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少し前の話になるが、大学の友人二人と飲んだ。
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
僕ら三人に共通していることは、「自分たちの働きで、社会を良いものにしよう」としていること。それぞれが頭に描いている「良くする」の定義や方法は違うが、その分それぞれの切り口から取り組んでいることを話すから、「こういう話があってさ~~、」と広がっていくのがとても面白い。何より「負けらんねー!」と思えることが、飲み会をしての一番の収穫になる。
その中の一人は、おもちゃの研究をしているtatsuwat。前にイマ・ココの「遊び」という記事で書いた友達。あの時は彼に初めて会ったので、「おもちゃを研究している人なんだな。しかも面白い考察でおもちゃを見てるんだな」くらいの認識だった。しかし今回話を詳しく聞いてみて、彼がどういういきさつでおもちゃに興味を持つようになり、そこからいかに「遊びの中のおもちゃ」を考えるようになっていったのかということを知って、より彼の考えに興味を持つようになった。
(話は変わりますが、前の時も今回も、彼自身が何をしているのかは知っていた。しかし今回彼の背景を知ることで、非常に深い興味を彼自身や彼の考え方に持つようになった。やはり過去の背景から自分を語るというのは、自分を印象付ける上では必要なことと言えそうですね。 →自分を語ることについて書いた記事「過去体験から、今の自分を話せる?」)
彼がおもちゃに興味を持つようになったのは、母親がふと買ってきた西洋おもちゃの本だったそうだ。色んな目的を持つおもちゃや変わった形をしたおもちゃ、とてもきれいなおもちゃなどが載っており、おもちゃに興味を惹かれて一時はデザイナーを志したという。しかし、ある時に手に入れた「世界の子供たちの遊ぶ様子」が載っている写真集には、彼の考えを一変させた写真が載っていた。それは、一本のゴムひもで遊び、これ以上ない笑顔で笑っている少女の写真と、その場所からすぐ隣のゴミ山で遊ぶ少女の写真。彼は「この笑顔を作るのにおもちゃが本当に必要なのか。むしろこのゴミ山を作る要因になるだけではないか。」と考えたという。
彼が気づいたところでは、彼がもともと目指していたのは、「おもちゃ自体」を作ることではなく、「子供が楽しく生き生きと遊ぶこと」だったそうだ。それならば、「楽しく生き生きと遊ぶこと」に本当に必要なことは何かを考え、そのための環境なり、社会システムを作る方がいい。少なくとも、「おもちゃ」はその内の一つの解答でしかない。そこから彼はそもそもの「遊び」について考え始めたのだそうだ。
お酒を飲んでいる中で、彼がカンボジアを訪れた時の写真を見せてもらった。その中に、小さな女の子が池を橋代わりに渡してある丸太の上で、一人で遊んでいる写真があった。日本であれば絶対に立入禁止であろう場所。でも、ここは子供たちにとってはとても魅力的な場所。
彼が言うには、「この橋はとても危険で、こんな小さな子が池に落ちたら本当に危ないかもしれない。それでも彼女たちはこういうところに行く。なぜか。「面白いから」。」
ある調査によると、公園で遊んでいる子供たちに、「この公園で危険な場所はどこか」と尋ねてその場所を地図に記してもらい、その後に「この公園で面白い場所はどこか」と尋ねると、大体が「危険な場所」と一致するのだそうだ。つまり、子供にとってはリスクがある場所ほど面白いのである。
カンボジアの子供たちはある程度のリスクは承知で、やりたいことをやりまくるそうだ。この少女の他にも、一本の電信柱にどちらが早く登れるかの競争をしている写真なんかもあった。足滑らせて落ちたら大変だろうにと思った。ただ彼らはリスクを踏まえたあらゆることの中で、創造性を発揮し、全てのものに「楽しみ」を見出し、「遊び方」を見出していく。(松岡正剛氏はこれが「編集の本質」だと言っていた。)道端には先進国からの支援物資のおもちゃが捨てられていた。彼らにとっての「遊び」は無限の可能性の中にあり、「おもちゃを通して遊ぶ」という選択肢も一時の楽しみにしかならない。
