My Acceptでタグ「個性」が付けられているもの
年の瀬ですね。早いもので2008年も終わります。
ふと部屋を見渡すと、自分の製作物が転がっている。目に見える形で物事を終われるというのは、非常にいい気分。
年末だからというわけでもないけれど、ふと今の自分を考えてみると、少し我がままになってきたかと思う。むしろ、我がままに「なれてきた」というべきか。
相手に合わせるのではなく、まず自分がどう思うかを率直に表現する。今振り返ると、僕は今まで相手視点で合わせる傾向が強かった。ここは少し変わってきた。
ただ、自分が思うことをそのまま表現するだけがいいことだとは思わない。相手視点で物事を伺えるということも、長所だと思う。
どっちがいいというわけではないけれど、少し自分の心の中が変わってきた気がしているという話。
ふと部屋を見渡すと、自分の製作物が転がっている。目に見える形で物事を終われるというのは、非常にいい気分。
年末だからというわけでもないけれど、ふと今の自分を考えてみると、少し我がままになってきたかと思う。むしろ、我がままに「なれてきた」というべきか。
相手に合わせるのではなく、まず自分がどう思うかを率直に表現する。今振り返ると、僕は今まで相手視点で合わせる傾向が強かった。ここは少し変わってきた。
ただ、自分が思うことをそのまま表現するだけがいいことだとは思わない。相手視点で物事を伺えるということも、長所だと思う。
どっちがいいというわけではないけれど、少し自分の心の中が変わってきた気がしているという話。
今日はThink the Earthプロジェクトのイベント,
[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から
に参加してきた。
→Think the Earth オフィシャルサイト
このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。
この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。
僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。
確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。
②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。
参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。
例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。
また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。
④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、
「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」
という文章を、
「花束がドアを開けた」
という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、
「草木も眠る丑三つ時」
とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。
⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。
最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」
40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。
もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。
今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。
⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。
とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。
よかった。次は何を得られるか楽しみだ。
[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から
に参加してきた。
→Think the Earth オフィシャルサイト
このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。
この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。
僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。
確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。
②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。
参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。
例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。
また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。
④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、
「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」
という文章を、
「花束がドアを開けた」
という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、
「草木も眠る丑三つ時」
とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。
⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。
最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」
