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年の瀬ですね。早いもので2008年も終わります。

ふと部屋を見渡すと、自分の製作物が転がっている。目に見える形で物事を終われるというのは、非常にいい気分。

年末だからというわけでもないけれど、ふと今の自分を考えてみると、少し我がままになってきたかと思う。むしろ、我がままに「なれてきた」というべきか。

相手に合わせるのではなく、まず自分がどう思うかを率直に表現する。今振り返ると、僕は今まで相手視点で合わせる傾向が強かった。ここは少し変わってきた。

ただ、自分が思うことをそのまま表現するだけがいいことだとは思わない。相手視点で物事を伺えるということも、長所だと思う。

どっちがいいというわけではないけれど、少し自分の心の中が変わってきた気がしているという話。



小学に学んでる

昨日報道ステーションで、「ドバイのバブル崩壊」をやっていた。1年前、友人と海外旅行の計画をしていたとき、「ドバイに行って世界の大富豪を目の当たりにしてみるのもいいね」と話していたのを思い出した。もちろん番組編集のせいもあるだろうが、テレビの中のドバイは完全に色あせていた。


そんなのを見ると、僕なんかは、「豊かな人生って何なんだろうな~」とか思ってしまうわけです。
確かに1年前に存在していた「豊かな人生のゴール地点」は、完全にその色を失っていた。それを目にすると、今まで自分の内にあった「豊かさ」の意味に疑問を感じる。今でも僕は「豊かな人生」を望んでいる。だけど、その意味は1年前と変わってきている。

そういえば、近頃「勝ち組」「成功」「幸せ」の言葉が目に入らなくなった。もしかしたら「豊かさ」の意味を問い直しているのは、僕だけじゃないのかも。もしくは、今まで自分の中にあった「勝ち組」「成功」「幸せ」の意味が変わってきているから、それらの刺激・情報に反応していた僕のセンサーが反応を示さなくなったのか。


そんな中、近頃安岡正篤の「小学」を読んでいる。
『人物を創る 人間学講和「大学」「小学」』/安岡正篤著

この「小学」というのは、中国の宋代の儒学者である朱子が先達の偉大な人たちの残したものから範となるものを編集して、書物としたものだそうだ。この小学には、「体現・体得を重んじた知行合一の学問」が記されており、また人間が人間として生きる上で大切なことは何かという示唆が書かれている。

小学では、豊かさを「自分の内に探すよう」にと言っている。今の僕には、この考え方は結構しっくりくる。まあ自分の頭や心が「今の自分は豊かか豊かでないか」を決めているのだから、心を常に豊かな状態にしておけば、外の世界はどんなだろうと関係ないというのも、考えとしてはよく分かる。

でもそれ以上に、僕は外の世界においても豊かでいられ、かつ自分の心にも豊かでいられる答えというのも、やはり自分の内にあるんじゃないかと思います。そんなメッセージを小学から受けている。


社会に出る準備をしている時期に、自分の考え方・価値観を問い直す機会が訪れたのは、ある意味幸運かもしれない。もうちょい自分が安易に使っている「豊かさ」について、考えてみたいと思う。


ちなみに、小学の中にある僕の好きな言葉で、「知識ばかり覚えてはいけない。ただ知識を覚えるためだけに学問をして人間を損なうのであれば、そんなものはしないほうがよろしい。」というものがある。ごもっともだと思う。




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9月14日から15日にかけて、会津若松を訪問してきた。今回の旅は「会津のアツい大人」をインタビューすること。僕たちはこの「アツい大人」という言葉の定義を、「自身の人生背景から社会・個人の問題点を見出し、その解決に向けて人生をかけて活動している人」としている。前回インタビューさせていただいた人も、みな「アツい大人」としてインタビューのお願いをさせていただき、話を伺ったわけです。


今回最初にインタビューをさせていただいたのは、アルテマイスターという仏壇を取り扱う会社の執行役員である飯束時雄さん。飯束さんも、これまた腰の低い人であった。「自慢・高慢、バカのうち」なのだな。凄い人には「謙虚さ」が必要ということは、会津で学んだ良いこと。 →アルテマイスター公式HP