一方で日本に目を向けるとどうだろうか。日本では危ない所(リスクのある所)は行かせないようにする。少しでも危険であったら、その危険を排除し、「安全な中」で楽しい遊びをさせるように仕向ける。もちろん生命の安全は何よりも大切であることは言うまでもないが、日本の子供たちの遊びにはカンボジアの子供に比べ、安全が優先されすぎて制限が必要以上にあることもまた事実であるように思える。子供は本来好奇心を旺盛に抱えている。その好奇心ゆえに、少し危なそうなことでも挑戦したがる。それは、リスクがあるほうがスリルがあって楽しいという二者の関係を知っているからである。また同時に、彼らはそういうチャレンジの中で自分のキャパシティを拡げている。失敗や痛い経験を繰り返しながら、「遊び」に様々なルールや新しい遊び方を加えていく。またそこには日常をいかに楽しむかという観察力も身につけているといえると思う。「遊び」によって「創造性」や「観察力」がどれくら
いつくのかは分からないが、制限を受けている遊び方と、無制限に遊べる遊び方では、「子供にとって」はどちらが好ましいかは明確だと思う。
(ちなみに僕がよく覚えているのは、小学生の頃、友達と「冒険」に出掛けた。最寄りの駅までは自転車で行き、そこから思うままに歩いて冒険をした。結末は「迷子になった」。怒られることが分かり切った中で、「車で迎えに来てほしい」と親に伝えることが、怖かったという思い出がある。迎えに来た父親は激怒していた。)
少し穿った見方をすると、おもちゃとは「遊びに制限をつけるためのもの」とも言えなくもない。「ゲームをしててくれると静かで助かる」「おもちゃに夢中でいてくれれば手がかからないし、危険でない」など、大人視点から子供を操作する意味でのおもちゃという見方も生まれてくる。
もちろん、安全であることは大切である。怖いニュースも流れているし(それが昔に比べて増えているのかどうかは分からないけど)、一つの過ちが一生背負わざるを得ないものになるかもしれないし。だから、「安全でなくてもいい」とは決して言えないと思う。
また、どうなのかと思うところは、今の子供に「何で遊ぶのが一番好きですか?」と問いかけた時に、「テレビゲーム」という返答は、結構多いのではないかと思う。また、最近はネットゲームなどでは世界中の人と対戦できたりする。そこでの遊びに自分を没頭させる方が、子供にとっては気持ち良かったり、楽しかったりするかもしれない。子供の気持ちを優先すると、この辺りにはまってしまいそうで、でもここにはまらせないとするならば、それは大人の思惑で・・・。いや、先に子供にゲームの魅力を与えてしまう方がいけないのか・・・??自分が何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。
ただ、僕はもともとテレビゲームが好きなので、おもちゃは無くていいとは全く思わない。しかし「おもちゃ」が「どこか」に制限をかけてしまっているのではないかというのも一つの考え方として、おもちゃとの付き合い方を一度考え直してみてもいいかもしれない。
自分がパパになるまで、よく考えておこうと思う。
下記、tatsuwatのblogと彼が高校2年の時に作った「あそびの王国」というウェブサイト。この「あそびの王国」は大人視点と子供視点から「あそび」について考えられるウェブサイトになっていて、とても面白い。大人視点では、「あそび」についての問題提起や、親がどのように今の「あそび」について思っているかがまとめてあり、子供視点では今昔の「あそびかた」の紹介や、言葉についてなどが載せられている。詩には、谷川俊太郎氏の作品も紹介されている。今のtatsuwatの視点とは異なる部分もあるそうだが、個人的にはとても参考になるサイトだと思う。
→blog「おもちゃ論の覚え書き」
→あそびの王国
ポニョ、すごい人気ですね。
「ポニョ」1000万人突破=公開41日目で-東宝
で、ポニョを見てきたんですけど、正直「ん?」って感じでした。見てて非常に微笑ましくなりましたが、僕的にはストーリー展開が早過ぎる気がしました。話の設定がよく分からなかった。