40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。
もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。
今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。
⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。
とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。
よかった。次は何を得られるか楽しみだ。
僕はアルバイトで洋服を売っています。そこでの話。
仕事はどれもそうだと思いますが、洋服屋というのもハプニングやクレームがよく発生します。服が汚れていたり破れていたりとこちらの不備がほとんどですが、「サイズが合わないんで、取り替えてください」と去年の春シーズンの服を出されたり、「配送でお願いします」と言われて配送の書類まで書いてもらったのに、自分で取りに来て服がないことに怒られたりもします。でも、そういうのは上司が対応してくれるので、僕はニコニコ笑って任せます。
問題なのは、怖い人への接客。
セール期間中のある日でした。いつもはパラパラ客が来る時間帯だけど、セールとなると色んな人が来ます。いつもはお店の前を横切られる方も、ちょっと見てみようかと寄ってくれます。いつもはヒマな時間でも結構忙しかったりします。
そんなとき、一人の男性客が来ました。
身長180前後、スキンヘッド、柄物のシャツ、猫背、首に入れ墨、サングラスにボブサップみたいな体つき、自分の肩幅の1.5倍くらい幅を取る歩き方。
第六感と言わず、全ての神経や感覚が僕に「離れろ!」と伝えてました。恥ずかしながら店員といっても人間ですので。何気なく商品をたたんでいると見せかけて、彼と絶妙の距離を保っていました。心の中では「何も気に入っていただけませんように」と考える。
でもそんなときに限って、ですよね。店の端から端まで届くような声で、「すいません!」と聞こえる。僕を呼ぶ声だ。
顔を上げると彼が手を挙げて僕を見ている。しょうがないというか、どうしようもないというか。覚悟も何もないまま、ビビりながら近づく。僕は身長は高い方だが、確実に彼の方が「大きい」。
しかししかし、「いかがいたしましたか。」と声をかけると、とても丁寧な言葉で、「これ試着したいんです。あと、このシャツの一番大きいサイズを探してるんですけど、ここになくて。在庫とかありませんかね?」
これにはびっくりですよ。というか、肩透かしを食らった感じで、余計に心臓の鼓動が聞こえる。なんか言葉が出ず、少しどもりながら「ただいま在庫を確認いたします。ご試着はこちらのお部屋をお使いください。」と案内する。彼は「はい。お願いします。」と一声かけてくれながら、部屋に入る。
「商品を確認しましたら、またお声をおかけいたします。その他で御用がありましたら、お呼びください。」
「はい。ありがとうございます。」
まだドキドキしながら商品を探す。もうセール期間なので在庫はほとんどなく、そのシャツも例外ではなかった。
さらに、この商品がないというのが、問題なのだ!普段であれば、商品が自店にない時は他店の在庫状況を確認し、商品があれば在庫を自店に送ってもらうというステップを踏む。しかしセール中はそれができないため、在庫を調べて他店にある場合でも、そのお店まで買いに行ってもらわなければならない。それを伝えると怒る客もいる。
これを伝えるのって結構気が重いんです。どこかのお店で似たようなことを言われたら、寛大な心で了解してあげてください。このときも僕は気が重かった。
しかしそれを伝えると彼は、「そうですか。それはしょうがないですね。機会がなかったということですね。」と言う。在庫の確認をするかと聞くと、「いえ、今度違うお店に行った時に、あれば買いますので。」と言う。
その後、シャツのサイズなどについて話したが、彼の言葉づかいは終始丁寧だった。会計を済ませ、「またお待ちしております」と言ったときの僕の言葉に偽りはなく、本当に「また来てくださいね」という気持ちがこもっていた。
長くなってしまったが、ここで言いたいことは彼がいい人であったということでなく、「見かけ」についてである。
よく、「人は見かけが大切」だとか、「第一印象で人は決まってしまう」だとか言う。たとえば就職活動生などは皆同じような恰好をしているが、きれいな恰好で悪い印象などは受けない。逆に金髪やアフロなどを見ると、気にしていなくてもどうしても自分の中でその人にイメージをつけてしまう。
実のところ、今までの僕の意見は「外見は主観で決めるべき」だった。外見は自分の内面を表す唯一の方法であるので、他人の目とか関係なく「主観」で決めるべきだと思っていたのである。つまり自分の印象を積極的に伝える格好・外観こそがいいということ。実際に反対派が多数を占めながらも、自分がある程度納得がいくまで髪の毛を伸ばしたりもした。
これにはもちろん答えはないのだが、しかし僕はこの経験を通して、「外見を決めるのは主観だというのも、ある程度のラインが必要なんじゃないか」と感じた。それは、自分が主観で外見を意味を込めて定めたとしても、他人はその意味を汲み取れないからである。例えばこの話の彼の格好に意味があったとしても、僕はその意味を汲み取れず、ただ怖がっただけだった。彼はただ好きでそういった格好をしていただけだったかもしれないが、僕は勝手に威嚇をされていた。振り返ってみると、あんなにいい人を僕は怖がっていたわけだ。外見には相手にこの余計な印象を持たせてしまう力があるのである。ちなみに僕が髪の毛を伸ばしていたのは、髪の毛を伸ばすことで、ジョンレノンのように愛を語れるようになるのではないかという仮説を立て、それを検証していたという理由からだった。これも説明をしないと「なぜ?」となったりした(ジョンの半分もいかない長さで結論付けてしまったが。)
じゃあ「ある程度のライン」は何かというと、僕らが文化的に共有している「普通の格好」との間のラインということになると思う。この「ある程度のライン」を超えた反対側には、典型的な日本の好青年の姿がある。相手に印象を与えない格好、皆が何も思わない格好とも言える。これを気にして格好を整えるのが就職活動生である。その地域の客観が文化的にいい印象だとして共有している格好であれば、相手の自分に対する印象に負担はかけない。しかし、問題としては個性がなくなったり、みんな同じになったりする。というか単純に自分がつまらない。
