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7月25日に横浜開港150周年記念テーマイベント「開国博Y150」の関連イベントでDANNAprojectについて話をしてきました。

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テーマは「社会起業家」。自分が社会起業家だとか全く思わないけど、お願いされたのでやってみた。何事も経験です。一緒に登壇された東山さん(左)はツナミクラフトというスマトラ島沖大地震の被災地の復興活動をメインに、さまざまな取り組みをされている方でした。僕とは野中章弘さんや田中優さんと面識があるという点でつながりがあり、また紹介したプロジェクトの考え方において、特に「蓄積の継承」という部分で話が合い、非常に有意義で楽しい2時間のトークになりました。


イベントが大成功(笑)の内に終わり、東山さんと帰る電車の中で、「社会起業家って採算の見込めない仕事をするわけじゃないですか。採算の見込める仕事なら市場ができますから。それでやっていけるのってなんでですかね?」という質問をしてみた。前から疑問に思っていたことだった。

東山さんの答えは、「それは待っていられる環境があるからだね。」

何を待っていられるのかというと、「採算が合う時」をだそうだ。社会起業家にとって大切なことは、社会問題に取り組んでその活動をお金にしていけるプランニング能力もそうだが、同時に「お金が入ってこなくても生きていける環境を作る能力」も必要。以前田中優さんが「生活依存する対象を分散させれば怖くない」と言っていたけど、それに通じることだった。「お金が無くても食べさせてもらえるネットワークを構築すれば、お金が無くても『待っていられる』」わけですな。納得。東山さんは実際にその環境を持っているから説得力があった。僕の活動にもその要素を取り入れようと、前から少し思っていたけど改めてそう思った。その計画もあるんです。


一方、一応横浜市民の僕ですが、気づきもありました。
イベント会場に行ってみると、様々な取り組みが展開されていることに気づく。

地域振興の鉄則として「若者・バカ者・よそ者」という言葉があるけど、今一度「その土地の人間」として、自分の町を眺めてみるのも悪くないと思った。東山さんを含めて色々な地元のキーマンと話をしたけど、結構問題あるみたいよ~。この都市も。

▼LINK-----
東山さんが取り組まれるツナミクラフトの公式HP
>>ツナミクラフト

東山さんのブログ
>>STILL ALIVE



言葉の裏を掴むように。

更新をご無沙汰していました。

春休みもついに終わりです。

近頃、日常自分でも使っている言葉にも、ハッとさせられることが多いです。

例えば、「一生懸命が、自分の道を切り開く」という言葉。
今日、これからお世話になっていくだろう先生からいただきました。

僕はこれまで、この当たり前の言葉から、どれほどの意味を捉えられていただろうか。
そして、今はどうだろう?

自分の体験の蓄積から、何となく言葉のイメージがつかめるようになってきた今日この頃。そのイメージには、今まで自分が感じたこともないようなことも含まれていたり。こういったことが、成長といわれるものなのかな。


明日から、大学4年生。
あと一年。最高の年にする。


息抜き制作。

近頃、ブラウザ開いた時のホームページを、ブログを書く画面にしてみた。そうすると、ブログを書く機会がこんなにも多いのかと思うくらい、一日に何度もブログの画面を開くことになった。いずれわずらわしくなってやめるだろうけど、しばらくはこうしておこう。今の自分の体験や考えていることをアップするのが目的なのでね。書けるだけ書いてみよう。


今日は久しぶりにずっとプログラミングをしてました。こんなのができた。単純な動きなのに、結構面倒臭かった。これをhosoda氏が格好良くしてくれるわけです。何に使うかはこうご期待!

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たまにしかやらないけど、制作って面白い。自分がイメージしている通りにできないとイライラするし、自分がやったことない命令をするわけだから思考錯誤の繰り返しになるのだけれど、それが達成されると嬉しいし、ほっとする。また、それまでずっと頭の中がもやもやした状態でも、一生懸命考えて、出来上がってふと頭の中をのぞいてみると、すっきりしている。「よし!いろいろと残ってることを頑張ろう!」と思えるようになる。

プログラミングの場合は、答えが明確になっているもの(自分の頭の中に描いているもの)に向かって進んでいき、その答えにたどり着いたかどうかで成功か否かが分かる。僕は、この明確に分かる部分が好きなのだと思うんですよ。

こうして気分転換をさせてくれるものを、趣味と呼ぶのかな。まだ完成していないんだけど、久しぶりにやり切った感に浸っているので、アップしてみました。昔に比べて、少しは上手くプログラムできるようになってきた気がするが、どうだろなあ。会津行きが迫ってきた。



体験の見える化

DANNA projectで、Aizツアーを企画しているが、今日は会津で行う「体験の見える化コンテンツ」の練習をやってみた。ルールは、「ある行動(体験)をしている時に、その人が何を思っているかを拾い上げ、アーカイブしていく」というもの。記録写真を一枚と、行動者(体験者)が考えていることを拾い上げ、どんどん記録していく。


下記、僕の「コーヒー入れる体験」の見える化。
テーマは、「記録者(先輩)のために、癒しのコーヒーを入れる」
(めっちゃ寝巻きですみません。)