このアルテマイスターは創業1900年(明治33年)という長い歴史を持つ会社。昔ながら仏壇の製造から塗り、販売までをやっている会社であり、今ではそれは国内唯一のメーカーになってしまったそうだ。さらに、近年では「変わらぬ祈りの新しいかたち」をテーマに、インテリアデザイナーの内田繁氏による「新しい仏壇」や「新しい位牌」が発表され、展開されている。


このインタビューではいろいろ聞きたいことがあった。一番単純に疑問に思っていたことは、「そもそも、仏壇って形を変えていいの?」ということだった。

仏壇の形を変えるのには、もちろん理由がある。それは、「現代のライフスタイルに合わない」こと。東京の様にマンション・アパートの中に仏壇を置くことは難しいし、核家族化が進んだ中では、家に仏壇がないことはめずらしくない。(我が家にもない)その中で、「新しい時代・ライフスタイルに合った形の仏壇・位牌が必要だ」と考えられたそうだ。

僕は最初、これに抵抗を感じた。というのも、仏壇とは「あの形だから、意味があるのではないか」と感じていたからだ。つまり、あの形であるからこそ、亡くなった先祖が住み、お祈りを捧げる対象になるのではないか?それがいくら有名デザイナーの作品とはいえ、なんでもかんでもモダン化してしまっては、ましてや位牌までモダンな形になってしまっては、「仏壇である必要性」が無くなってしまうのではないか?、と感じたわけです。

とはいっても、今の仏壇は大きすぎて、現代のライフスタイルに合わないというのは事実。「やっぱり企業生き残りのためにはそういう展開の仕方は必要だよな」と思っていたところ・・・・・・アルテマイスターの考えは、向けている対象が違うことに気がついた。


彼らが対象にしているのは、仏壇うんぬんではなく、「そこに祈りがあるかどうか」。


祈りとは、僕みたいに都会生まれ都会育ちの人間には、バカに聞こえることかもしれない。それは目に見えず、効果があるのかないのか分からない非合理な行為で、ある種宗教的な響きが強い言葉である。ではその祈りとは何なのか?何の意味があるのか?飯束さんは、「祈りは大きなつながりを意識する行為であり、感謝の気持ちを持つ行為である」と言う。そして仏壇は、その祈りを行う場なのだそうだ。


昔の仏壇とは、「祈る場」という役割を持ってそれぞれの家に存在していたらしい。その祈る目的とは、様々なものへの「感謝」。「この世に生を受けたことに対する感謝」や、「一日を始めさせてくれ、その日一日を無事に過ごせたことに感謝」、「親や友人、先祖や子孫にまで対する感謝」などであった。ちょっと宗教的な言い回しにはなるかもしれないが、「自分は大きなつながりの中で生かされているんだな」という意識を日々確認させるということを、「祈る」という行為をさせる場所として存在することで、仏壇は行っていたそうなのだ。

しかし、江戸時代の「寺請制度(檀家制度)」が制定されたことで、「全ての人はどこかの寺の檀家になること」という法律が定まる。これにより寺院は経営を安定させるが、同時に寺院の堕落が進み、制度制定前は一周忌から三回忌くらいまでの追善供養が一般的だったのに対し、制定後は三十三回忌まで増える。こんなに追善供養が必要なのかと言う人々の批判が"葬式仏教"(葬式のときにしか必要とされない仏教。日本の仏教を揶揄して呼ぶ)として認知されるようになったそうだ。さらに今では日本は仏教国ではないため、葬式時の形式として仏壇が残り、「葬式のときに必要なもの」として認知されるようになった。

つまり、本来の仏壇のあるべき姿は、今の日本で認知されている仏壇のものとは大きく異なったものであるのだ。

もちろんもはや仏教国ではない現代日本において、仏壇を敬遠する方もおられるかもしれない。それはそれでもちろんいいのだが、それでも、飯束さんは「今の人々には仏壇、もしくはそれに代わるものが必要だ」と言う。なぜなら現代社会、特に東京などの大都市において、「祈りと感謝の欠如」は広く見られるからである。ではなぜ、「祈りと感謝」は欠如したのか。答えはいろいろあるだろうが、今の僕としては、「命と命のコミュニケーションから、大きな力を感じることが無くなったから」のように感じる。


