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11月29日に、こども環境学会学生部コトナ主催のイベントに参加してきました。
友達のtatsuwat君が代表を務める団体。
(tatsuwatのやってることについて書いた記事→スリルとリスクと創造性)
テーマは、『美術教育って何?』だった。これ、結構大切だと思う。
僕は大学に入って、よく「見る」ことだとか目に見えないことを「感じる」ことだとかを学んだ。だけどそれまではそういったことは「よく分からない」で片づけていたし、美術の成績は良かったけれど美術は好きではなかった。
このイベントでは、とりあえず10分描いてみて、その後少し「描く」ということについて話し合ってみて、また描いてみた。(クロッキーというらしい。対象を描写すること。)
今回は講師の先生をクロッキーした。久しぶりにえんぴつと紙を持って描いてみたわけだが、妙に緊張した。特に何が分からなかったとか心配だったというわけではないのだが、とてもドキドキしていた。
クロッキーを終えると、座談会を行った。その場では自分が受けてきた「美術教育」を振り返り、何をどう感じたかを互いに言い合った。
僕は美術が好きではないと書いたが、よくよく考えてみると、中学までは好きだった。特に良いものを作れるわけではないが、何かを創作するということについて「自信を持って、楽しく」取り組んでいたことを思い出す。ただ、高校に入って嫌いになった。以後、美術はあまり好きでない。
なぜ高校で美術が嫌いになったかは分からない。また、特別大きなきっかけがあったわけではないが、一つ思い出すことがある。油絵の授業の時だった。花瓶や本を並べたものを描いていた。最初は普通に描いていたのだが、青い花瓶を描いたとき、「何か違うな」と感じた。どんどん青の色を塗り足して、陰になってるところ・光が当たっているところを再現しても、何か違う。それが何かを考えながら描いていると、先生が僕の絵を見て「kenji君には、まだ色が見えてないね。」と言った。僕は「色って何だ?」と思い、もっと濃淡をはっきりさせてみたり輪郭を描いてみたものの、まだ違う。するとまた先生が僕の絵の後ろに立って、「まだ見えてないね。よく見なさい。いろんな色が隠れているだろ?」と言う。まあ年頃の男の子だったので、かなりイラついた。全く見えなかったのを覚えている。その時ふと顔を上げると、目の前に油絵の絵が掲示されていることに気がついた。それは白い花瓶だったのだが、確かに、赤や黄色や緑で影の部分が描かれていた。「そういやゴッホの似顔絵の絵とかも、いろんな色で描いてあった!」と思いだし、すぐに持っている色全てを出して濃淡を描いた。すると、それっぽくなってきた。先生が見ると、「お、kenji君もようやく色が見えてきたね。」と言う。どんなもんだと思い、さらに描いた。提出した作品は高く評価され、成績も良かった。
これが別に美術嫌いの原因になっているかどうかはさておき、僕はこの授業で何を学んだのだろうとふと考えてみる。僕は最後まで「色」が見えるようにならなかった。というか、先生が言っていた「色」というのはどんなものなのかは、今も分からない。成績は良かったけれど、今となってはそんなものは関係ないし。
このイベントでは、美術教育の中に、特に「見る」という観察の力をつけるべきではないかという問題提起をしている。
眼は真実を映しているか?でも書いたが、物というのは「見えているようで、見えていない」ことが多いように思える。仮に眼が正しく映し出しているとしても、脳がそのとおりに認識しなければ、結局は間違って見えることになる。先ほどの油絵の話にしても、高校生の僕が「あの花瓶は青い。」と思い込んだ時点で、僕には青くしか見えないようになったのかもしれない。もしかしたら、先生にはもっと豊かな花瓶に見えており、それが歯がゆくて「kenji君には、まだ色が見えていないね。」と言ったのかもしれない。そう考えると、「物の見方」というのは見方を訓練すればより多彩に見ることができるようになるし、観察力もつくし、「思い込み」という存在にも気がつく。これは絵画や美術だけではなく、全ての分野に関連する。立派に教えるべき内容ではないか。
座談会の時に話を聞いていると、「美術が苦手だ」という人に限って、なぜかという理由を体験を交えて説明できていた。これが今の美術教育のやり方が悪いからだとか教員の質が低いからだとかに関係しているかは分からないが。
良い機会なので、もっとよく考えてみようと思った。少なくとも、絵を描く時に緊張するのだけは、なんとかしたいな。
→tatsuwat blog「おもちゃ論の覚え書き」
→こども環境学会学生部 コトナ
友達のtatsuwat君が代表を務める団体。
(tatsuwatのやってることについて書いた記事→スリルとリスクと創造性)
テーマは、『美術教育って何?』だった。これ、結構大切だと思う。
僕は大学に入って、よく「見る」ことだとか目に見えないことを「感じる」ことだとかを学んだ。だけどそれまではそういったことは「よく分からない」で片づけていたし、美術の成績は良かったけれど美術は好きではなかった。
このイベントでは、とりあえず10分描いてみて、その後少し「描く」ということについて話し合ってみて、また描いてみた。(クロッキーというらしい。対象を描写すること。)
今回は講師の先生をクロッキーした。久しぶりにえんぴつと紙を持って描いてみたわけだが、妙に緊張した。特に何が分からなかったとか心配だったというわけではないのだが、とてもドキドキしていた。
クロッキーを終えると、座談会を行った。その場では自分が受けてきた「美術教育」を振り返り、何をどう感じたかを互いに言い合った。
僕は美術が好きではないと書いたが、よくよく考えてみると、中学までは好きだった。特に良いものを作れるわけではないが、何かを創作するということについて「自信を持って、楽しく」取り組んでいたことを思い出す。ただ、高校に入って嫌いになった。以後、美術はあまり好きでない。