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イエイ


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ツアー参加者、もう少しだな。


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香りが良い


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「忙中閑有り」という世界観での癒しを提供したい


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カウンター越し、4年間の付き合いを思い出す

アコチャン

紙さんキャンプから始まる外との繋がり

しばちゃん


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赤いボスのコーヒーを買ってしまう

130円で他より高いのにデザインの良さに惹かれるのは細田氏の影響か


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ベルギー留学でブラックコーヒーを飲む練習をした

高校生のけんぢはコーヒーを飲む習慣がなかった

ベルギー留学ではレーンというカワイイ女の子がいたのに何もなかった



やってみて思ったこと:
「癒しのコーヒー」をテーマに、自分が考えていることを吐き出しているつもりだが、それに付随して色んなことを考えているものだなあ。
盛り上がってくると、テーマから派生して色んな話が出てくる。それをどんどん引きずり出す方向と、体験を通した考えをテーマに沿って拾い上げる方向とがある。今回はトライアルだったんで楽しくやったが、まだ煮詰めるところもありそう。でも、これはしっかり作ったらおもしろい。



一番取ってきました。

近頃バタバタしてます。日々、素晴らしい気づきや体験をさせていただいています。そうした体験を文字にすることの意味は、その気づきを形として保存する他に、自分が、自分の中にあるあやふやな感覚や感情を整理できることにあると思っています。なのでどんどん書きだしていきたいんですがね。できていない自分がいます。やれよ、オレ。


それはさておき、今回もまた貴重な体験をしてきました。相撲取ってきました。

sumo.JPGどうです?この男らしさは!!ちなみに、「写真撮り終わったらすぐに会場に戻るように」と、係員に注意されました。


現在、社会人の方々とビーチ相撲というプロジェクトを進めています。このプロジェクトは、「夏の浜辺にビーチバレー、ビーチフラッグスと並ぶ日本発信のスポーツを興したい!」との想いから、「夏、浜辺に、相撲を。」ということで、動いているプロジェクトです。
日本ビーチ相撲協会HP

僕は今年から関わっているのですが、すでにビーチ相撲大会は何度か開催されていて、どの大会も大盛況のうちに終わっているそうです。ある大会では参加者が100人近くにも上ったものがあるそうで、「相手を転ばせたら勝ち」という単純なルールで盛り上がれる相撲は、やり方によってはみんなに親しまれるものになるんだなということを感じています。


そんな中、「仮にも相撲を語るものが、まわしを締めたことがないのでは話にならない!!!」ということで、文京区の相撲大会に参加することになったのが、今回の出場のいきさつです。


大会控えての心境は、「一回くらい勝てちゃったりして・・・!」

大会終えての心境は、「相撲なめてました。」


この体験での気づき
・まわしを締めることには正直気おくれするが、締めてみると「オレはやれる!」という気持ちにあふれてくる。
・まわしをポンポン叩きたくなる。お相撲さんがよく叩いているが、あの気持ちが分かる。
・土俵で相手と見合わせると、本当に怖い。
・ほんの数十秒の試合でも、結構な力を使っていることが分かる(試合が終わると筋肉痛になる)。
・100キロ超の相手を押す・引く・投げることは、容易ではない。

このコミュニティは、角刈り・体重100キロ超確実の中学生が普通に歩いており、まわしを締めるのをユニフォームを着るのと変わらないように淡々とこなす人たちがいるというものでした。また、試合で当たったO君は、全国大会出場経験を持つ高校生で、鼻で笑われて片手でぶん投げられました。土俵を転がされるというのは、結構悔しいものです。


大会の後、相撲を見る目が変わりました。あの見合ってからの「ぶちかまし」を見ると、そのすごさに「口をあんぐり」できるようになりました。やはり、体験というものは自分の中に「ものさし」を作ってくれるものだと改めて感じました。そのものさしは僕の思い込み・意識のものでしかないけれど、このものさしは他のものにも使えるはず。そういったことの積み重ねが、新しいことを生み出すことにつながるのかなとも思いました。

でも、まわしを巻けてよかった。国技ですもの。一度は巻いてみないと。あ、ちなみにタイトルの「一番」とはそういう意味です。一回も勝っていません(笑) 次は勝ちたいな。



昨日は日経就職ナビサマーカレッジ「自己分析プログラム」に行ってきた。(受講生ではなくサポーターとして参加した。)前に「仕事発見プログラム」に行ってきたが、それの姉妹版みたいなもの。(「仕事発見プログラム」のとき感じたことについては、以前の記事「自分の価値観を、のぞき見る」に書きました。)


この自己分析プログラムは、面談という場をイメージしながら「自分のことを、どれだけ相手に伝えられるか。」を考えてみるというもの。実際に話をしてみながら、それを分析していき、よりよく伝えるにはどうすればいいかを考えてみる。

最初にいきなり自己PRをお願いする。そうすると、大体が自分の実績や性格から自分を説明しようとする。しかし、そこから「私はこういう人間です」と話しても、5人も6人もが順々に話してしまっては、なかなか相手の印象が自分の中に残るものではない。それはなぜか?一つの答えとしては、「相手に興味・共感を持てないから。」だと思う。