昔の日本は農業大国であった。その中で、農業とは紛れもなく「命と命のコミュニケーション」であった。間違いなく同じに田植えをし、稲を見守って育てても、「今年は豊作、来年は凶作」となってしまっていた。その中で、自分では影響を及ぼせないプロセスとそれを働かせていると思われる"大きな力"に対して、「豊作をお願いします!」という祈りと、「(豊作で)ありがとうございます!来年もよろしくお願い致します」という感謝の気持ちは生まれたんじゃないかと思っている。また、ご飯を食べるときに「いただきます」、食べ終わったときに「御馳走様でした」という言葉が出ることも、「頂く」ということに対する感謝、「料理を作る際に走り回ってくださったこと」への感謝というのが根付いていたのだと思う。

しかし現代農法は、「安定供給・大量生産」のために農薬や化学肥料によって農作物を「コントロールする」。この改善によって、現代農法では毎年安定した量の作物を収穫するに至っており、今の僕たちの食生活を支えてくれるようになったが、この間に「命と命のコミュニケーション」のプロセスは消え、"大きな力"に対する祈りや感謝も消えてしまったんじゃないかと思う。


その中で、仏壇を「祈る場所」として認識した上で家に置いてあれば、「祈り」をする習慣が生まれる。ただ毎日祈ることを繰り返すだけでも、何かに対して「感謝」の気持ちが芽生えてくる。それでいいのだそうだ。

「別に仏壇でなくてもいいのです。家のどこかにでも、「祈りの場」があればそれでいい。今欠如してしまっている祈るという習慣。これが広がれば、日本社会に様々なものに対する「感謝の気持ち」が再び芽生えてくる。そうすれば、近頃起こっている怖い事件もなくなり、いい社会になるのではないかと思うのです。」と飯束さんは言う。


僕自身、「祈る」ということをしっかりと考えたことがなかった。僕は日頃から熱心に祈ったりはしない。でも、今回のインタビューを通して、自分が大きなつながりの中にいるんだということに、改めて気づいた。そのつながりを意識すると、先祖に「ありがとう」という気持ちも生まれてくるし、こうしてパソコンを開いていていられることに「電気を作ってくれてありがとう。このパソコン作ってくれた人ありがとう。」という気持ちにもなる。生活のあらゆる場面で僕が使うものを通して、「生かされてるんだな」と感じることができ、それにも「ありがとう」と思えるようになる。そう考えてみると、「祈る」というのは意識的なもので、非常に身近にある行為なのかなとも思えてきた。


正直分かったような、分かってないような。「コレが祈りだ!!!」と言えないからなんだろうけど。それでも、仏教徒でない僕にとっての「仏壇の必要性」が腑に落ちたことというのは、非常に良かったなと思います。




先日、明治大学リバティホールで、ビッグイシュー日本版100号記念&5周年記念イベントが行われた。僕はホームレスサッカー・ワールドカップに関わっていることもあり、行ってきた。
ビッグイシュー日本公式HP


このイベントでは、「若者とビッグイシューの未来を考える」をテーマとして、一部では脳科学者の茂木健一郎氏が講演し、二部で精神科医の香山リカ氏と新聞記者の大津和夫氏が対談をした。

イベント全体を通しては、ビッグイシューが社会に対してどんな貢献をしているかから、今のホームレス事情や若いホームレスがなぜ生まれてくるのか、それが貧困の連鎖からもたらされているのであれば、それらをどうやって断てばいいのかといった話になった。

