My Acceptでタグ「発想」が付けられているもの

今日はThink the Earthプロジェクトのイベント,

[アースコミュニケーション] ~伝える・繋げる・広げるチカラ~ 第1回 広報・広告の視点から

に参加してきた。
Think the Earth オフィシャルサイト


このイベントはNPO,NGOなど、社会の問題に対して気づきを得て、それを広く伝えていこうとしている団体に、「その気づきや想いを伝えるチカラをつけてほしい」ということで開催されているイベント。第一回の今回は、電通のコミュニケーション・デザイン・センターのエグゼクティブ・プランニング・ディレクターである白土謙二さんが講師を務められた。非常にしゃべりが上手な方で、とても楽しい講義だった。

この講義のテーマは「伝えるとは何か」ということ。白土さんから相手に伝えるには、どんな「コツ」があるかという話をいただいた。


僕が印象に残った話は下記。
①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
②誰に、何を。
③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
④擬人法を使え
⑤ルールをどう破るか
⑥KY理論(絡みやすい理論)


①メッセージの聞き手には、聞く義務がない
これは当たり前のようで、当たり前に受け止められていない話。特に僕にはそうだった。例えば何かの主張をする時には、メッセージの送り手は「皆が聞いている」と思って話をする。しかし、メッセージの受け手には「その送り手の話を聞く義務はない」。だから、話を最後までしてもしっかりと相手に伝わっているかどうかはわからない。むしろ、メッセージの送り手は「相手は聞いてくれていない」と思って送るべきだという話。

確かにそうだと思った。自分が話し手である場合、何か自分の良く知っていることについてを話す場合、往々にして相手もそれについて興味を持っていたり、知りたいと思っていると考えがちである。
しかし、その時本当に相手がそれについて興味を持っているかは分からないわけで、もしかしたらとても退屈に自分が生き生きと話すことを聞いているのかもしれない。相手には話を聞く義務はないのだから、自分の話をしっかりと相手に届けたい場合は、「相手は話を聞いてくれない」と思って、どうにかして相手に話を聞いてもらおうとして話をするべき。


②誰に、何を。
伝達する上で一番重要になることは、この「誰に、何を。」であるそうだ。ここがブレなければ、相手にメッセージを伝えられる。

参考として白土さんは、30年前のソニーのラジカセ広告のプレゼン資料を見せてくれた。ほんの8ページほどの資料で、これをそのままパンフレットにして全国に配ったものだそうで、十数億のお金が動いた資料なのだとか。で、この資料で述べていることは何かというと「中学生へ、音楽聴くならソニー。」というこ と。あとの部分はこの骨子をより分かりやすく、説得力を持たせるための「装飾部分」だった。

例えば自分の活動を伝えるときには、「相手が誰で」「何を伝えるか」を明確にしておく必要がある。自分の活動とはいえ、いろいろ多岐にわたって活動をしていることもある。そんなときには自分の一番伝えたい活動の内容を考える。そしてそれはなぜなのかを考える。するとその言葉は、コンセプトや理念という言葉に置き換えられるものになるかもしれない。ともかく、伝えるには「誰に、何を。」を考える。


③クリエイティブは天才の仕事ではなく、努力家の仕事
これは自分にとって勇気をくれた話だった(笑) 白土さん曰く、新しいものを生み出すのに必要なことは才能ではなく、努力の積み重ねなのだそうだ。白土さんはコピーライターとして長く活躍をされていたが、その時に「コレだ!」となる発想は、様々な情報を受けながらコピーについて考え続けた結果として生まれたものであったそう。「24時間、寝るとき以外は常に何か情報を探して考えていた」と白土さんは言っていた。

また白土さんは、クリエイティブとは「作ること」ではなく、「作る方法を見つけること」だと言う。例として挙げられていたのが、クロネコヤマトの不在届の紙。あの紙の一部が、猫の耳に切り取られているのをご存知か?あれを考えたのは、クロネコヤマトで働かれている障害者の女性だったそう。「普通の健常者にとっては同じでも、眼が不自由な障害者にとっては有用なものになるように」ということで、端を切り取ることで不在届だと分かるようにしたのだとか。「これは何かを作ることではないけれど、非常にクリエイティブなことだと思いませんか?」と白土さんは言う。この障害者の女性の方が、「障害者の視点から」業務を観察し、いろいろ考えた結果に新たな方法が見つかった。「このプロセスを指して"クリエイティブ"と呼ぶ」と白土さんは言われた。


④擬人法を使え
擬人法とは、とても便利な相手に印象を与える方法なのだとか。たとえば、

「ドアを開けると、彼が花束を持って立っていた。」

という文章を、

「花束がドアを開けた」

という擬人法を使った文章に置き換えてみる。こちらの方が、どこか「ドキっ」とさせられる文章になってはいないか。また、

「草木も眠る丑三つ時」

とかも、草木すらも寝ている時間ということで、何時を指しているかはパッとは分からなくても、かなりの深夜なのだろうなと予測させる。これが擬人法の力なのだとか。使ってみよう。