相手を知らない中で、「私はこういう人間です」と説明されても、なかなかそれを理解することは難しい。長い時間をかけて付き合っていくのであればそれはそれでいいのかもしれないが、面談という短い時間で相手に強い印象を与えたいのであれば、相手に自分の強い印象を与えて、自分を理解させようとしなくてはならない。そのためには、「相手の経験と自分の経験が結びつく言葉で話し、相手を自分に共感させる」。これが今回のプログラムの骨子だった。


ではこの「相手の経験と自分の経験が結びつく言葉で話し、相手を自分に共感させる」というのは、どういうことで達成できるか。ここでは、「過去体験から、自分がどのような価値観を得て、今に至っているか」ということを説明できれば、相手と自分を結びつけられるとした。

どういうことかというと、「僕はこういう人間です」と話すよりも、「僕は昔、○○という経験をして、その時にこういった価値観を得ました。その経験を通して、僕はこういう価値観を大事にしている人間になりました。」と話したほうが、相手の自分に対する理解が深まるということ。前者も後者も、「自分はこうい う人間です」と話していることに変わりはないが、後者は「こういう価値観を持っているから、こういう人間です」と説明している。まずこれだけで、前者よりも相手の自分に対する理解が深まる。さらには、「こういう体験を経て、こういう価値観を持つに至った」と説明している。これを説明すれば、相手は「この人 はこういう体験をしてきた人なんだな」という理解もできるし、また相手が「自身の体験からその人の体験を聞き、その人を知れる。」ということにつながる。 これが非常に大切。

例えば、「自分は25m泳ぐことができなかった。しかし、そこで先生から「人には長所も短所もあるもの。」と言われた。それから私は自分の長所・短所を見分けられるようになるととも、例え最初に他人の悪い面を見たとしても、その人のいい面を探せる人になった。」と言ったとする。そうすると、それを伝えられた僕は、自分の短所を露呈した経験を思い返しながら、その先生が言ってくれたアドバイスを自分へのメッセージとして 置き換えて、かつその人が「そういう風に成長した人なんだな」と思いながら、その人を認識できるようになる。僕は25mを泳ぐことはできます。ただ、懸垂を何回もすることができないので、留学していた時、体力測定で友人らに冷やかされた経験があります。僕はこの話の「短所」という言葉では、それをイメージします。その中で先生の「長所・短所がある」という言葉を受けて、「そうだそうだ。僕は腕立て伏せなら友人らよりも出来たんだ。」と思いました。(体力測定における)僕の長所は「腕立て伏せ」で、短所は「懸垂」だったわけです。その上で、「私は相手のいい面・悪い面を見れる人だ」と言われると、「なるほど。そういう経験を経てるから、この人はいい面・悪い面を見られる人なんだな」と理解でき、相手の印象が自分の中に強く残る。

さらに、ここでその時どんな感情だったかや、それを受けた前と後の自分の変化なども一緒に話すとより深く広範にわたって自分を説明できるようになる。


また、話をする中では、「数字」「ストーリー」「立ち振る舞い」「意外性」というものを含めると、より話が相手に伝わりやすくなる。特に数字なんて、世代や価値観を超えて共通認識を持てる言葉ですからね。これを含めると含めないとでは、相手に間違った印象を与える与えないの話までになる。


プログラム全般を通すと、1日に3回も自分のPRをすることになる。その中で、自分の価値観を掘り起こし、それを身につけた経験を思い出して、より相手にわかりやすくストーリーや数字を含めて、話をしてみる、というのを繰り返す。すると、結構相手にわかりやすく話せるようになるんですね。もちろんこれが最善の方法で、自分の全てを説明できるようになるとかそういうことではないわけだけれど、でも間違いなく相手に強い印象を残す話し方ではあると思う。


これから話をする時に、少し大事にしてみようかな。



色々あると、自分が「何のために」目の前のことをやっているのかが、分からなくなる。


「この方面に、こんなメリットを考えて~~」
「こっちのこういう要求を、しっかり踏まえて~~」
「落とし所としては、こんな感じが望ましいって話だから~~」


社会人でもないのに、気使って色々と調整ばっかしていると、「自分は本当にこんなことしたいのか?」と考えてしまう。


そんな状態から引きずり上げてくれるのは、やっぱり仲間。

話をしていると、自分よりずっと芯があることに気づかされる。どんな切り口から、どんな狙いでプロジェクトに参加しようと思ったのかを、思い出させてくれる。目の前のことに捉われすぎる僕。物事の全体が見えてねーのはお前だ、kenji。


社会人の真似事をするのは、社会人になってからでいい。安価な労働力の「学生」として、言い様に使われるのは腹が立つ。

自分が参加したいと思ったのは、何よりも「自分のため」。自分はここで何を得られて、それは今後にどうつながっていくか。「それ」にワクワク感を感じて、参加しよーと思ったんでしょーよ。そのワクワク感を勝手に忘れて、目の前の物事の調整に嫌気をさして、疲れを感じる。なんだそりゃ。


「誰かのために」という大きな目標を見れない僕は、「自分のために」最大のパフォーマンスを積み重ねていって、「結果として」全体に貢献するしか、できない。そこを忘れちゃ、ただのお荷物。


いつの時代も、持つべきものは素敵な仲間。

いやー、本当に、ありがとうね。



「ホームレスという人種はいません。ホームレス状態に置かれた人がいるだけです。」


これは、ビッグイシュー基金のウェブサイトの最初に載ってる言葉。今日、特にそれを感じた。

ホームレスワールドカップに向けて、隔週日曜日、練習を重ねている。今日もその練習だった。
(→ホームレスワールドカップについては、こちらの記事)