僕がこのイベントで強く印象に残ったことは、茂木さんの「偶有性」の話と、大津和夫さんの「海外の地方自治体による若者のソーシャル・インクルージョンの方法」の話。


茂木さんはよくテレビに出られる方なので、初めて見たのによく知っている顔だった。

彼は若いころにイギリスに留学しており、そこで日本のホームレスとイギリスのホームレスの違いや、一般人との付き合い方の違いに気づいて、日本のホームレスをなんとかしたいと思っていたそうだ。そんな中でビッグイシューが日本で始まり、多くのホームレスが利益を手にし、さらに一般人との交流を持つ機会も手にしたということで、嬉しく思っているそうだ。

おもしろかったのは、やはり科学者的な意見。茂木さんは「人生には偶有性が前提としてあり、自分が他の人でもあり得たことに気づくことよって、人に優しくなれる。」と話した。

偶有性とは、「他でもあり得たのに、たまたまそれになった」ということらしい。つまり人生の偶有性とは、「他の人生にもなり得たのに、結果としてこういう人生を歩み、現在こういう立場として生きている」ということになる。(人生の偶有性という言葉の使い方が正しいかどうかはわからないが。)茂木さんのお母さんは、1945年8月9日に小倉にいたらしい。お母さんが茂木さんによく言ったのは、「小倉が曇っていなかったら、(原爆が投下されたはずから)あなたはいなかったのよ」ということだったそうだ。つまり、小倉が曇っていたら茂木さんは存在していなかったかもしれないが、小倉は曇っていたので茂木さんは存在している。偶有性ですね。

この偶有性を思うと、ホームレスなど困った状況にいる人に優しくなれるそうだ。なぜなら、自分もその状況になっていてもおかしくないから。(もちろんこれからなる可能性もある。)相手の立場に「共感」していると言えるかもしれないが、僕の中では「相手と自分を同義にする」というイメージ。「相手が自分でもあり得たわけだから、相手は自分だ!」となるのが僕の中での「偶有性を思う」ということ。

その中で茂木さんは、そういったホームレスの人を支援する方法として、ビッグイシューを買えるというのは非常にありがたいと話した。その理由はしっかりビジネスとして成り立っているので、堂々と支援できるからだそうだ。昔は自分の持っている500円玉をホームレスにあげたいなと思った時、わざと靴ひもを結ぶふりをして置いてきたりしたんだとか。しかし今は、販売者から雑誌を買うことで、自分も本を得られるし、販売者にも利益をもたらすことができる。無理でない形で販売者を支援できることが、無理な形でホームレスを支援してきた茂木さんにとってとてもすごいことだと強調していた。


ちなみに、この偶有性の話は突っ込みの意見を受けていた。「「自分がホームレスになり得たかもしれない」を想像すれば、相手を自分のように支援するということだったが、それだけではその人の気持ちを本当に理解することはできないし、相手の立場に完全には立てないじゃないか。」といった意見だった。これはホームレスの人を、ホームレスの立場になって支援している方にとってはもっともな意見だと思うし、ここは僕としても悩ましいところ。

その中で茂木さんは、「確かに偶有性を思うだけでは相手の本当の気持ちを知ることはできないし、本当に相手の立場にはなれないですよね。」とした上で、「それでも、偶有性を思って相手を想像することは大切。また社会は突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えではできていなく、もっと複雑なもので脆弱性を抱えたものだ」と言われた。

突っ込みの意見の根底としてあった単一の考えとは、「ホームレスの人を本気で思い、本気で支援しようとするのであれば、まず相手の立場に立ってから支援をすることが大切。それ以外は結局は上から見下ろしていて、本当に相手の立場に立てていない。それでは本気で支援はしていない。」とした考え方(だと僕は解釈しています)。これには、「そう言われてしまえばそうかもしれない」というところがありますよね。「でも、それではダメだし、社会は成り立っていかない。だから偶有性を思うことが大切」というのが茂木さんの意見。なぜなら、多くの人は、みんなビジネスの中で競争をしているから。

