My Acceptでタグ「成長」が付けられているもの
色んなことが瀬戸際。もっと物事に忙殺されている先輩がいるのに。
困難に直面したとき、「自分が成長するいいチャンスが来たな」と思いなさいという教えを、会津でいただいた。また、僕には有能すぎる仲間がたくさんいるんでね。自分のためにも、仲間に頼りまくって気張っていこうと思う。
頑なになって張ってはいけないけれど、気持ちだけは張っていける。気張っていこう。
良い春休み。
困難に直面したとき、「自分が成長するいいチャンスが来たな」と思いなさいという教えを、会津でいただいた。また、僕には有能すぎる仲間がたくさんいるんでね。自分のためにも、仲間に頼りまくって気張っていこうと思う。
頑なになって張ってはいけないけれど、気持ちだけは張っていける。気張っていこう。
良い春休み。
昨日、高校の友達20人弱くらいで忘年会をした。とても楽しかった。
人ってどんどん成長していくものなので、中学・高校・大学と、その時々の自分の成熟度によって作るコミュニティとか人間関係というのは変わってくると思うんです。だから自然と、中学・高校・大学では、「ノリ」が違ってくる。
また、その時の友達と会うと、当時の自分が戻ってくる(内面から浮き上がってくる?)感じがする。別にその自分を押し殺しているわけではないんだけど、勝手に自分が成長しちゃってるので忘れてしまっているのかもしれない。でも、その時々に自分がいたコミュニティの環境に囲まれると、その時の自分が戻ってくる。高校時代の友達との人間関係の中では、高校の時のノリの自分が表面化してくるので、大学生の自分の普通とは少し違ってくるわけです。普段とは別の楽しみがそこにあり、非常に楽しみました。友達っていいなって思いました。
当時の自分を振り返り、留学を経て大学に入って、今に至る。僕は現在社会起業だとかに興味を持つようになったけど、その「社会」って何を指すんだ?と考えたとき、やっぱりこうした友達だとか自分の周りを指していたい。その延長線、つまり「友達の友達」とか、「知人の知人」といったつながりで存在してくるものが、大きな意味での社会になるのだと思う。「社会のため」「他人のため」という言葉はマクロなものに見てしまいがちだけど、ただ友達との関係を自分が大切にしていきたいと思った時に、自分だけでなく他人のためも含めた生き方・働き方というものが、自分の選択するべきものになってきて、それが「社会起業」とか呼ばれるものになってくるのかなと思います。
今、ピーターセンゲが書いている『出現する未来』という本を読んでいる。内容は「物事を分断して考える既存の考え方から脱却して、『自分と他人』『自分と世界』を融合させて考えられるようになろう」みたいな感じなんだけど(まとめられるほど理解していないんです。。。)、ここでセンゲが言う『自分と他人を融合させた考え』というのが、まさに昨日感じたことなのかなと思いました。つまり、自分が大切だと思うもの(友達)があって、それを大切にしたいと思うと色々なこと(友達が大切だと思う事とか、コミュニティ環境のように、自分には直接関係なさそうな要因)を大切にしなければいけない。でもそれらを大切にすることは、結局は自分のためである、みたいに。これは簡単に言うと「みんなのため」ということになるんだろうけど、それをわざわざ自分との対比における「みんな」としないで、全てのものを融合させて考えようというのが、センゲの言いたいことなのかなあと思ったりしました。まとまりがなくてすみません。
→『出現する未来』/ピーターセンゲ、C・オットー・シャーマー、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズ著 野中郁次郎監訳 高遠裕子訳/講談社BIZ
今回の忘年会は、女性人が突っ走ってくれて盛り上げてくれたので、「次は僕が」という気持ちに溢れています。負けらんない。
またやりたいな。
人ってどんどん成長していくものなので、中学・高校・大学と、その時々の自分の成熟度によって作るコミュニティとか人間関係というのは変わってくると思うんです。だから自然と、中学・高校・大学では、「ノリ」が違ってくる。
また、その時の友達と会うと、当時の自分が戻ってくる(内面から浮き上がってくる?)感じがする。別にその自分を押し殺しているわけではないんだけど、勝手に自分が成長しちゃってるので忘れてしまっているのかもしれない。でも、その時々に自分がいたコミュニティの環境に囲まれると、その時の自分が戻ってくる。高校時代の友達との人間関係の中では、高校の時のノリの自分が表面化してくるので、大学生の自分の普通とは少し違ってくるわけです。普段とは別の楽しみがそこにあり、非常に楽しみました。友達っていいなって思いました。