その一方で、子供たちから見るとこれくらいストーリーの展開が早い方が、わかりやすいのかなとも思った。なんとなく「海が汚れている」というメッセージも入っている気がしたし、「挨拶はしっかりね!」とかそういうメッセージもあった。これはまさに「子供のための映画」。大人向けの映画ではないので、大人が分かる必要はないのです。
映画全体を通して面白いなあと感じたことは、「ポニョがわがままを貫き通した」ということ。話はドタバタと進んでいく感じがするのだが、その中でポニョの純粋でやりたい!という想いが中心に一直線に進んで行ったイメージ。
また、宮崎映画の特徴(?)の、「美しく強いお母さん」も健在だった。肝っ玉母さんここにありって感じですよね。宮崎駿の映画って。
そう考えてみると、大人としてもポニョの純粋さに非常に微笑ましくなり、心を温めてもらえる映画であることは間違いない。今までの宮崎映画とは違うのだから、今回は「子供になりきって楽しまなければいけない」、ということですな。
「ポニョ」1000万人突破=公開41日目で-東宝
で、ポニョを見てきたんですけど、正直「ん?」って感じでした。見てて非常に微笑ましくなりましたが、僕的にはストーリー展開が早過ぎる気がしました。話の設定がよく分からなかった。
その一方で、子供たちから見るとこれくらいストーリーの展開が早い方が、わかりやすいのかなとも思った。なんとなく「海が汚れている」というメッセージも入っている気がしたし、「挨拶はしっかりね!」とかそういうメッセージもあった。これはまさに「子供のための映画」。大人向けの映画ではないので、大人が分かる必要はないのです。
映画全体を通して面白いなあと感じたことは、「ポニョがわがままを貫き通した」ということ。話はドタバタと進んでいく感じがするのだが、その中でポニョの純粋でやりたい!という想いが中心に一直線に進んで行ったイメージ。
また、宮崎映画の特徴(?)の、「美しく強いお母さん」も健在だった。肝っ玉母さんここにありって感じですよね。宮崎駿の映画って。
そう考えてみると、大人としてもポニョの純粋さに非常に微笑ましくなり、心を温めてもらえる映画であることは間違いない。今までの宮崎映画とは違うのだから、今回は「子供になりきって楽しまなければいけない」、ということですな。
今、オリンピックのブラジル対アルゼンチンのサッカーの試合を見ながら、このブログを書いている。うまいなあー。日本のチームとどこが違うのだろう。1日 24時間という自転の決めたルールは世界共通なのだから、練習量が違うとかいう話にはならないだろう。(たった今、ブラジルが2枚目のレッドカードを受ける!11人対9人の試合になってしまった!)でも、見ててなんか全体的にスピードがあるし、後半になってもスピード落ちないし。カメラマンの写し方が違うのかなとも思ってしまう。(→サッカーに詳しい方、ご意見などいただければ幸いです。)
さて、試合を見てて、ホームレスワールドカップを思い出した。ホームレスワールドカップは、フィールド3人、キーパー1人の4対4のフットサル(?)の試合になり、今見てるサッカーの試合のようにフィールドを広々と使って試合をすることはない。ただ、レベルは高い。
これはホームレスワールドカップの2007年メルボルン大会の映像。このサイトの質の高さによって、装飾されている部分もあるかと思うが、ホームレス状態にいる人が、非常に生き生きとサッカーをしているのが分かる。
先日、「ホームレス」という人種はいない。という記事を書いたが、これを見ていても、「ホームレス」という人種はいないんだなーと感じる。そこでプレイする姿は、もはや「一サッカー選手」として僕の目に写る。
また、2006年のケープタウン(南アフリカ)大会に参加した選手への聞き取り調査では、92%が新たに生きる意欲が沸いたと答え、また78%が麻薬やアルコール依存症を克服し、仕事に就いたり、家族との絆を取り戻したりと、人生を好転させることができたと答えたという。
それを考えると、スポーツは不思議な力を持っているんだなと、改めて思う。「一生懸命スポーツに取り組むこと」が、人生を好転させるきっかけになることもある。4年に1度のスポーツの祭典が行われている今だからこそ、なんらかの形でスポーツに関わっていくのもいいかな~、と。この不思議な力というのは、どこかで「遊び」につながらないものかしら?