⑤ルールをどう破るか
僕としてはこの話が一番面白く、自分自身に目を向けることになった。白土さん曰く、「ルールを破る」ということは、「自分がやることは何かを認識した上で、それ以外は本当にしてはいけないことなのかを疑うこと」なのだそうだ。

最初に、400字の原稿用紙に「自分のいいところを書いてみてください」と言われた。なんかやるのだろうから、読み上げられても恥ずかしくない自分の側面を書いた。しかし、この問いの白土さんの一点。「原稿用紙に、「字」を書いたか否か。」

40人ほどいた教室の中で、唯一一人だけ、「自分のいいところを書いてみてください」という指示に対して「字以外の表現」で自分のいいところを表した。しかし、それ以外の人はみな、自分のいいところを「字」で表現した。白土さんは、これは「日本の高い教育による賜物」とする。僕たちはみな、小学校の頃から原稿用紙を出されれば、「字を書くもの」と判断し、行動をするように教えられてきた。学校の作文で、「字以外の表現」で作文を書いたりすれば、先生から厳しい問いただしを受けるだろう。「なぜこんなことをしたのですか?」と。

もちろんこれが間違っているわけではないし、原稿用紙は字を書くためのものでもある。しかし、「人に自分を伝える」というゴールを一番において考えてみれば、「字もまた、ひとつの手段ではないか。よりいい手段があるのではないか。」と考えられるのではないか。

今、友達とメールをやり取りする間、僕らは結構絵文字を使いますね。僕らは感覚的に、絵文字を使った方がより豊かな表現ができると知っているから使っているわけで、「人に伝える」ということに限っては、そういった「文字表現以外」を取り入れることも望ましいかもしれない。そこに行きつくためにも、まず疑うべきは、「この原稿用紙は字を書くためのもの。では、字以外を書いてはいけないのか?」ということ。そして、「NO!」という答えを出し、実際にやってしまうことが非常に大切になる。


⑥KY理論(絡みやすい理論)
これは白土さんの友人が唱える理論だそうだが、人に何かを伝えるにあたっては、「絡みやすさ」が大切になるそうだ。あえて突っ込み所を残しておく未完成さとも言える。例になるのが、ソフトバンクのCM。あれを見ると、「なんでお父さんが犬なの?」とか「なんでフランス語しゃべれんの?」「元人間なの!?」「犬も職業!?」とか、いろいろ突っ込み所が満載である。そのあえて隙を作っているところが「KY(絡みやすい)」ところだそうで、その部分を意図的に作れるかどうか(もちろん単に未完成なのと、あえて未完成なものとは違う)。それによってコミュニケーションに相手が入ってこれるかどうかも大きく変わってくる。



とても面白いイベントだった。会が終わって思ったことは、コミュニケーションの手法とは、「相手は聞いてくれないから、どうしたら相手が興味をくれるか。そして話を聞いてくれるか。」を色々考えて、フレームワークに落とし込んだものなのではないかなということ。そう考えると、「相手は聞く義務がないから聞いてくれない」ということを念頭に置いていれば、自分でもあの手この手で相手に自分のことを伝えられるかな~と思ったり。そして目的のために、ルールを破れるかということでもあり。

よかった。次は何を得られるか楽しみだ。



ライフセーバーボトル

これ、知ってますか?

lifesaverbottle.pngのサムネール画像のサムネール画像
これは「ライフセーバーボトル」なるもので、イギリスの会社が作ったんだと。
LIFESAVER system社HP

これは簡単に言うと、「携帯型すんごい浄水器」で、そこら辺の水を汲んで、裏にあるポンプを押すと、中に入っている微細なフィルターで汚物が濾過されて、飲めるようになるんだと。そのフィルターの穴はウイルスよりも小さいらしく、全てのウイルスを通さないから、(理論上は)どんな水でも飲めるようになるんだ!!!ということらしい。

これを作った社長さんは、被災地を見て「自分が何かをしなくてはならない」と考えた時に、「なんで目の前に水があるのに、新鮮な水を求めなくてはならないのか。」と思ったことがきっかけとなったと話していた。

僕も被災地の映像とかで水を求めて列を作っているのを見ると、よく思います。けど、それを解決するモノを作ってしまうところがすごい。

値段は日本円で2万~4万くらい(サイズによる)だそうです。日本ではまだ売っていないそうだけど、本当にきれいな水を飲めるのかな?また、イギリスの水とは硬度の違うものでも、しっかり浄水できるのかな?試してみたい。



イマ・ココの「遊び」を書いたら、Aがコメント・補足をくれました!!知見が広がる!!テンション上がる!!!



その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。

>うんうん。「デザインされている」はここではイコール「目的性の内に位置づけられている」っていうことね。あと、危機感っていうより違和感かな◎

Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞 かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipedia には「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもする が、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、 これが「遊び」なのだろうか?