一般的な資本主義の社会があって、それぞれが生産をしていて、そこから社会に利益が生まれて消費されてそれがまた生産を生んで、、と循環をしている。しかしその中では、その循環からこぼれ落ちてしまう人がいる。そこが社会の脆弱性であり、それを補完する形でビッグイシューのような社会企業が生まれてきて、その人たちには救いの手を差し伸べ始める。だけどその中には、その人たちと同じ立場から手を差し伸べられる人もいれば(ビッグイシューに努めたり、ホームレスと一緒に生活しながら支援をしたりする人)、競争をしながら差し伸べる人もいるわけで(一般的な生活の中で少しずつ支援をする人)、逆に言うと全ての人が同じ立場から手を差し伸べては、誰が社会に利益をもたらしていくのか?という話になる。だから全ての人が同じ立場に立って支援の手を差し伸べるのではなくて、全ての人がそれぞれの立場から、「偶有性を思って」くらい弱くて強いような拘束力を持つの考え方をすることで、それぞれの形で支援できる。結果としてそれは一番現実的で効果を上げられる形になる。

またその中でビッグイシューのように「雑誌を買う」という簡単な支援行為と面白い記事という自分にしっかりとした利益がもたらされる形は、さらに気軽な偶有性を思った結果の行為として取組みやすいでしょう、ということ。


僕は大学に行けない人が多くいる中で、大学に通わせてもらっている。僕は多少なりともホームレスの支援に興味はあるが、でも自分の生活は切り捨てられないと思っている。だから、さっきの単一的な考え方は僕の中にもあるので、いつも悩まされている。その中で、自分の偶有性を思いながら、「僕もこうなったかもしれないし、こうなるかもしれないから、自分と思って支援しよう」という考え方は、僕の立場を肯定できもするし、かつ支援の意欲や理由を失わずにいられるので、非常にいいものだと捉えている。また、それが自分の限界かとも思うのです。


そんなところで、茂木さんの話は面白かった。


また、新聞記者の大津和夫氏は自身がイギリスで調査をしたときの自治体による若者支援の形を紹介していた。その形は、若者を社会に取り込んでしまおうというもの。まさに「ソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)」!でも、僕はまだ「Social Inclusion」の定義や内容を詳しくは知らないので、ここでは話されていたことだけを記しておく。

イギリスでは、学校にいる間から若者を社会に取り込んでいこうという活動をしているらしく、コネクション・サービスというのがあって、学校に来なくなった若者の家やたまり場に行って、彼らを積極的に社会に取り込んでいこうとするのだそうだ。この取り込む先は学校ではなくて、社会活動とかそういうことになるんだろうね?だって学校に戻すというのだったら日本の先生だってやっているし。

また、スウェーデンの自治体では、若者が「ロック・コンサートを開きたい!」といった内容にも、お金を出すのだそうだ。それはなぜか?という問いに対しては、「若者は立派な市民の一人であり、どこに彼らの社会への参画を拒否する理由があるのか?」と逆に聞かれるほどだそうだ。日本だと、「ロックなんかに我々の税金を出すなんて何事だ!!」とかになりそうですよね(笑)


上記二つの取り組みは一定の成果を出しているのだそうだ。この二つの共通点は、「有り余った若者の力を、いい方向に持っていかせる土壌を作っている、もしくはある程度出来上がっている」ということなのだろうか。


「日本の若者は元気がない」といったイメージで語られることがよくあるが、そんなことはない。夜遅くまで起きて外を歩いていられる元気だってあるし、性欲だって昔と変わらずあるし。夜の街で力を有り余らせている若者は非常に多いと思う。その力をどういう風な方向で発散させたら社会にいいかを考えて、道筋を作れれば、結構いい結果が出ると思うのだが。もちろん文化的にとか思想的な限界は出てくるだろうけれどもね。



昨日は日経就職ナビサマーカレッジ「自己分析プログラム」に行ってきた。(受講生ではなくサポーターとして参加した。)前に「仕事発見プログラム」に行ってきたが、それの姉妹版みたいなもの。(「仕事発見プログラム」のとき感じたことについては、以前の記事「自分の価値観を、のぞき見る」に書きました。)


この自己分析プログラムは、面談という場をイメージしながら「自分のことを、どれだけ相手に伝えられるか。」を考えてみるというもの。実際に話をしてみながら、それを分析していき、よりよく伝えるにはどうすればいいかを考えてみる。