なぜ高校で美術が嫌いになったかは分からない。また、特別大きなきっかけがあったわけではないが、一つ思い出すことがある。油絵の授業の時だった。花瓶や本を並べたものを描いていた。最初は普通に描いていたのだが、青い花瓶を描いたとき、「何か違うな」と感じた。どんどん青の色を塗り足して、陰になってるところ・光が当たっているところを再現しても、何か違う。それが何かを考えながら描いていると、先生が僕の絵を見て「kenji君には、まだ色が見えてないね。」と言った。僕は「色って何だ?」と思い、もっと濃淡をはっきりさせてみたり輪郭を描いてみたものの、まだ違う。するとまた先生が僕の絵の後ろに立って、「まだ見えてないね。よく見なさい。いろんな色が隠れているだろ?」と言う。まあ年頃の男の子だったので、かなりイラついた。全く見えなかったのを覚えている。その時ふと顔を上げると、目の前に油絵の絵が掲示されていることに気がついた。それは白い花瓶だったのだが、確かに、赤や黄色や緑で影の部分が描かれていた。「そういやゴッホの似顔絵の絵とかも、いろんな色で描いてあった!」と思いだし、すぐに持っている色全てを出して濃淡を描いた。すると、それっぽくなってきた。先生が見ると、「お、kenji君もようやく色が見えてきたね。」と言う。どんなもんだと思い、さらに描いた。提出した作品は高く評価され、成績も良かった。
これが別に美術嫌いの原因になっているかどうかはさておき、僕はこの授業で何を学んだのだろうとふと考えてみる。僕は最後まで「色」が見えるようにならなかった。というか、先生が言っていた「色」というのはどんなものなのかは、今も分からない。成績は良かったけれど、今となってはそんなものは関係ないし。
このイベントでは、美術教育の中に、特に「見る」という観察の力をつけるべきではないかという問題提起をしている。
眼は真実を映しているか?でも書いたが、物というのは「見えているようで、見えていない」ことが多いように思える。仮に眼が正しく映し出しているとしても、脳がそのとおりに認識しなければ、結局は間違って見えることになる。先ほどの油絵の話にしても、高校生の僕が「あの花瓶は青い。」と思い込んだ時点で、僕には青くしか見えないようになったのかもしれない。もしかしたら、先生にはもっと豊かな花瓶に見えており、それが歯がゆくて「kenji君には、まだ色が見えていないね。」と言ったのかもしれない。そう考えると、「物の見方」というのは見方を訓練すればより多彩に見ることができるようになるし、観察力もつくし、「思い込み」という存在にも気がつく。これは絵画や美術だけではなく、全ての分野に関連する。立派に教えるべき内容ではないか。
座談会の時に話を聞いていると、「美術が苦手だ」という人に限って、なぜかという理由を体験を交えて説明できていた。これが今の美術教育のやり方が悪いからだとか教員の質が低いからだとかに関係しているかは分からないが。
良い機会なので、もっとよく考えてみようと思った。少なくとも、絵を描く時に緊張するのだけは、なんとかしたいな。
→tatsuwat blog「おもちゃ論の覚え書き」
→こども環境学会学生部 コトナ
今日はThink the Earthプロジェクトのイベント,
[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から
に参加してきた。
→Think the Earth オフィシャルサイト
このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。
この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。
僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。
確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。
②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。
参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。
例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。
また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。
④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、
「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」
という文章を、
「花束がドアを開けた」
という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、
「草木も眠る丑三つ時」
とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。
⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。
最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」
40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。
もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。
今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。
⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。
とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。
よかった。次は何を得られるか楽しみだ。
[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から
に参加してきた。
→Think the Earth オフィシャルサイト
このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。
この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。
僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。
確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。