さて、試合を見てて、ホームレスワールドカップを思い出した。ホームレスワールドカップは、フィールド3人、キーパー1人の4対4のフットサル(?)の試合になり、今見てるサッカーの試合のようにフィールドを広々と使って試合をすることはない。ただ、レベルは高い。
これはホームレスワールドカップの2007年メルボルン大会の映像。このサイトの質の高さによって、装飾されている部分もあるかと思うが、ホームレス状態にいる人が、非常に生き生きとサッカーをしているのが分かる。
先日、「ホームレス」という人種はいない。という記事を書いたが、これを見ていても、「ホームレス」という人種はいないんだなーと感じる。そこでプレイする姿は、もはや「一サッカー選手」として僕の目に写る。
また、2006年のケープタウン(南アフリカ)大会に参加した選手への聞き取り調査では、92%が新たに生きる意欲が沸いたと答え、また78%が麻薬やアルコール依存症を克服し、仕事に就いたり、家族との絆を取り戻したりと、人生を好転させることができたと答えたという。
それを考えると、スポーツは不思議な力を持っているんだなと、改めて思う。「一生懸命スポーツに取り組むこと」が、人生を好転させるきっかけになることもある。4年に1度のスポーツの祭典が行われている今だからこそ、なんらかの形でスポーツに関わっていくのもいいかな~、と。この不思議な力というのは、どこかで「遊び」につながらないものかしら?
イマ・ココの「遊び」を書いたら、Aがコメント・補足をくれました!!知見が広がる!!テンション上がる!!!
その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。
>うんうん。「デザインされている」はここではイコール「目的性の内に位置づけられている」っていうことね。あと、危機感っていうより違和感かな◎
Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞 かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipedia には「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもする が、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、 これが「遊び」なのだろうか?
>「遊び」は二つの意味で使われてるんだよね。一つは「行動様式として遊び」で、これは仕事、勉強、食事とかと並ぶ項目としての遊び。二つ目はその人が今どんな状態にあるかという意味での「存在様態としての遊び」。
「どっからどこまで?」っていう質問は、上の二つの区分を考えるいいポイントかなって思って。たぶん前者の行動様式として遊びを見たときは、「宿題終わったら遊ぼっかなー」みたいな言い方が出来る。一応時間軸でもだいたい区切れるわけだよね。で、たぶんこっちの解釈の方がいろんなビジネスとか教育 の対象になりやすいんよねたぶん。時間で区切れるとカリキュラム化出来るし、一つの行為のパッケージとして見られるからだから幼児教室で遊びを通じたお勉強なんてのもあるし、遊びを通じた何か。という発想が生まれると思うんだ。
その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされ てしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、 色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらさ れると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はず だった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことがで きれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える 対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。
>「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」っていうのは、目的をもって与えられて遊んだ場合、その遊びが目的的になったり行為(意図的行動)に絞られてしまわないかという事ね。そもそも遊びに目的ってないはず(?)
「それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう」っていうのはちょっとちがうかも。商品玩具でも石ころでも、本来それを越えたところにおもちゃ性を見出すのは子供の十八番だよ。だから本当は、コドモ にとっては自然な事のはずなんだけど、大人の既成概念や説明書や教育的な目的性を帯びた環境要因などなどが作用してそれを難しくさせているんじゃないかなーって。
Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。
>「様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」=>「様々なモノに元から与えられている意味や目的を剥がしたり塗りかえたりして、改めて素材化・おもちゃ化することが重要。」ってかんじかな◎
彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコン だろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。
>よくおぼえてるね。w
そう、ボクらの生活にはモノが溢れていて、ほとんどすべてがデザインされているけれど、それに従う必要は無い。ましてや遊びの世界におけるモノのあり方、つまり「おもちゃ」の存在を考えるならなおさらの事よね。
面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、 色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽 しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)
もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるよう に作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。
>うん、そういうとこはもうさんざん作られてきたし注目されてきたじゃん。エンターテイメントとか、テーマパーク、テレビゲーム、ネットゲーム、知育玩具その他いろいろ。
でも、遊びの一番生々しくて土臭い人間くさい部分ってもっと違うとこにあるんじゃないだろうか!!というのが僕の叫びかな。別に商品玩具もエン ターテイメントも好きだし、自分のこどもにも買うとおもう。でも「遊び」を全体として論じるときに、なーんか大事なとこ忘れられてる気がしてさ。その辺の違和感が出発かな。
その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。
>うんうん。「デザインされている」はここではイコール「目的性の内に位置づけられている」っていうことね。あと、危機感っていうより違和感かな◎
Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞 かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipedia には「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもする が、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、 これが「遊び」なのだろうか?