当時の自分を振り返り、留学を経て大学に入って、今に至る。僕は現在社会起業だとかに興味を持つようになったけど、その「社会」って何を指すんだ?と考えたとき、やっぱりこうした友達だとか自分の周りを指していたい。その延長線、つまり「友達の友達」とか、「知人の知人」といったつながりで存在してくるものが、大きな意味での社会になるのだと思う。「社会のため」「他人のため」という言葉はマクロなものに見てしまいがちだけど、ただ友達との関係を自分が大切にしていきたいと思った時に、自分だけでなく他人のためも含めた生き方・働き方というものが、自分の選択するべきものになってきて、それが「社会起業」とか呼ばれるものになってくるのかなと思います。
今、ピーターセンゲが書いている『出現する未来』という本を読んでいる。内容は「物事を分断して考える既存の考え方から脱却して、『自分と他人』『自分と世界』を融合させて考えられるようになろう」みたいな感じなんだけど(まとめられるほど理解していないんです。。。)、ここでセンゲが言う『自分と他人を融合させた考え』というのが、まさに昨日感じたことなのかなと思いました。つまり、自分が大切だと思うもの(友達)があって、それを大切にしたいと思うと色々なこと(友達が大切だと思う事とか、コミュニティ環境のように、自分には直接関係なさそうな要因)を大切にしなければいけない。でもそれらを大切にすることは、結局は自分のためである、みたいに。これは簡単に言うと「みんなのため」ということになるんだろうけど、それをわざわざ自分との対比における「みんな」としないで、全てのものを融合させて考えようというのが、センゲの言いたいことなのかなあと思ったりしました。まとまりがなくてすみません。
→『出現する未来』/ピーターセンゲ、C・オットー・シャーマー、ジョセフ・ジャウォースキー、ベティー・スー・フラワーズ著 野中郁次郎監訳 高遠裕子訳/講談社BIZ
今回の忘年会は、女性人が突っ走ってくれて盛り上げてくれたので、「次は僕が」という気持ちに溢れています。負けらんない。
またやりたいな。
今日は、陶芸家宗像利浩さんの個展を、日本橋三越本店に見に行った。
宗像利浩さんは、享保四年(1718年)から続く宗像窯の八代目当主であり、僕が会津でインタビューをさせていただいた人。宗像さんは1997年の日本陶芸展で自身の名を含めた作品「利鉢」で準大賞を受賞し、その後2003年の同展覧会では文部科学大臣賞を受賞した。また、宗像窯伝来のにしん鉢は、六代目豊意氏の時にベルギーで行われた万国博覧会で最高賞のグランプリを受賞し、今でも国内国外からの注目を浴びている。宗像窯への秩父宮妃殿下の来訪もあったらしい。(ちなみに、宗像窯のにしん鉢は先日銀座の松屋銀座で行われていた「DESIGN BUSSAN NIPPON展」でも福島の物産としても出品されていた。)
その宗像さんは、本当に腰が低く、言葉を選んで話をしてくれる人。会津でインタビューをした際も、陶芸について何も知らない僕たちが発する初歩的な質問に対して、一つ一つ丁寧に答えてくださった。(インタビューについても、いずれまとめます。)
宗像さんが陶器の作り手として追い求められていることは、「用の美」だという。つまり「美」は作品としての茶碗や壷にあるのではなく、使われる過程の中に「美」があるということ。使われる中で茶碗が視覚・触覚に存在感を放ち、それが食事と一体となって食事を美味しくさせるところに、「美」あるというのだ。宗像さんは、「自分にとって出来がいいとか悪いとかはあるけれど、使われる方が自分にとって一番いい茶碗を選んで、それを大切に使われれば、次に自分が見た時に「いいと思うもの」と「悪いと思うもの」が逆になっていることがある。」と言う。それくらい使われる中で陶器(ここでは茶碗)が変化していくのだそうだ。
今日改めて宗像さんの作品を見させていただいて、やはり「本物」という存在感があった。特に触ると違いが分かる。肌ざわりはもちろん、手にのせた時の重さや重心に一つ一つ個性があって、自分に合うやつを見つけると、持っていて本当に「気持ちいい」。さらに上薬のかかりかたなどでいろいろな表情をしていて、「これにご飯よそったらどんなになるんだ?」と想像すると、それぞれ違ったイメージと美味しさが浮かぶ。
ちょっと余談だけど、「本物」ってその人の感覚に今までになかった感覚を植え付けるもののような気がします。評論家じゃないからうまく説明はできないけれど、「本物」は、作品にある色や形が持つ「きれいだなあ」という感覚に、さらに深い意味を付け加える。その意味は言葉ではうまく言い表せないから「きれいだなあ」しか言えないのだけれど、でも自分の「きれい」の意味の中に今までに感じられていなかった感覚や感情が残る。「ああ、こういうきれいさがあるのか」みたいな感じ。
さらに作品かはその作り手の想いだとか熱意、緊張感といったものが染み出しており、それにまたドキドキさせられる。もし自分でそういう力を持つものに出会ったならば、それは「本物」と呼んでもいいような気がしました。分かりにくくてすみません。
今日が初日だったのに、ウン十万の茶碗や鉢のほとんどに買い手が付いていた。一つ「これ欲しい!!!」と思った茶碗もあったが、自分が欲しいカメラが3つくらい買える値段なので、とりあえず触りまくって持ちまくって、感覚だけでも持ち帰ってきた。