最初にいきなり自己PRをお願いする。そうすると、大体が自分の実績や性格から自分を説明しようとする。しかし、そこから「私はこういう人間です」と話しても、5人も6人もが順々に話してしまっては、なかなか相手の印象が自分の中に残るものではない。それはなぜか?一つの答えとしては、「相手に興味・共感を持てないから。」だと思う。

相手を知らない中で、「私はこういう人間です」と説明されても、なかなかそれを理解することは難しい。長い時間をかけて付き合っていくのであればそれはそれでいいのかもしれないが、面談という短い時間で相手に強い印象を与えたいのであれば、相手に自分の強い印象を与えて、自分を理解させようとしなくてはならない。そのためには、「相手の経験と自分の経験が結びつく言葉で話し、相手を自分に共感させる」。これが今回のプログラムの骨子だった。


ではこの「相手の経験と自分の経験が結びつく言葉で話し、相手を自分に共感させる」というのは、どういうことで達成できるか。ここでは、「過去体験から、自分がどのような価値観を得て、今に至っているか」ということを説明できれば、相手と自分を結びつけられるとした。

どういうことかというと、「僕はこういう人間です」と話すよりも、「僕は昔、○○という経験をして、その時にこういった価値観を得ました。その経験を通して、僕はこういう価値観を大事にしている人間になりました。」と話したほうが、相手の自分に対する理解が深まるということ。前者も後者も、「自分はこうい う人間です」と話していることに変わりはないが、後者は「こういう価値観を持っているから、こういう人間です」と説明している。まずこれだけで、前者よりも相手の自分に対する理解が深まる。さらには、「こういう体験を経て、こういう価値観を持つに至った」と説明している。これを説明すれば、相手は「この人 はこういう体験をしてきた人なんだな」という理解もできるし、また相手が「自身の体験からその人の体験を聞き、その人を知れる。」ということにつながる。 これが非常に大切。

例えば、「自分は25m泳ぐことができなかった。しかし、そこで先生から「人には長所も短所もあるもの。」と言われた。それから私は自分の長所・短所を見分けられるようになるととも、例え最初に他人の悪い面を見たとしても、その人のいい面を探せる人になった。」と言ったとする。そうすると、それを伝えられた僕は、自分の短所を露呈した経験を思い返しながら、その先生が言ってくれたアドバイスを自分へのメッセージとして 置き換えて、かつその人が「そういう風に成長した人なんだな」と思いながら、その人を認識できるようになる。僕は25mを泳ぐことはできます。ただ、懸垂を何回もすることができないので、留学していた時、体力測定で友人らに冷やかされた経験があります。僕はこの話の「短所」という言葉では、それをイメージします。その中で先生の「長所・短所がある」という言葉を受けて、「そうだそうだ。僕は腕立て伏せなら友人らよりも出来たんだ。」と思いました。(体力測定における)僕の長所は「腕立て伏せ」で、短所は「懸垂」だったわけです。その上で、「私は相手のいい面・悪い面を見れる人だ」と言われると、「なるほど。そういう経験を経てるから、この人はいい面・悪い面を見られる人なんだな」と理解でき、相手の印象が自分の中に強く残る。

さらに、ここでその時どんな感情だったかや、それを受けた前と後の自分の変化なども一緒に話すとより深く広範にわたって自分を説明できるようになる。


また、話をする中では、「数字」「ストーリー」「立ち振る舞い」「意外性」というものを含めると、より話が相手に伝わりやすくなる。特に数字なんて、世代や価値観を超えて共通認識を持てる言葉ですからね。これを含めると含めないとでは、相手に間違った印象を与える与えないの話までになる。


プログラム全般を通すと、1日に3回も自分のPRをすることになる。その中で、自分の価値観を掘り起こし、それを身につけた経験を思い出して、より相手にわかりやすくストーリーや数字を含めて、話をしてみる、というのを繰り返す。すると、結構相手にわかりやすく話せるようになるんですね。もちろんこれが最善の方法で、自分の全てを説明できるようになるとかそういうことではないわけだけれど、でも間違いなく相手に強い印象を残す話し方ではあると思う。