練習が終わると、それぞれが話しながらビッグイシューの事務所に戻る。今日の帰りは、僕はホームレスのAさんと話しながら帰った。


Aさんはもう、ずっと練習に来ている方。最初はあまり人とのコミュニケーションがうまく取れなかったものの、慣れ始めるとメキメキと頭角を現し、今じゃ戦力として数えられるほど(?)の上達を見せている。

帰り道、そのAさんと練習について話していると、雨が降ってきた。


Aさん 「雨だー。またいきなり降るやつかな。あれやられると大変なんだよなー。本濡れるし。人いなくなるし。」
kenji 「そうですよね。本とか濡れたら売り物にならなくなりますもんね。」
Aさん 「オレは屋根ある所に避難出来たり、そこで少し販売できたりするからまだいいんだけどな。でも暑い時は暑いで大変だよ。それでまた売れないんだ最近。」


このAさんがこぼした軽いグチが、僕にはとてもリアルだった。というのも、近頃外と言えば灼熱の暑さなわけです。そんな中、雑誌を掲げて声出して、頑張って売っているわけです。たまに街中でビッグイシューの販売員を見かけるが、日陰で販売できている人はほとんどいない。炎天下、もしくはゲリラ雨と闘いながら、雑誌を売っているわけ。

今日軽く交わしたこの会話が、僕の頭にずっと残っていた。「なんでだろうなー」と思っていたところ、以前名古屋の公園でホームレスの小屋の強制撤去があったときのことを思い出した。当時の僕は、全くホームレスの人とは関わったことがなく、一視聴者としてこの出来事をテレビで見ていた。

今思うと、テレビに映っていたホームレスの人や支援者を、僕は別の人種として見ていた気がする。どこか遠い人で、自分には関わりのない人。だから名古屋の出来事も、自分にとってはどこかの国の暴動の映像と同じ程度のものでしか見ていなかった。

大学の授業で大阪を行政を研究している教授が、大阪のホームレスを調査した際(日本では、ホームレスは大阪が一番多い)、その理由として「やむなくなってしまった」人が多いそうだ。

名古屋の出来事があった際、僕は少なからず「のらりくらりとした生活をしていて、勝手に公園に家を作って、それでも税金払ってなくて、良い身分だ」と思っていた。しかし、それは全くの偏見だった。勝手にホームレスという「人種」を自分の中に作り上げ、彼らはこういう生活をしているという先入観で彼らを見ていた。今日、Aさんとの会話になぜあんなにもショックを受けたのか。それはこの先入観が崩れ、人種を作り上げていた自分を自覚したからに違いない。


もちろん自分からホームレスになりたくてなる人もいるらしいが、それはほんのごく一部らしい。やはり大多数の人は、「やむなくなってしまった」人。その中でも多くが、「なんとかこの状況から抜け出そう」と思っている人なのだそうだ。


僕は貧困の問題に興味がある程度で詳しくはない。しかし、こういった情けない偏見を抱えていた自分を知った今、自分の出来る範囲で、何かしていきたいとは強く思う。その中で、サッカーでホームレスを応援する。自分もサッカーを楽しく練習出来て(今日コーチにフェイントをかけるときの体重移動を一人だけこっそり教えてもらった。)、本気でゲームを出来て、それで少しでも彼らとの接点ができ、自分の知っている彼らだけでも応援することにつながっていければ、これほど「自分のために、他人を幸せにする」ことはない。そう思うわけです。


ホームレスという人種はいない。それを強く自覚することができただけでも、このサッカーでは大きな収穫。ここから僕が彼らに具体的な応援をしていくことにつながっていけば、さらに収穫。



会津藩の教えの中に、「ならぬものは、ならぬ」という精神がある。

これは、田中玄宰の「天明の改革」以降に6歳~10歳までの会津藩の子供に教え込まれた会津藩士の心得の一つである。会津藩には、会津藩家老田中玄宰の進言で作られた有名な藩校「日新館」があり、そこには10歳から入学することが義務付けられている。その入学の前段階で、近所の子供たちがグループになり(このグループのことを「什(じゅう)」と呼ぶ)、グループの中で会津藩士として大切な心得を学ぶ。これが、藤原正彦氏が著書『国家の品格』の中で触れたことで有名な「什(じゅう)の教え」である。以下。


一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。


これが現在「什の教え」として知られているものだが、聞くところによると「什の教え」というのに決まったルールはなく、その子供のグループ(什)ごとで教えが違ったそうだ。グループで心得を学ぶこと自体は義務付けたらしいが、その内容設定にはある程度グループで考えさせて、決めさせたらしい。やっぱり自分たちで決めたルールなら、守らざるを得ないもんね。その辺り、良く決めましたね。(それにより各グループ(什)で心得の理解の仕方に差が出たのかは不明。出る気はするが。)


日新館に入ると、様々な学問を学ぶことになるが、この「什の教え」を理解していることは前提となる。それを示すのが、「人でない」「鳥獣以下」という言葉。


「戸外で物を食べてはいけない。」
「なんでですか?別に食べたっていいじゃないですか!」
「ならぬものは、ならん。」
「おかしいでしょう!食べてはいけない理由を説明していない!」
「お前は、鳥獣以下だ。」