>「遊び」は二つの意味で使われてるんだよね。一つは「行動様式として遊び」で、これは仕事、勉強、食事とかと並ぶ項目としての遊び。二つ目はその人が今どんな状態にあるかという意味での「存在様態としての遊び」。
「どっからどこまで?」っていう質問は、上の二つの区分を考えるいいポイントかなって思って。たぶん前者の行動様式として遊びを見たときは、「宿題終わったら遊ぼっかなー」みたいな言い方が出来る。一応時間軸でもだいたい区切れるわけだよね。で、たぶんこっちの解釈の方がいろんなビジネスとか教育 の対象になりやすいんよねたぶん。時間で区切れるとカリキュラム化出来るし、一つの行為のパッケージとして見られるからだから幼児教室で遊びを通じたお勉強なんてのもあるし、遊びを通じた何か。という発想が生まれると思うんだ。
その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされ てしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、 色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらさ れると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はず だった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことがで きれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える 対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。
>「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」っていうのは、目的をもって与えられて遊んだ場合、その遊びが目的的になったり行為(意図的行動)に絞られてしまわないかという事ね。そもそも遊びに目的ってないはず(?)
「それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう」っていうのはちょっとちがうかも。商品玩具でも石ころでも、本来それを越えたところにおもちゃ性を見出すのは子供の十八番だよ。だから本当は、コドモ にとっては自然な事のはずなんだけど、大人の既成概念や説明書や教育的な目的性を帯びた環境要因などなどが作用してそれを難しくさせているんじゃないかなーって。
Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。
>「様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」=>「様々なモノに元から与えられている意味や目的を剥がしたり塗りかえたりして、改めて素材化・おもちゃ化することが重要。」ってかんじかな◎
彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコン だろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。
>よくおぼえてるね。w
そう、ボクらの生活にはモノが溢れていて、ほとんどすべてがデザインされているけれど、それに従う必要は無い。ましてや遊びの世界におけるモノのあり方、つまり「おもちゃ」の存在を考えるならなおさらの事よね。
面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、 色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽 しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)
もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるよう に作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。
>うん、そういうとこはもうさんざん作られてきたし注目されてきたじゃん。エンターテイメントとか、テーマパーク、テレビゲーム、ネットゲーム、知育玩具その他いろいろ。
でも、遊びの一番生々しくて土臭い人間くさい部分ってもっと違うとこにあるんじゃないだろうか!!というのが僕の叫びかな。別に商品玩具もエン ターテイメントも好きだし、自分のこどもにも買うとおもう。でも「遊び」を全体として論じるときに、なーんか大事なとこ忘れられてる気がしてさ。その辺の違和感が出発かな。
先日、先輩に大学で有名な研究会の成果報告会に誘ってもらったので、行ってみた。
同学年の学生が何をしているのか全然知らなかった僕にとって、非常に刺激になる会だった。それぞれが自分の掲げる問題提起をしっかりと見つめ、それに対する自分のアプローチと達成するゴールを明確にする。そのゴールが問題提起や取ろうとしているアプローチから離れたところにあれば、容赦ない指摘により、議論が始まる。その中で、また徐々に自分が本当にやりたいと思っていることや念頭に置いていた問題提起が言語化されていき、その部分に自分が気づくことによって、さらに的確で、かつ自分でも気持ちのいい行動が取れるようになる。そこで発表したことや議論したことを実際に行動に移し、成果もあげている。l僕は大学ではどこの研究会にも所属していないので、こういう同学年での刺激し合う仲間関係が羨ましかった。来期はどこかの研究会に所属してみようかしら。
その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。
Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipediaには「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもするが、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、これが「遊び」なのだろうか?
その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらされると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はずだった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことができれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。
Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。
彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコンだろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。
面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)
もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるように作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。
面白い問題提起があったので、紹介しました。それにしても、「遊び」に対して問題提起か~。すごく楽しそう。それって遊んでんの?遊んでないの?
●ここに出てくるA君が、この記事に関して補足をくれました。A君、ありがとう!!
→イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~
同学年の学生が何をしているのか全然知らなかった僕にとって、非常に刺激になる会だった。それぞれが自分の掲げる問題提起をしっかりと見つめ、それに対する自分のアプローチと達成するゴールを明確にする。そのゴールが問題提起や取ろうとしているアプローチから離れたところにあれば、容赦ない指摘により、議論が始まる。その中で、また徐々に自分が本当にやりたいと思っていることや念頭に置いていた問題提起が言語化されていき、その部分に自分が気づくことによって、さらに的確で、かつ自分でも気持ちのいい行動が取れるようになる。そこで発表したことや議論したことを実際に行動に移し、成果もあげている。l僕は大学ではどこの研究会にも所属していないので、こういう同学年での刺激し合う仲間関係が羨ましかった。来期はどこかの研究会に所属してみようかしら。
その中で、昼食の時にそこで「おもちゃ」についての研究をしているAら数名と、「遊び」について話をした。彼も僕と同学年。彼は、現在のデザインされた「おもちゃ」やそれに基づく「遊び」について、危機感を抱いているという。
Aは、「「遊び」というのは、イマ・ココでのみ行われる創造的行為であるべき」だと言う。「遊びってどこからどこまでを言うのか、分かる?」と聞かれたが、そう聞かれてみると、良く分からない。何かに取り組み始めた瞬間を、遊びというのか?しかし、何も取り組まない遊びもある。wikipediaには「遊びは目的を持って生物がする行動の総称」と書いてあったが、「遊び」の行為自体に目的はないことはままある。楽しいことが遊びという感じもするが、遊んでいて楽しいことばかりじゃなかった記憶もあるし、仕事でパソコンを叩いていることの方が楽しいことも多い。これは遊びに入るような気もするが、これが「遊び」なのだろうか?
その中で、Aが問題視しているものは、「例えばおもちゃを与えた場合、遊びの始まりと終わりが限定され、さらにその目的や行為自体もデザインされてしまう」ということ。つまり、何もない状態での「遊び」はどこからどこまでか分からない状態、また何をすれば遊びなのかも分からない状態のものだから、色々なことを、色々な方法で取組み、個人個人それぞれがその行動を「遊び」と認識する。しかし、目的を持ってデザインされたおもちゃがその遊びに関わらされると、そのおもちゃによって遊びの方向性や、やり方、始まりから終わりまでが決められてしまう。それでは、イマ・ココでのみ行われる(生まれる)はずだった遊びが、そのおもちゃが開発されたその時から、一様に同じになってしまう。もちろんそのおもちゃの目的・使い方を超えた新しい使い方を生むことができれば、それは遊びの創造的行為となるが(パッと思いついたのは、縄跳びをムチとして使うこととか??)、それを超えるのは容易ではなく、またその超える対象としてそのおもちゃが存在してしまうため、今までのような自由な遊びは無くなってしまう、ということだそうだ。
Aは、「元来遊びは、イマ・ココの創造的行為であった。デザインにより遊びを狭められたら、つまらないだろう?それを作ったヤツに遊びを制限されてしまうなんて。そうじゃなく、様々なモノを遊びのツールとして捉えることが重要。」だと言う。
彼が今後行おうとしている企画が、「手持ちの全てのモノを、コマにしてみろ」というもの。カバンだろうが、メガネだろうが、靴だろうが、パソコンだろうが(これはちょっとヤダ)、なんでもコマにしようと思えばできる。回そうと思えば回せる。コマは回すために作られたから回りやすいけど、そんなんいくらでも乗り越えることができるということを伝えたいんだと言う。
面白いですよねー。今までこんなに「遊び」についてを考えたことはなかったです。よくよく考えてみると、テレビゲームなんてのはもちろんのこと、色々な遊びについても、デザイナーの人とかがデザインしていて、その制作物(おもちゃ)に「遊ばれている」とも表現できますよね。そうではなくて、イマ・ココの創造性による「遊び」でこそ、自分で「遊んでいる」とも言えるし、メリットとしては一つのものから多様な遊び方を発見できる洞察力や色んなことを楽しくできる創造性もつくかもしれない。テレビゲームと野球しかやらなかった僕には、わからないですけど(笑)
もっとも、おもちゃによる遊びが悪いわけではないですよね。おもちゃやゲームによって、どんなに娯楽性が増えたことか!!また、頭が良くなるように作られたおもちゃ(知恵の輪)とかもあるし、また、wikipediaの言うように「何のために遊ぶか」を重視すれば、自分で創造的に遊ぶより、おもちゃに「遊ばれた方が」全然いい時もある。
面白い問題提起があったので、紹介しました。それにしても、「遊び」に対して問題提起か~。すごく楽しそう。それって遊んでんの?遊んでないの?
●ここに出てくるA君が、この記事に関して補足をくれました。A君、ありがとう!!
→イマ・ココの「遊び」 ~Aからの補足~