これから話をする時に、少し大事にしてみようかな。



ポケット 般若心経

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友人が「これ、般若心経を限りなく分かりやすくした本だわ!」と言って見せてくれた。

母がクリスチャンであり、僕もキリスト教の考え方が強い人間であるのだが、読んでみると、本当に分かりやすく、しかも面白い。まえがきに書いてあるが、般若心経「思い切って」現代語にしたのだとか。意訳も意訳、「超」訳だそうだ(笑) しかし、それによって般若心経がすごく身近になり、仏教の知恵を僕に届けてくれた。

僕の心に残ったものをいくつか。


不生不滅(ふしょうふめつ)
人は不安を抱える。しかし、その不安とはどこにあるのだろうか?心の中にある?でも、そのどこにあるのか?どこにも見当たらないでしょう。探してどこにも見当たらない不安など、もともと存在しないということ。「ないもの」に怯えていても、しょうがないということ。

これに関して、前にイギリスの有名な医者の、「明日の自分に鉄のカーテンを引き、昨日の自分に鉄の扉をしなさい」という言葉を読んだことがある。彼が言っているのは、「一日の区切りで生きなさい」ということだった。つまり明日も昨日も想像でしかなく、自分が認識できる「自分という存在とその人生」は、イマ・ココにしかない、「ならば今を生きなさい、さらに自分を一日一日に区切ってその日の自分を懸命に生きなさい。」ということが彼の教えなのです。「昨日の失敗は昨日の自分の失敗であり、今の自分とは関係ない。明日の自分の心配は、明日の自分が考える。今の自分とは関係ない。」そう考えられるかどうかです。これは結構大切な気がしています。もちろん失敗を反省し、次に生かさなければ成長なんてないのは百も承知でしょう。計画的な準備も必要なのは当たり前。しかし、「心配」だとか「おびえ」だとかいうものについては、「今の自分には関係のないこと」と考えられれば、それだけで心に余裕ができる。その余裕を作り出せる考え方ならば、それは素敵な考え方だと言わざるを得ないし、それは採用していきたい(笑)


色々あったけれども、もう一つ。これも非常に共感できる知恵。


「死は不幸ではないと信じたい。なぜなら死は誰にでも訪れる。人は死に向かって生きている。死が不幸であるならば、人は不幸に向かって生きていることになる。それじゃあ、おかしいだろう。」



今日は朝から、日経就職ナビサマーカレッジの「仕事発見プログラム」に参加してきた。

多 くの大学3年生が、「自分の仕事を発見しよう!!」という意気込みでやってきていた。もちろんこんなところで自分に最適の仕事なんて見つけられるものではない。このプログラムのゴールは、「じゃあ、自分に最適な仕事を探すのは、どうやんの?」という質問に対する一つの答えを示すことだった。

ここで示した一つの答えとは、「自分の価値観こそが、自分にとって最適な仕事を見つけてくれる」というものだった。


今、 日本には100万社とも言われる数の株式会社があるらしい。その中では様々な仕事が行われ、それら一つ一つが僕らの生活を支えている。その中で、もし仮に「自分にとって、この中から最高の会社を見つけたい!」と思っているとしたら、この星の数ほどの会社を一社一社つぶさに観察し、自分にとってどの会社が最高かを考えなくてはならない。でも、それは無理よね。100万だもの。

そうすると、自分の中である程度の判断軸を持つ必要が出てくる。すなわち会社を選ぶ基準であるが、今の時代ではこれが往々にして「人気企業」「有名企業」「高収入企業」「安定度抜群企業」などになってくる。今の多くの就活生はこの軸を参考にして、100万社のうちから自然と会社を選んでいって、その中から「自分に合った最高の企業」を探してしていく(とりあえず大手企業は大人気)。では、その選び方は上手くいってるのか。これも上手くいってない。なぜなら、3年で30%~40%の人が仕事を辞めているから。