こうなります。すごいですよね。少し押しつけてる観もあります。


しかし、この「ならぬものは、ならぬ」の理由を聞いて、僕は非常に感心しました。すげーですよ。


「ならぬものは、ならぬ」。なぜか。『そう簡単に、理解できるものではないから。』、だそうです。


どういうことか。


この教えは、6歳から10歳までの子供に教えられる。しかし、この段階で物事の何を理解できるか。

「なぜ、年長者の言うことに背いてはならないか。」「なぜ、虚言を言ってはいけないか。」ということは、他人から言葉で説明されても、簡単に理解できるものではない。「年長者だからって人は人だろう!基本的人権を尊重すべきだ!年齢間の差別だ!」とかなんとか論理だった主張ができるのかもしれないが、それでも、年長者の言うことには背いてはならない。こればかりは、「自分で将来的に理解すること」になり、その時までは「ならぬものは、ならぬ」として理解させておかなければならない。いつか必ず、「なぜ、ならぬものはならぬとして、教わったか」ということが分かる時が来る。そういう理念の下、それまでは「什の教え」は「ならぬものは、ならぬ」という形で押しつけ、それに逆らうものは「人でない」としてまで、教えを理解させ、守らせる。


もちろん今の時代には、受け入れられない教えがありますよね。「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。」とか、言語道断です。「年長者の言うことにそむいてはなりませぬ。」というのも、年長者が正しいということが前提になるんで、こんだけ時代の変化が激しかったり、国際化が進んでいたりすると、日本国内だけで培った考え方や人生観、生活観だけが、正しいかどうかも疑問ですし。

しかし、「子供に自分で気づかせるまでは、あえて押しつけておく」ということは、これは今の時代にも参考にできるものではないかと思います。その理由の一つは、子供が疑問に思うことの答えを言葉で伝えたとしても、それもまた大人の偏見による教えであるということ。もう一つの理由としては、子供がその教えを本当に理解できるとは思えないということがあります。

僕の個人的な経験でも、昔、先生に長々と説教されことが、当時は理不尽に思えたことでも今になると「そういう意味だったのか~。そういうことを伝えたかったんだな。」と思うことが多々あります。それは僕が成長する過程で得た経験などから、自分の言葉や考え方で、その内容を理解できるようになってきたからではないかなと思います。もちろんそれは、間違った理解の仕方かもしれず、先生も「そんなつもりで言ったんじゃない!」と思っておられるかもしれませんが(笑)、先生の教えが絶対的に正しいとも言えませんし、僕の理解の仕方も答えの一面であるとも言えます。


絶対的な正解のある物事というのは、そんなにはないと思います。その中で、何が正しいのかを「自分で」理解できるようになるまでは、子供に対しては「模範的な正解」を押しつけておく。そういったことは、必要なのではないかと思うようになりました。


これと同じ内容を、以前東京大学教授で哲学者の野矢茂樹氏にインタビューをしたときに、氏は「紋切型」という言葉で表現されていたことを思い出しました。改めてインタビューしたものを読んでみると、すげー気づきがありました。当時もまだ、氏の言葉を本当には理解できていなかったんだな。今もまだ理解できていないのかな。いや、今後はきっと、違う見方で氏の言葉を理解できるようになるのかもしれないですね。よければ、読んでみてください。

哲学者野矢茂樹氏インタビュー テーマ:思い込み



奇跡

春休みに、友人と二人でトルコに行った。僕は海外はヨーロッパしか行ったことがなかったので、「初中東だ!」と思っていたが、トルコも一応はヨーロッパみたいですね。

この旅では、本当にいろいろな経験をした。自分の甘すぎる海外認識を改めさせてくれた。今回は「奇跡」にしぼって記しておく。

イスタンブールに着いたのは夜中だったと思う。僕は飛行機の着陸が嫌いで、すぐに気持ち悪くなる。飛行場に着いたらまずトイレに行った。


ちょっとぼけているが、トルコのトイレマークの写真。ちょっとりりしいのが気になり、撮ってみた。

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また、中では、こんな文字が。

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「Please help us」とまで書いてあったのに、ビックリ。日本のトイレの節水を呼びかけるレベルとは、ちょっと違うような気がした。


その後、色々と旅をする中で、聖母マリアの家というところに行った。この家は誰にも知られていない家だったのだが、アンナという人がいきなりその家についてを語り始め、調べてみたら本当にあったという話。ここで聖母マリアは亡くなったとされている。

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違和感を感じたのは、この後だった。聖水を飲んだり、聖母の像の前でお祈りをしたりしていた。そろそろ行くと言われたので、バスに乗る前にトイレに行こうと思い、トイレに向かった。なぜか僕は、誰にも言わずにトイレに向かった。

近くにカフェを出しているおじさんにトイレの場所を聞き、入ろうとしたときに、気がついた。



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りりしさが、ない!!