個展の中で、宗像さんが時間を作ってくださったので、また少しお話をさせていただくことができた。今回のお話の中で非常に印象的であったのが、「自分を追い込む環境にいられるならば、それを幸せに思え。」ということ。
宗像さんは「自分の理想とするまであと少しだと分かっているんだけれど、その少しが遠い」という経験を幾度もされてきたそうだ。その間は苦しくて、もう無理じゃないかと何度も思われたそう。また話されてはいなかったが、そこには宗像窯八代目としてのプレッシャーや責任が重くのしかかっていたことは容易に想像できる。しかし、そういう時宗像さんは「これはチャンス。自分自身に革命を起こせる大きなチャンスである。」と考えるそうだ。
「人は自分の最大限の力は出せないもの。その力というのは、ギリギリまで追い込まれなければ出てこない。ということは、そういう苦しい時は自分の最大限の力を引き出すチャンスになる。その苦しい時を越えられたなら、その時は自分が今まで届かなかったものに届いているはず。」
やはり幾度とそれを体現されている方の言葉には、説得力がある。自分はどうなのかと振り返ると、お恥ずかしい限り。まだまだ自分を追い込めていない。都合のいい言い訳を探して、自分を正当化ばかりしている。
さらに、100キロマラソンと50キロマラソンをした人の例をあげられた。あるグループが100キロマラソンをしたのだが、ゴール直前に苦しくなり、ゴール出来なかった。とりあえず最初は50キロマラソンから始めようということで同じグループで50キロマラソンに挑戦したのだが、結局50キロマラソンでもゴール直前は苦しかった。
宗像さんは、掲げる目標は常に、「妥当な目標のはるか上」に設定しているそうだ。これもマラソンの例えと一緒で、「どうせやるなら高い位置にしておいた方がパフォーマンスは高くなるし、大変なのはどちらも一緒だから。」という理由だそう。昔、「100点を取りにいかないと、80点は取れない」という名言があったけど、やはり目標を高くし、そこまで行ってやろうとする中で、いいパフォーマンスが生まれてくるということだろうか。
個展で触れた「本物」に感動しきっていた僕だが、それを生み出している人は「追い込む」という言葉を大切にされていた。この「追い込み」→「不安・苦しみ」→「自分革命」→「追い込み」→・・・・というサイクルが、「本物」を生み出しているのだなー。そうすると、自分にもこの「追い込み」次第では、まだまだ隠された力を表出化できるということになる。これはまたワクワクしてくる。
ふと思い出したので、記しておこう。
あるプロジェクトで、制作物を作ることになったときのこと。僕をサポートしてくれた人は、プロとして活躍されている方。
結構専門的かつ、難易度の高いことを言ってくるわけです。ちょっと不安になった僕が、
「そうですか。ただ、その辺あまり経験がなくて、正直不安です。レベル的にも、未経験者との違いが分からない程度ですなんで。。。」
と言うと、
「そっかそっか。まだ学生さんだし、学びの時期だしね♪全然大丈夫だよ!!のぼってくれば♪」
と陽気に返された。
この「のぼってくれば」という言葉に、意表を突かれた。つまり「今、できなくて全然構わない。最終的にできていれば。」ということ。これを言われて、何も言葉が出てこなかったのを覚えている。
最初から何でもできる人なんて絶対にいないわけで、皆必ず「出来ない」から「出来る」へのプロセスを踏んでくる。だから、言われた時点で「何でもできる人間でいる必要はない」。最終的にできていればいい。その考え方を受け取った時、とても「なるほど~~~~!!!」と思ったのを覚えている。
でも、プロのレベルまでのぼってこいなんて言ってるわけですからね。「簡単に言わないでほしい」と思ったのも事実。
あるプロジェクトで、制作物を作ることになったときのこと。僕をサポートしてくれた人は、プロとして活躍されている方。
結構専門的かつ、難易度の高いことを言ってくるわけです。ちょっと不安になった僕が、
「そうですか。ただ、その辺あまり経験がなくて、正直不安です。レベル的にも、未経験者との違いが分からない程度ですなんで。。。」
と言うと、
「そっかそっか。まだ学生さんだし、学びの時期だしね♪全然大丈夫だよ!!のぼってくれば♪」
と陽気に返された。
この「のぼってくれば」という言葉に、意表を突かれた。つまり「今、できなくて全然構わない。最終的にできていれば。」ということ。これを言われて、何も言葉が出てこなかったのを覚えている。
最初から何でもできる人なんて絶対にいないわけで、皆必ず「出来ない」から「出来る」へのプロセスを踏んでくる。だから、言われた時点で「何でもできる人間でいる必要はない」。最終的にできていればいい。その考え方を受け取った時、とても「なるほど~~~~!!!」と思ったのを覚えている。
でも、プロのレベルまでのぼってこいなんて言ってるわけですからね。「簡単に言わないでほしい」と思ったのも事実。