「なぜ3年で仕事を辞めるのか」を調べている人によると、今は以前に比べて「元々辞めるつもりで入社した」「入ってみたはいいものの、自分が求めていた企業ではなかった」という人がすごく多いらしい。「元々辞めるつもりだった」組の人たちは、一度企業に入ってみて、企業とはどんなところかを経験したうえで、 「自分にとっての最高の仕事を探そう!」と思っているのだそうだ。でも、それじゃあ君にとっての就職活動は何だったのか?と問いたくなる。個人的には、大学卒だとすれば学生生活で何をしていたのか。学生生活をどういう風に捉えて過ごしていたのかが気になるところ。だって、別に企業に入ってそんなことしないでも、大学生活の内にそれをやってしまえばよかったわけだし。

また、「入ってみたはいいものの、自分が求めていた企業ではなかった」組も同様で、就職活動で何をしていたのだろうと思う。「自分が求めていた企業ではなかった」のに、入ってしまったわけで。


その中で、自分も就活生として思うことは、就職して3年で辞めてしまう人が3割もいるのは、就職活動は上手く出来ていないんじゃないかということ(もちろんキャリアアップのための転職や、意味のあるステップアップとして辞職している人も含まれているはず。彼らが会社を辞めることは否定すべきことではないが、どれくらいいるかという数字が分からないのでここでは無視)。ではどこに原因があるのかというと、やっぱり就職活動を始める最初の段階の、100万社の企業の前での、「【この中から】自分にとって最高の企業を見つけたい!」という発想と、それを選ぶ基準をみんなが持つ基準で選ぶことがが間違っているのではないかと思うのです。理由は、自分の志や価値観を実現する「仕事の場所」として会社を選べていないから。

仕事をする上で必要なことは、「自分は何を成すか。」になると思う。まずそれを学生期で考えることは前提になるが、その考えるプロセスを経ると、自分は社会に出るにあたり「何を成すために、何をしたいのか」の答えがぼんやりと出てくる。(もちろん答えは一つじゃないし、そんなに明確にはならないと思うので、ずっと悩み続けると思うが。)そこまできて、初めて「じゃあ自分がしたいことのできる企業はどんなところがあるのか。」と会社を探せるようになると思うんです。それがなければ、起業してしまえばいいし。

「じゃあ自分は何を成すか。」と考えた時に、何がそれを導き出してくれるのか。それが「価値観」だと思う。

結局、みんながみんな同じことが大切だとは思わないわけです。じゃあ何が個人にそれを大切だと思わせるのかというと、その個人が積み上げてきた経験や、受けてきた教育・考え方→まさに「価値観」になる。だから、それを無視してみんなが一様の基準で会社を計ったとしても、それがその個人にとって最適の計り方だとは限らない。「人気企業」だとか「高収入企業」だとかはとても魅力的だけど、『今の僕にとっては』そこで40年働いていくには、その基準で計るだけじゃ足りないわけです。今の僕にとってそこで働くには、「社会にどんな貢献をしたビジネスをしているのか」だとか、「この会社は環境問題を改善してく方向で利益を上げる仕事をしているのか」だとか、そういう基準で計ることが必要になる。この基準は僕が考えるプロセスを経た上で、僕の「価値観」がもたらしたものであり、僕以外の人には全く重要ではないかもしれない。でも、個人個人がその基準を見つけて判断してこそ、「【自分にとっての】最高の仕事」を見つけられるのではないかと思うのです。


今回のプログラムで行った「価値観発見ワーク」では、今の僕の重要な価値観は「自分のために、他人を幸せにすること」「責任・こだわり」「目的」だった。前にやったときとちょっと違ったけれども、やってみて今の自分を表してるなとすごく思った。


長々と思っていることを書いたが、とはいっても最終的に自分の将来を決めるのには、非常に強いエネルギーが必要なんだろうな~と感じる。だって怖いもの。決めてしまうということは。じゃあどうすりゃ自分の最終決定に自信を持てるようになるだろうかね。やっぱ自分自身に、自信をつけることかね?



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/WINPEACE LLP
  • theme/「良さ」の追求
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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