聖母の前では、みな子供であるということなのでしょうか。お茶目ですよね。この旅で色々回ったけど、僕がこんなにトイレ行きたそうな看板を目にしたのは、ここだけでした。


それはいいとして、本当に奇跡を感じたのは、ココ。

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その土地にある美しさを感じました。こんな写真では伝えきれなくて残念ですが、四方それぞれが違う表情を見せ、その中に包み込まれているように、飲みこまれているように自分が立っている。全く知らず、言葉も通じない土地いる自分が、圧倒的な自然の存在感の中で心を癒すことができる。あの状況で美しさを感じられない人は、いないと思う。

『MASTERキートン』というマンガに、「自分は、自分が抱える世界からは脱することができず、自分と他者がまったく同じことを感じることはできない」と考える学者みたいな人が、あるオーロラを見て「ここにいる全てのものが、この瞬間、同じことを考えている」と確信するシーンがあるのですが(めっちゃ分かりにくてすみません(笑))、何が言いたいのかというと、美しさみたいに個人が評価するものに対して、万人が同じ美しさを感じ「てしまう」というのは、これこそ人が逆らえない力であり、「奇跡」と呼ぶものなんじゃないかなと思うのです。

ちなみにこの場所は、カッパドキアでバギー屋をやっている店があり、バギーでそこの少年に連れて行ってもらった場所です。このコースはリピーター率が高いんだとか(笑) 確かにそうだろうなー。また行きたいもの。



肯定的叱られ。

先日、久しぶりに怒られた。先輩にマジギレされた。理由は、僕の報告の怠慢。どんどん雑になっていることに、気がつかなかった。

いつもはニコニコしている先輩が、ブチ切れた。その先輩のすごいところは、ブチ切れ、怒鳴った後、少しするともうニコニコしている。しかし、この「気にしてないよ~。」という空気が、僕に自省を強く促す。

「いつものこと」をこなすって、すごく難しいことだと気がついた。知っていたけど、強く心に刻みつけられたイメージ。最初は「最終的な目的があって、今自分がやっていることがある」ということに気がついていて、次のステップの邪魔にならないように、もしくはより円滑に進むように、気をつけていたはずだった。しかし気がつくと、自分のしていることの目的は「それをこなすこと」になっていた。また慣れた作業だと、何を意識しなくても行える。ミスも起こりやすくなる。そこに気づいていなかった。結果、ミス発生。

「なんでここが抜けてんの?」
「あ、すいません。ついウッカリ。」
「ウッカリじゃぁねえだろうがああああああああ!!!」
(文字だと迫力でないのですが、こんな感じ。)

ビックリしました。久々に怒られた時の、「やべぇ」という感情を味わった。(余談になりますが、この「精神的な痛み」っていうのはどこでするのだろう?と考え、「やべぇ」という感覚の中、痛みの発生箇所を探っていた。やっぱり心臓のあたりが痛くなりますね。これが「心がハートで、心臓(付近)にある」と思われる所以だろうか。僕は前野隆司さんの考え方が一番しっくりきているので、心はこんなとこにはないと思っているが。心臓に血液がどんどん行ったりするのかな?するのだろうね。余談でした。)たぶん、僕の怠慢を薄々感じていたんだと思う。だって、しっかり最終的な目的を考えた上で自分の行為を行えていたら、日々の積み重ねで、当初よりは少しは進歩していたりしていたはずだし。経験が蓄積した分、「こうしたらもっと次がやりやすくなるんじゃないかな?俺も楽だし。」とか、そういう発想が生まれたはずだろう。でも、僕はただこなしていた。


しかし、今考えると、めっちゃいい経験になった。本当に、先輩に感謝。

あそこで怒られなかったら、こんなに気にしなかっただろう。「ウッカリじゃないよ~~(ニコニコ)」なんて言われてたら、ただミスしたところを直しておしまいだった。この怒られたことというのは、どこでもやりかねないことだし、今後やっちゃう可能性が多いにある。僕の場合なんて特に。その中で、どれだけ「気をつけよう」と意識する感覚が続くか分からないが、今は日常一つの行動にもしっかり気をつけるようにしている。このまま習慣になってしまえばいいなあ。

中学や高校で部活をやっていた頃、先生によく怒られた。しかし、その怒られたときの受け止め方が今とは全然違った。叱られるっていうマイナスなことから、相手が何のためを思って叱ってくれたか、それを今後にどう生かすかを考えられるようになった。僕も少しは、「肯定的叱られ」を身につけてきているのかな。(これというのを若いうちから身につけておけば、その分その子は色々要素の吸収力を身につけることになる。これというのは、どうしたら教えられるものだろう?これも余談。)

いい経験をしたし、これを忘れたくないので、将来の自分へメッセージを記しておこう。


kenjiへ

【日常の行動すべてに最終的な目的があり、その目的の身近な達成ゴールとして、今取っている行動のゴールがある。その最終的な目的をしっかり意識して、日常の行動・ルーティンワークなどを行うこと。その最終的な目的に少しでも寄与するような改善を、しっかり考えながら行動していくこと。】


最近は「ほめること」に注目が集まっている気がしているが、上手い叱り方であればこれも非常に効果を上げるものになる。このバランスが大切になるわけですな。

でもやっぱり、叱られるって良くないね。たまに、理不尽に叱られることだってあるしね。



CIMG3530.JPGのサムネール画像
30日の夜から1日にかけて、福島県の会津に行ってきた。ここには、あるプロジェクトの一次の調査という位置づけで行ってきた。このプロジェクトに関しては追々書こうと思う。

