
こ の収穫を困難にするもの。暑さ。なんせ暑い!!!直射日光がガンガン降り注ぎ、ビニールがその光を吸収し、だけど逃がさない。地球温暖化の恐怖を感じなが らの収穫(ウソ)。僕らは3人で収穫をしていたからいいものの、これがIさんとIさんの奥さんだけなら大変だ。収穫時期を見逃すと、「ゴチになります」と 言わんばかりに虫が寄ってくる。彼らに先を越されてからでは遅い。
さらに収穫を困難に、というか、いやにするもの。
そ うです。蜘蛛です。彼らが本当に、心を折ろうとしてくる。写真には3匹しか写ってないけど、あり得ないくらいいた。何年も放置されているのか、ビニール シートの屋根の下に、蜘蛛の巣でできた屋根がある。そこには無数の蜘蛛と、間違えて遊びに来てしまって帰れなくなってしまった虫が住み着いている。
また、当たり前だけど苗と苗の間にも巣を作る。いい色をしたトマトがあるので手を伸ばすと、蜘蛛の巣にぶち当たる。そこいら一帯の蜘蛛が一斉に動き出し、巣 にかかった(壊した?)獲物の方に向かってくる。「うわっ!」となって手を振りはらって立ち上がると、今度は頭で巣を破る。メガネに巣がついたり、髪の毛 に蜘蛛が住んだり。
別に蜘蛛はきらいではないんですが、好きじゃないです。こんなことで地元の人に「都会っ子」と笑われたくはなかったので、我慢です。もっとも、だんだん慣れてくると、そこまで気にならなくなる。でも、顔とかで蜘蛛の巣に突っ込むと、マジで萎えた。
さらにさらに、少し悲しくなったことですが、下記の写真を見てください。これ、片方は売りに出せない商品。どっちが売りに出せない商品でしょうか。両方とも完熟。
ちょ こっとです。ちょこっとヒビが入ってしまったので、売り物にはならなくなったのだそうです。「これ売れないんだ~~」と思うと、悲しくなりますよ。あの暑い中、蜘蛛と闘いながら一生懸命もいで、でもこんなんで売れないんですから。テレビで食糧危機を騒いでいるのを思い出すと、馬鹿じゃないかと思ってしまう。食べていいと言われたので、食ってやりました。僕トマト大好きなんですが、マジで美味しかった。ガツガツ食って、ヘタはそこらにポイする。完熟なのに 意外と皮が堅くて噛み心地があり、かつフルーツのごとく甘い。最高でした。なんて種類だろう?聞かなかったな。
トマトの収穫を終えると、次はじゃがいもの選別。これまでに収穫したじゃがいもから、状態のいいもの、少し削れたりネズミに食われたりしているけど、他の部分は食べられるもの、腐っているものに分ける。この作業が、地味だけど大変。
さらに迷惑なことに、この腐ったもの(僕らは「お腐りさん」と呼んでいた。以下、お腐りさん。)は、隣の健康なじゃがいもも腐らせる。これにより、一つの ケースに一つでもお腐りさんが入っていると、全部とは言わないまでも、ケース中のじゃがいもが腐っていく。また、匂いも強烈。そんなじゃがいもを出荷するわけにはいかないので、お腐りさんと、そのお腐り液をもらったじゃがいもは分けなければならない。
これが、お腐りさんら。
すげー臭いし、お腐りさんは持つとぶよぶよする。もうこれに触れると萎えちゃう。菌の部分を触る手は、普通に仕分けてる手とは変えて使う必要があるため、できるだけ観察し、お腐りさんを見つけたら反対の手で持ち、捨てる。お腐り液をかかってしまったじゃがいもも天日で殺菌するので、別口にする。他、傷がついていたり、ネズミに食われてないかなどをチェックし、仕分ける。しゃがんだり立ったり、重いじゃがいもケースを運んだりと大変だった。一日やっただけなので、別に疲れも何もないが、農家の方はこういった作業を毎日繰り返す。農薬を使えばこの仕分けはもっと楽になるのに。
この経験を通して思ったこと。
「スーパーにトマトは生えない。美味い野菜の労力に感謝。」
っ てこと。僕らの食卓に当たり前に置かれるトマトとじゃがいもは、本当にプロセスがあるんですよ。僕がやったことなんてほんの一部で、ビニールシートの管理から、苗を植えるところから、きれいに洗って箱詰めするところから、誰かに渡されて運ばれてくるところから、僕らがスーパーで買って食卓に届くわけです。このプロセスを体感することが、人に感謝できるようになる上で、とても大事なことのように感じる。100円200円で買えるトマトに、このプロセスがあるんです。じゃがいもや、他の野菜だって全く一緒。魚だって肉だってお菓子だって。気づかされたなー。
また、農薬使ったものは反対だとか、科学肥料はどうだとかってのは、リアルを知らない人から言われるセリフのような気がする。「健康に気を使って、農薬を使用したものは買わない」だとかってのを良く聞くようになった近年であるが、てか僕もそういうのヤダけど、仕事として農業をやられるのであれば、農薬使っちゃいますよー。面倒だもの!!例えば 今まで農薬を使った農法をしていた人が、使わない農法に変えるとならば、そこには設備投資やら学習やらと非常に大きなコストがかかる。また、上手くいくかどうかも不透明だし、大量生産だってできない。しかも若い人ならともかく、年配の人なら怖いでしょう。そしたら変えないですよね。
Iさんは好きでやってるし、何より自分や自分の子供、自分の地域のためにやっている。それなら楽しくやれるかもしれんが、これを「食の安全のために仕事して、やれ。」とは言えないでしょう!「農薬使ってるところからは、買いません。」とか言いだされても、仕事はいきなりは変えられない。この労力は「金払ってるんだから」とかじゃ変えられないですよ。てか、そもそもどれだけ農家の人にお金を払えているんだろう?(今回はトマトだったので、しかも僕トマト好きなので、 トマトの無農薬の取引が、農薬の取引と比べてどれくらいで行われているのか、調べてみようかな。)
それにしても、いい体験でした。「いい体験」で済ませてしまうのは、Iさんに申し訳ないし、自分にとってももったいない。自分ができることは何か。Iさんから野菜買ったりかな?皆に伝えることもそうか?何かしていかないと。