>「遊び」は二つの意味で使われてるんだよね。一つは「行動様式として遊び」で、これは仕事、勉強、食事とかと並ぶ項目としての遊び。二つ目はその人が今どんな状態にあるかという意味での「存在様態としての遊び」。
「どっからどこまで?」っていう質問は、上の二つの区分を考えるいいポイントかなって思って。たぶん前者の行動様式として遊びを見たときは、「宿題終わったら遊ぼっかなー」みたいな言い方が出来る。一応時間軸でもだいたい区切れるわけだよね。で、たぶんこっちの解釈の方がいろんなビジネスとか教育 の対象になりやすいんよねたぶん。時間で区切れるとカリキュラム化出来るし、一つの行為のパッケージとして見られるからだから幼児教室で遊びを通じたお勉強なんてのもあるし、遊びを通じた何か。という発想が生まれると思うんだ。




その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされ てしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、 色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらさ れると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はず だった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことがで きれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える 対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

>「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」っていうのは、目的をもって与えられて遊んだ場合、その遊びが目的的になったり行為(意図的行動)に絞られてしまわないかという事ね。そもそも遊びに目的ってないはず(?)
「それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう」っていうのはちょっとちがうかも。商品玩具でも石ころでも、本来それを越えたところにおもちゃ性を見出すのは子供の十八番だよ。だから本当は、コドモ にとっては自然な事のはずなんだけど、大人の既成概念や説明書や教育的な目的性を帯びた環境要因などなどが作用してそれを難しくさせているんじゃないかなーって。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

>「様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」=>「様々なモノに元から与えられている意味や目的を剥がしたり塗りかえたりして、改めて素材化・おもちゃ化することが重要。」ってかんじかな◎

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコン だろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。

>よくおぼえてるね。w
そう、ボクらの生活にはモノが溢れていて、ほとんどすべてがデザインされているけれど、それに従う必要は無い。ましてや遊びの世界におけるモノのあり方、つまり「おもちゃ」の存在を考えるならなおさらの事よね。

面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、 色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽 しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるよう に作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。

>うん、そういうとこはもうさんざん作られてきたし注目されてきたじゃん。エンターテイメントとか、テーマパーク、テレビゲーム、ネットゲーム、知育玩具その他いろいろ。
でも、遊びの一番生々しくて土臭い人間くさい部分ってもっと違うとこにあるんじゃないだろうか!!というのが僕の叫びかな。別に商品玩具もエン ターテイメントも好きだし、自分のこどもにも買うとおもう。でも「遊び」を全体として論じるときに、なーんか大事なとこ忘れられてる気がしてさ。その辺の違和感が出発かな。



イマ・ココの「遊び」

先日、先輩に大学で有名な研究会の成果報告会に誘ってもらったので、行ってみた。

同学年の学生が何をしているのか全然知らなかった僕にとって、非常に刺激になる会だった。それぞれが自分の掲げる問題提起をしっかりと見つめ、それに対する自分のアプローチと達成するゴールを明確にする。そのゴールが問題提起や取ろうとしているアプローチから離れたところにあれば、容赦ない指摘により、議論が始まる。その中で、また徐々に自分が本当にやりたいと思っていることや念頭に置いていた問題提起が言語化されていき、その部分に自分が気づくことによって、さらに的確で、かつ自分でも気持ちのいい行動が取れるようになる。そこで発表したことや議論したことを実際に行動に移し、成果もあげている。l僕は大学ではどこの研究会にも所属していないので、こういう同学年での刺激し合う仲間関係が羨ましかった。来期はどこかの研究会に所属してみようかしら。


その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。


Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipediaには「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもするが、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、これが「遊び」なのだろうか?

その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらされると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はずだった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことができれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。

Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。

彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコンだろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。


面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)

もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるように作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。


面白い問題提起があったので、紹介しました。それにしても、「遊び」に対して問題提起か~。すごく楽しそう。それって遊んでんの?遊んでないの?


●ここに出てくるA君が、この記事に関して補足をくれました。A君、ありがとう!! 
イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~

CNETにこれまた面白い記事があった。gooランキングが発表した「いいアイデアが浮かぶと思う場所ランキング」では、洋式トイレが1位になったという。


1位は「洋式トイレ」--いいアイデアが浮かぶ場所ベスト20


まあこれも面白いんだけど、それより「へー」と思ったのは20位以内に「机の前」が入っていないこと!!「勉強とは机でするもの」と教えられてきた僕には、ちょっと新鮮。「覚える」勉強はともかく、物事を「考える」のに机なんていらないということでしょう。なんてここから学べることは、机で何か発想していて行き詰ったら、「とにかくその場を離れろ!」ということだろうか。

ただよく見ると、アンケートを取ったのは「いいアイデアが浮かぶ『と思う』場所」であり、さらに集計期間はたったの3日間。「経験上、ここならアイデアが浮かびますよ♪」と教えてくださった方は少なかったかもしれないが、それでもみんな、机の前はよろしくないと思ってるのかな??



プロフィール
  • name/林 賢司
  • birth/1986/04/18
  • belong/WINPEACE LLP
  • theme/「良さ」の追求
  • "My Accept"/自分の経験から目を背けずに、「その時の自分なりに」受け止めていくこと。
  • purpose/「その時の自分なり」の解釈・観察・感情の蓄積。
  • contact/kenji[at]monoraltype.com

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