今回、会津で経験できたことは、特に今の自分にとって、非常に意味のある知見と考え方をもたらした。その中で、今回得たものを要素に分けて、記しておく。


近年高い食の安全性が求められている。その中で、現在人気沸騰中の「有機野菜」を育てている農家のIさん宅に泊めさせてもらい、その生産過程の一部を見させていただいた。

会 津は非常に肥沃な土地らしい。会津という土地は盆地のため、昔大雨が降った時には、山から高い栄養分を含む粘土が流れてきて、ここに堆積したのだそうだ。 このため会津は豊作と凶作にほとんど差がないことで知られており、1993年の冷夏の時も、会津を残した福島全域は大きな被害を受けたのに対し、会津では 逆に豊作であったそうだ。さらに、会津は災害の少ない地域で、南方にある日本アルプスのおかげで、台風が来ない。そのため水害も少なく、農業を営むには最 適の土地だと言う。(この辺りは良く分からないので、調べて追記しておこう。)


今回僕らが行ったのは、トマトの収穫と、じゃがいもの選別だった。

Iさんは、農薬を一切使わない有機農法で 野菜を作っている。Iさんは、「有機農法と化学肥料を使った農法とどう違うのか。その違いは一点だけ。『野菜に苦労をさせるか否か。』だけ。」と言う。化 学肥料は人工的に作られた肥料だが、この肥料の長所でもあり短所でもあるところは、野菜に栄養素を送ってあげることなんだとか。そのため、野菜は根をそこ まで張らずとも栄養をたっぷり吸い取ることができきる。この野菜はある程度大きく育つは育つが、味もある程度までしか育たない。「それに「加えて」、健康 に良くないとかそういう話なんだよね。」とIさんは言っていた。しかし、有機農法で用いる肥料では、野菜にとって必要な栄養素が簡単には吸収できない。野 菜は受け身では栄養を吸収できないため、根を張って吸収できる面を広げながら、自ら栄養素を吸収していかなくてはならない。それには自然の成り行きだけで は難しく、途中でダウンして死んでしまう野菜もあるので管理をしっかりしなければならないが、その末大きくなった野菜の味は、化学肥料のものとは比べ物にならないそうだ。

「こっちの方がウマい。だから僕はこっちのやり方で野菜を育てる。化学肥料を使うと健康に良くないとかなんとか言われてるけど、この味を知ってしまったら、まず化学肥料は使えないんだよね。」

I さんの野菜は、どれも新鮮な、かつ食欲のそそる匂いをガンガン放っている。その匂いに誘われてくる虫は後を絶たない。その虫とうまく付き合っていきなが ら、必要な分を収穫し、出荷したり地元の人たちに持って行ったりする。地元の人はお返しにと、Iさんに収穫物やらもらったものやら、少し多めに買ったもの など、様々なものを持ってくる。その話をしているIさんは非常に楽しそうだった。


ここまではいい話。Iさんの野菜は本当に美味しい。本当に。みな、食べたくなるだろう。では、そのプロセスはどうか。

Iさんに連れられてトマトを育てているビニールハウスに行った。Iさんは様々な野菜を、必要な分だけ育てているので、ビニールハウス自体はそこまで大きくなかった。しかし、そこの暑さと○○の多さが半端じゃない。

CIMG3661.JPGのサムネール画像
ト マトが広がる。顔を赤らめこっちを見てるやつから、青白い顔して興味なさそうにしたを向いているやつがいる。Iさんは完熟したトマトを出荷しているので、 うっすら顔を赤らめているやつではダメ。日焼けして顔を真っ赤にしているやつでもダメ。大恥かいて、顔から火が出そうなやつ。こいつを収穫する。

こ の収穫を困難にするもの。暑さ。なんせ暑い!!!直射日光がガンガン降り注ぎ、ビニールがその光を吸収し、だけど逃がさない。地球温暖化の恐怖を感じなが らの収穫(ウソ)。僕らは3人で収穫をしていたからいいものの、これがIさんとIさんの奥さんだけなら大変だ。収穫時期を見逃すと、「ゴチになります」と 言わんばかりに虫が寄ってくる。彼らに先を越されてからでは遅い。


さらに収穫を困難に、というか、いやにするもの。

CIMG3665.JPGのサムネール画像
そ うです。蜘蛛です。彼らが本当に、心を折ろうとしてくる。写真には3匹しか写ってないけど、あり得ないくらいいた。何年も放置されているのか、ビニール シートの屋根の下に、蜘蛛の巣でできた屋根がある。そこには無数の蜘蛛と、間違えて遊びに来てしまって帰れなくなってしまった虫が住み着いている。

また、当たり前だけど苗と苗の間にも巣を作る。いい色をしたトマトがあるので手を伸ばすと、蜘蛛の巣にぶち当たる。そこいら一帯の蜘蛛が一斉に動き出し、巣 にかかった(壊した?)獲物の方に向かってくる。「うわっ!」となって手を振りはらって立ち上がると、今度は頭で巣を破る。メガネに巣がついたり、髪の毛 に蜘蛛が住んだり。

別に蜘蛛はきらいではないんですが、好きじゃないです。こんなことで地元の人に「都会っ子」と笑われたくはなかったので、我慢です。もっとも、だんだん慣れてくると、そこまで気にならなくなる。でも、顔とかで蜘蛛の巣に突っ込むと、マジで萎えた。