②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。
参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。
例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。
また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。
④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、
「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」
という文章を、
「花束がドアを開けた」
という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、
「草木も眠る丑三つ時」
とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。
⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。
最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」
40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。
もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。
今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。
⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。
とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。
よかった。次は何を得られるか楽しみだ。
この疑問は非常に面白いと思う。答えはイエスであって、イエスでない。(もちろん「一つの答えはないかもしれないし、誰にもわからない」ということを言ってしまえばそれまでの疑問ではあるが。)
デザイナーをやっている友人が、「デッサンは瞑想と同じだ」と言っていた。どういうことかと言うと、「眼は真実を映し出しているが、人の脳はそれを素直に認識せずに思い込みで認識する。だからデッサンを極めたければ無にならなければいけないから、瞑想と同じ」だということ。
絵を描く時に、対象物を逆さにするときれいに絵が描けるということを聞いたことがあるでしょうか。例えば素人が有名画家の絵を模写するときは、模写する絵を逆さにして描いていくときれいに描ける。これは、絵を普通において描いていくと、脳が勝手に「この顔の輪郭はこういう風に描いてあるな」と思い込んで見てしまうため、きれいな線が描けないのだそうです。それを逆さにして描くと、脳はその顔を輪郭として捉えないので、一つの線として描けるのだとか。全部を描いたあとに自分の絵を逆さにしてみると、きれいに描けている。これは描写が上手いとか下手なのではなく、「眼が映しているものを脳が勝手に判断するか判断しないか」の違いであると言えるそうです。
ここでは絵を描くことを例えにあげましたが、この「見る」ということが思い込みで映し出しているのは日常生活でも同じだと言えます。それを考えると、例えば自分が嫌いな人の顔は「嫌い」に見えたり、好きな子の顔は「特に可愛く」見えたり、また少しお金を持っている印象がある人は「成金で偉そう」に見えたりすることがあると思いませんか?だって、それらはすべて人間の脳の「思い込み」で判断しているのですから。
そう考えると、嫌いな人がいたら「こいつはオレが嫌いと思っているから、嫌いに映っているんだ」だとか、「この人は全然偉そうじゃない。僕の頭が勝手に判断しているんだ」だとかを思えば、より相手を見つめることができるようになると思うのです。
にしても、本当のところはどうか分かりませんよね。「眼はいろんな情報をキャッチできる」とかも言いますから、眼を通した印象は意外とその人の人間性を表すのかもしれませんし。
どっちにしろ、どうやら「眼」を持つ人間ってのは、ものは映していても、素直にものは見ていそうにないってこと。
デザイナーをやっている友人が、「デッサンは瞑想と同じだ」と言っていた。どういうことかと言うと、「眼は真実を映し出しているが、人の脳はそれを素直に認識せずに思い込みで認識する。だからデッサンを極めたければ無にならなければいけないから、瞑想と同じ」だということ。
絵を描く時に、対象物を逆さにするときれいに絵が描けるということを聞いたことがあるでしょうか。例えば素人が有名画家の絵を模写するときは、模写する絵を逆さにして描いていくときれいに描ける。これは、絵を普通において描いていくと、脳が勝手に「この顔の輪郭はこういう風に描いてあるな」と思い込んで見てしまうため、きれいな線が描けないのだそうです。それを逆さにして描くと、脳はその顔を輪郭として捉えないので、一つの線として描けるのだとか。全部を描いたあとに自分の絵を逆さにしてみると、きれいに描けている。これは描写が上手いとか下手なのではなく、「眼が映しているものを脳が勝手に判断するか判断しないか」の違いであると言えるそうです。
ここでは絵を描くことを例えにあげましたが、この「見る」ということが思い込みで映し出しているのは日常生活でも同じだと言えます。それを考えると、例えば自分が嫌いな人の顔は「嫌い」に見えたり、好きな子の顔は「特に可愛く」見えたり、また少しお金を持っている印象がある人は「成金で偉そう」に見えたりすることがあると思いませんか?だって、それらはすべて人間の脳の「思い込み」で判断しているのですから。
そう考えると、嫌いな人がいたら「こいつはオレが嫌いと思っているから、嫌いに映っているんだ」だとか、「この人は全然偉そうじゃない。僕の頭が勝手に判断しているんだ」だとかを思えば、より相手を見つめることができるようになると思うのです。
にしても、本当のところはどうか分かりませんよね。「眼はいろんな情報をキャッチできる」とかも言いますから、眼を通した印象は意外とその人の人間性を表すのかもしれませんし。
どっちにしろ、どうやら「眼」を持つ人間ってのは、ものは映していても、素直にものは見ていそうにないってこと。