好きな恰好をしているだけなのに、相手に余計な印象を与えてしまう。かと言って皆が何も思わないような恰好では、「自分らしさ」が表に出ない。自分が楽しくない。そう思うと、外見とは自分が決めるべきなのか、客観視が決めるべきなのか、はたまた他の要因が決めるべきなのか、と迷うわけです。使い分けは大切ですけれどね。
いま読み返すと、何か当然のことを書いているなあ。
それでも心に強く残った気持ちなので、満足いくまで記しておこう。
仕事はどれもそうだと思いますが、洋服屋というのもハプニングやクレームがよく発生します。服が汚れていたり破れていたりとこちらの不備がほとんどですが、「サイズが合わないんで、取り替えてください」と去年の春シーズンの服を出されたり、「配送でお願いします」と言われて配送の書類まで書いてもらったのに、自分で取りに来て服がないことに怒られたりもします。でも、そういうのは上司が対応してくれるので、僕はニコニコ笑って任せます。
問題なのは、怖い人への接客。
セール期間中のある日でした。いつもはパラパラ客が来る時間帯だけど、セールとなると色んな人が来ます。いつもはお店の前を横切られる方も、ちょっと見てみようかと寄ってくれます。いつもはヒマな時間でも結構忙しかったりします。
そんなとき、一人の男性客が来ました。
身長180前後、スキンヘッド、柄物のシャツ、猫背、首に入れ墨、サングラスにボブサップみたいな体つき、自分の肩幅の1.5倍くらい幅を取る歩き方。
第六感と言わず、全ての神経や感覚が僕に「離れろ!」と伝えてました。恥ずかしながら店員といっても人間ですので。何気なく商品をたたんでいると見せかけて、彼と絶妙の距離を保っていました。心の中では「何も気に入っていただけませんように」と考える。
でもそんなときに限って、ですよね。店の端から端まで届くような声で、「すいません!」と聞こえる。僕を呼ぶ声だ。
顔を上げると彼が手を挙げて僕を見ている。しょうがないというか、どうしようもないというか。覚悟も何もないまま、ビビりながら近づく。僕は身長は高い方だが、確実に彼の方が「大きい」。
しかししかし、「いかがいたしましたか。」と声をかけると、とても丁寧な言葉で、「これ試着したいんです。あと、このシャツの一番大きいサイズを探してるんですけど、ここになくて。在庫とかありませんかね?」
これにはびっくりですよ。というか、肩透かしを食らった感じで、余計に心臓の鼓動が聞こえる。なんか言葉が出ず、少しどもりながら「ただいま在庫を確認いたします。ご試着はこちらのお部屋をお使いください。」と案内する。彼は「はい。お願いします。」と一声かけてくれながら、部屋に入る。
「商品を確認しましたら、またお声をおかけいたします。その他で御用がありましたら、お呼びください。」
「はい。ありがとうございます。」
まだドキドキしながら商品を探す。もうセール期間なので在庫はほとんどなく、そのシャツも例外ではなかった。
さらに、この商品がないというのが、問題なのだ!普段であれば、商品が自店にない時は他店の在庫状況を確認し、商品があれば在庫を自店に送ってもらうというステップを踏む。しかしセール中はそれができないため、在庫を調べて他店にある場合でも、そのお店まで買いに行ってもらわなければならない。それを伝えると怒る客もいる。
これを伝えるのって結構気が重いんです。どこかのお店で似たようなことを言われたら、寛大な心で了解してあげてください。このときも僕は気が重かった。
しかしそれを伝えると彼は、「そうですか。それはしょうがないですね。機会がなかったということですね。」と言う。在庫の確認をするかと聞くと、「いえ、今度違うお店に行った時に、あれば買いますので。」と言う。
その後、シャツのサイズなどについて話したが、彼の言葉づかいは終始丁寧だった。会計を済ませ、「またお待ちしております」と言ったときの僕の言葉に偽りはなく、本当に「また来てくださいね」という気持ちがこもっていた。
長くなってしまったが、ここで言いたいことは彼がいい人であったということでなく、「見かけ」についてである。
よく、「人は見かけが大切」だとか、「第一印象で人は決まってしまう」だとか言う。たとえば就職活動生などは皆同じような恰好をしているが、きれいな恰好で悪い印象などは受けない。逆に金髪やアフロなどを見ると、気にしていなくてもどうしても自分の中でその人にイメージをつけてしまう。
実のところ、今までの僕の意見は「外見は主観で決めるべき」だった。外見は自分の内面を表す唯一の方法であるので、他人の目とか関係なく「主観」で決めるべきだと思っていたのである。つまり自分の印象を積極的に伝える格好・外観こそがいいということ。実際に反対派が多数を占めながらも、自分がある程度納得がいくまで髪の毛を伸ばしたりもした。
これにはもちろん答えはないのだが、しかし僕はこの経験を通して、「外見を決めるのは主観だというのも、ある程度のラインが必要なんじゃないか」と感じた。それは、自分が主観で外見を意味を込めて定めたとしても、他人はその意味を汲み取れないからである。例えばこの話の彼の格好に意味があったとしても、僕はその意味を汲み取れず、ただ怖がっただけだった。彼はただ好きでそういった格好をしていただけだったかもしれないが、僕は勝手に威嚇をされていた。振り返ってみると、あんなにいい人を僕は怖がっていたわけだ。外見には相手にこの余計な印象を持たせてしまう力があるのである。ちなみに僕が髪の毛を伸ばしていたのは、髪の毛を伸ばすことで、ジョンレノンのように愛を語れるようになるのではないかという仮説を立て、それを検証していたという理由からだった。これも説明をしないと「なぜ?」となったりした(ジョンの半分もいかない長さで結論付けてしまったが。)
じゃあ「ある程度のライン」は何かというと、僕らが文化的に共有している「普通の格好」との間のラインということになると思う。この「ある程度のライン」を超えた反対側には、典型的な日本の好青年の姿がある。相手に印象を与えない格好、皆が何も思わない格好とも言える。これを気にして格好を整えるのが就職活動生である。その地域の客観が文化的にいい印象だとして共有している格好であれば、相手の自分に対する印象に負担はかけない。しかし、問題としては個性がなくなったり、みんな同じになったりする。というか単純に自分がつまらない。
好きな恰好をしているだけなのに、相手に余計な印象を与えてしまう。かと言って皆が何も思わないような恰好では、「自分らしさ」が表に出ない。自分が楽しくない。そう思うと、外見とは自分が決めるべきなのか、客観視が決めるべきなのか、はたまた他の要因が決めるべきなのか、と迷うわけです。使い分けは大切ですけれどね。
いま読み返すと、何か当然のことを書いているなあ。
それでも心に強く残った気持ちなので、満足いくまで記しておこう。