さらにさらに、少し悲しくなったことですが、下記の写真を見てください。これ、片方は売りに出せない商品。どっちが売りに出せない商品でしょうか。両方とも完熟。

CIMG3671.JPG正解は、左ですね。左が売りに出せない商品。理由は、ケツのところ。

CIMG3672.JPG
ちょ こっとです。ちょこっとヒビが入ってしまったので、売り物にはならなくなったのだそうです。「これ売れないんだ~~」と思うと、悲しくなりますよ。あの暑い中、蜘蛛と闘いながら一生懸命もいで、でもこんなんで売れないんですから。テレビで食糧危機を騒いでいるのを思い出すと、馬鹿じゃないかと思ってしまう。食べていいと言われたので、食ってやりました。僕トマト大好きなんですが、マジで美味しかった。ガツガツ食って、ヘタはそこらにポイする。完熟なのに 意外と皮が堅くて噛み心地があり、かつフルーツのごとく甘い。最高でした。なんて種類だろう?聞かなかったな。


トマトの収穫を終えると、次はじゃがいもの選別。これまでに収穫したじゃがいもから、状態のいいもの、少し削れたりネズミに食われたりしているけど、他の部分は食べられるもの、腐っているものに分ける。この作業が、地味だけど大変。

CIMG3683.JPGのサムネール画像じゃがいもも普通の農家では、農薬を使って腐らない対策をしているそうだ。腐るのは菌が原因なので、その菌を殺す薬をまけば、多少傷ついても腐りはしない。しかし、有機農法だとそんなことはしない。傷んだものは、ガンガン腐る。

さらに迷惑なことに、この腐ったもの(僕らは「お腐りさん」と呼んでいた。以下、お腐りさん。)は、隣の健康なじゃがいもも腐らせる。これにより、一つの ケースに一つでもお腐りさんが入っていると、全部とは言わないまでも、ケース中のじゃがいもが腐っていく。また、匂いも強烈。そんなじゃがいもを出荷するわけにはいかないので、お腐りさんと、そのお腐り液をもらったじゃがいもは分けなければならない。

これが、お腐りさんら。

CIMG3687.JPGのサムネール画像

すげー臭いし、お腐りさんは持つとぶよぶよする。もうこれに触れると萎えちゃう。菌の部分を触る手は、普通に仕分けてる手とは変えて使う必要があるため、できるだけ観察し、お腐りさんを見つけたら反対の手で持ち、捨てる。お腐り液をかかってしまったじゃがいもも天日で殺菌するので、別口にする。他、傷がついていたり、ネズミに食われてないかなどをチェックし、仕分ける。しゃがんだり立ったり、重いじゃがいもケースを運んだりと大変だった。一日やっただけなので、別に疲れも何もないが、農家の方はこういった作業を毎日繰り返す。農薬を使えばこの仕分けはもっと楽になるのに。


この経験を通して思ったこと。

「スーパーにトマトは生えない。美味い野菜の労力に感謝。」

っ てこと。僕らの食卓に当たり前に置かれるトマトとじゃがいもは、本当にプロセスがあるんですよ。僕がやったことなんてほんの一部で、ビニールシートの管理から、苗を植えるところから、きれいに洗って箱詰めするところから、誰かに渡されて運ばれてくるところから、僕らがスーパーで買って食卓に届くわけです。このプロセスを体感することが、人に感謝できるようになる上で、とても大事なことのように感じる。100円200円で買えるトマトに、このプロセスがあるんです。じゃがいもや、他の野菜だって全く一緒。魚だって肉だってお菓子だって。気づかされたなー。

また、農薬使ったものは反対だとか、科学肥料はどうだとかってのは、リアルを知らない人から言われるセリフのような気がする。「健康に気を使って、農薬を使用したものは買わない」だとかってのを良く聞くようになった近年であるが、てか僕もそういうのヤダけど、仕事として農業をやられるのであれば、農薬使っちゃいますよー。面倒だもの!!例えば 今まで農薬を使った農法をしていた人が、使わない農法に変えるとならば、そこには設備投資やら学習やらと非常に大きなコストがかかる。また、上手くいくかどうかも不透明だし、大量生産だってできない。しかも若い人ならともかく、年配の人なら怖いでしょう。そしたら変えないですよね。

Iさんは好きでやってるし、何より自分や自分の子供、自分の地域のためにやっている。それなら楽しくやれるかもしれんが、これを「食の安全のために仕事して、やれ。」とは言えないでしょう!「農薬使ってるところからは、買いません。」とか言いだされても、仕事はいきなりは変えられない。この労力は「金払ってるんだから」とかじゃ変えられないですよ。てか、そもそもどれだけ農家の人にお金を払えているんだろう?(今回はトマトだったので、しかも僕トマト好きなので、 トマトの無農薬の取引が、農薬の取引と比べてどれくらいで行われているのか、調べてみようかな。)


それにしても、いい体験でした。「いい体験」で済ませてしまうのは、Iさんに申し訳ないし、自分にとってももったいない。自分ができることは何か。Iさんから野菜買ったりかな?皆に伝えることもそうか?何かしていかないと。



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/WINPEACE LLP
  • theme/「良さ」の追求
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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